皇室継承問題 男系論は男女差別論

 即位の礼が行われ、皇室継承問題が、いよいよ議論となる。しかし、相変わらず、皇室の伝統を「重視」する人たちの意見を聞いていると、不思議な感にとらわれる。そして、興味深いことに、伝統主義者のいうことを実施すれば、それだけ皇室の継承は困難になることが、明白となっている。もしかしたら、それを狙っているのだろうかと勘繰りたくなるほどだ。
 何が不思議か。男系論は、明確な女性差別の立場である。今の世の中で、女性差別を「理念」として承認する余地はない。もちろん、具体的な事例で、女性差別か否かが問われることはあるだろう。しかし、男系の人のみが、ある地位を継承できるというのは明らかに女性差別であろう。何故、皇室が女性差別である男系で継続してきたのか、それは、歴史のほとんどが女性差別的原理で成り立っていたからだ。階層によって、その程度は異なるにせよ、記録に残っている歴史上、女性差別もなく、男性優位でもなかった社会は、市民革命以前は、存在しない。日本においては、憲法的に男女平等が確立したのは、第二次大戦後である。
 戦後、天皇は、憲法上、国民の総意に基づく存在となり、日本社会は男女平等になった。だから、天皇が、現代社会において存立するためには、男女平等原則を受けいれるしかないのである。受けいれられないのであれば、現代社会には適合しないシステムとして廃止されるはずのものだ。 “皇室継承問題 男系論は男女差別論” の続きを読む

オランダの学校で不思議な体罰騒動

 オランダの小学校(基礎学校といって、幼稚園を含んだ8年制)で、奇妙な騒動が起きている。
 当初NHニュースというウェベサイトに情報が掲載された。
 創立してから50年経つ学校で、子どもたちが、ある教師によって嘲笑され、杖で突つかれ、そして、食事をトイレの中で、あるいは、床に座らせられて犬のように食べさせられたという訴えが、親からなされた。とんでもない事態ということだろう、直ちに、その教師は登校を許されず、第三者委員会へ調査が依頼された。校長は、ショックを受けていること、その教師は長年さまざまなクラスを受け持っている教師であること、調査を待っていることなどを述べている。オランダの小学校では、教師は、学校が変わることもない上に、担当学年も固定されていることが多い。それが、教師の停滞を生んでいるという批判もあるところだが、教えることを繰り返すので、熟達するという面もある。しかし、この教師は、いろいろな学年を担当していることで、意欲的であることが感じられる。
 当然親たちは不安になって、学校の近くでコーヒーを飲みながら情報交換をし合っている。校長は心労で倒れてしまい、新しい校長が赴任している。
 ところが、批判された教師を擁護する親たちが表れ、そんな事実は子どもたちから聞いていないし、作り話なのではないかと発言しているというのである。その発言そのものを確認することができないので、おそらく、閉鎖的なサイトに書き込んでいるか、電話をかけているのだろう。そうした親たちは、匿名で発言していると書かれている。 “オランダの学校で不思議な体罰騒動” の続きを読む

歌舞伎の人材リクルート 世襲制度では無理

 MSNのサイトに、女性セブンの記事が掲載されていた。歌舞伎の人手不足に関する話題で、「海老蔵、ブログ経由の弟子が廃業か 人材確保の困難さ示す」という記事だ。(2019.10.25)
 歌舞伎役者にどうしてもなりたかったA君の母親が、海老蔵のブログにコメントを書いたことがきっかけで、海老蔵に弟子入りすることができた。入門前から、海老蔵ファンの間で話題となる「逸材」だったそうだ。記事によると、一般家庭の子どもが歌舞伎役者になるためには、独立行政法人「日本芸術文化振興会」で、中卒から23歳以下を対象にした2年間の研修を修了するか、直接、歌舞伎役者の弟子になるという2通りの道があるのだそうだ。更に、小さい子どもの場合には、4~10歳を対象にした「歌舞伎スクール寺子屋」を修了すれば、幹部俳優の楽屋に預けられる「部屋子」になる道がある。11歳だったA君は、どちらも該当しなかったので、母親が捨て身の策に出たというわけだ。そして、海老蔵自身が、非常にA君をかっていて、ブログでも紹介していたという。しかし、結局、歌舞伎の道を諦めて、辞めた。 “歌舞伎の人材リクルート 世襲制度では無理” の続きを読む

神戸市須磨区の教師間いじめ(再論)

 まだまだこの話題が継続している。今日(25日)のテレ朝羽鳥のモーニングショーで、詳しく扱っていて、和田中の校長として有名になった藤原和博氏がコメンテーターで出演していた。23日には、尾木直樹氏が登場していたから、多様な立場のコメンテーターが出ている。朝のテレビなので、詳細は憶えていないが、いくつか気になることがあった。
 この二日で主に話題になったのは、教育委員会と、人事のあり方だった。
 正確な数値を憶えていないのだが、500人強の教育委員会事務局人員がいて、160名程度が現場の教師だった人だということだった。ずいぶん多い印象だ。そして、現場の教師だった人は、数年教育委員会で、現場を指導する仕事をしたあとで、校長として学校現場に戻ることが多い。これは、どこでも同じような仕組みになっている。 “神戸市須磨区の教師間いじめ(再論)” の続きを読む

『教育』2019.11を読む 通信制高校の可能性と課題

 2019年11月号は、「改革ラッシュに揺らぐ高校教育」と「教育の『無償化』ってほんと?」というふたつの特集になっている。今回は、西村貴之氏の「通信制高校の可能性と課題」という論文を素材に考えていきたい。通信制高校がどの程度の認知度があるかはわからないが、2018年度に252校、18万の生徒が存在している。公立が78校、私立が174校で、生徒の7割が私立だという。西村氏も指摘しているが、通信制高校は、全日制高校や定時制高校に通うことが、何らかの理由でできない生徒が在籍していると考えられる。例外的に、はじめから、通信制高校の魅力に惹かれて、あえて全日制ではなく、通信制を選択する生徒がいないとはいえないが、多くは、通常の高校に入学したが、不登校になった生徒であろう。私立に通う9割がそうした生徒と考えられ、年齢も通常の高校生と同じだそうだ。また、高校を中退して、高卒資格をえていない成人が、資格をとるために学ぶ者もいる。そうした生徒は、公立に多いという。 “『教育』2019.11を読む 通信制高校の可能性と課題” の続きを読む

流山のいじめ放置

 昨日から、メディアを賑わせている「流山いじめ放置事件」とでもいう事態について、触れないわけにはいかない。私自身、流山の住民だから。まだ、詳細はわからないが、流山市の小学校で、6年生が酷いいじめを受けた。犯罪ともいえるようなこともあったらしい。学校への対応を保護者は求めたが、適切な措置はとられず、重大事態として届ける義務がある欠席30日以上に該当したにもかかわらず、届出をせず、事実と異なる23日欠席という記録にしていた。卒業して、中学に進学してもいじめは継続し、自殺を考えたほど深刻な状況が継続していた。市のいじめ問題を調査する専門家会議の責任者であった千葉大学の藤川教授が、申し入れをして初めて、重大事態と認めたが、それでも第三者委員会を開かず放置したために、藤川教授が記者会見を開いて明らかにしたという経緯のようだ。 “流山のいじめ放置” の続きを読む

新学習指導要領で「鎖国」がなくなるというが

 いろいろなところで、新学習指導要領になると、当たり前のように教えられてきた「鎖国」が教えられなくなる、「鎖国」という言葉は消えると書かれている。何故、そう書かれたりするのか、私には、ちょっと理解できないでいる。
 念のため、平成29年に改訂され、平成32年(令和2年)から施行される中学校の学習指導要領には、以下のように書かれている。

 イ  江戸幕府の成立と対外関係  江戸幕府の成立と大名統制,身分制と農村の様子,鎖国などの幕府の 対外政策と対外関係などを基に,幕府と藩による支配が確立したことを 理解すること。

 「鎖国」という言葉は入っているし、付帯文書ともいうべき「解説」にも書かれている。これは、文科省のホームページで確認することができる。
 もちろん、「鎖国」ということの理解に、変化があることは確かである。特に影響があったと思われるのは、ロナルド・トビ氏が書いた小学館の歴史講座9の「鎖国という外交」という書物がある。 “新学習指導要領で「鎖国」がなくなるというが” の続きを読む

トロッコ問題再論

御田寺 圭氏の『「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会』という文章が掲載されている。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%ef%bd%a2人を助けず、立ち去れ%ef%bd%a3が正解になる日本社会/ar-AAJ4zMH?ocid=spartandhp#page=2)
 以前岩国市での特別授業で、子どもが不安になったというクレームで、教委が謝罪した件を批判的に扱った文章である。この文章の趣旨は、何か新しいことをやろうとすれば、不安はつきものであり、ごく少数の不安でも、不安を呼び起こすようなことをやるなというのでは、何も新しいことはできない。困っている人がいたら、助けるのではなく、逃げることだということになってしまうという批判である。
 しかし、これは、この問題を曲解している。前にこのブログでも書いたが、この岩国の授業は、新しいことをやろうとしたことで不安を呼び起こしたわけでもなく、そのことで批判されるべきものでもない。違う側面で批判される内容があった。
 御田寺氏のいうように、トロッコ問題は、古くからある有名なもので、倫理や正義の問題を考える材料として扱われている。そのためには、たくさんのバリエーションをあわせて提示する必要がある。サンデル氏が行ったように、同じ人が全く逆の選択をしてしまうという結果から、どうしてそういう違う判断が出てくるのか、その判断の基礎にあるものは何か、ということを考えさせるための素材である。そして、この材料を使って授業をするのは、それほどやさしくない。 “トロッコ問題再論” の続きを読む

学修成果の可視化 文科省の進める大学改革の不毛

 21世紀になって、官庁の統廃合の結果として生まれた文部科学省。それまでは文部省と科学技術庁だったふたつが統合されてできたわけだが、文科省になってからの大学に対する指導、あるいは介入は次第に強まっている。かつて文部省tが、教育行政当局として積極的に関与していたのは、高校までであった。もちろん、大学政策はあったが、やはり大学の自治が尊重されていたといえる。しかし、2004年に国立大学が法人化されたころから、少しずつ大学への文科省の管理的介入が増えてくる。認証評価などが皮切りだっただろうか。今では、シラバスなど、形式的なことだが、本当に細かいことにも口出しをしてくる。そして、そうしたひとつとして、「学修成果の可視化」なる取り組みがある。
 いくつかの大学の広報や推奨プログラムを見てみたが、首をひねるようなものばかりだ。とにかく、ある種の「形式」を押しつけて、これを実施せよ、しないと補助金を出さないというような「誘導」をしてくるわけである。 “学修成果の可視化 文科省の進める大学改革の不毛” の続きを読む

教育実習生への叱責 「怒るべきとき」ってあるのか

 昨日18日の読売新聞に、「 他の教員らの前で「こんなことも出来ないのか」…教育実習の男性、抑うつ状態に」と題する記事が出ている。日頃教育実習生を送り出している側として、似たような事例に遭遇することがある。もちろん、大多数の実習生は、よいアドバイスを受けて、最初はうまくできない授業も、少しずつ自信がもてるように成長するものだ。しかし、たまに、指導の教員とうまくいかず、納得ができないまま帰ってくるものもいる。
 普通、優秀な教員が実習生を指導するものだろう。だから、自分なりのやり方をもっているし、つたない実習生の授業が歯がゆく感じる場合が多いはずである。しかし、なかには、自信過剰だからか、自分のやり方をむやみに押しつける指導の教員がいる。教え方は、多様性があるはずだから、実習生の考えも尊重しながら、指導してほしいと思うのだが。それはまだよい。一番送り出し側としてこまるのは、実習生がうまくできないことを、子どもたちの前であげつらったり、あるいは、途中で授業を取り上げて、自分で始めてしまう教員がいることである。 “教育実習生への叱責 「怒るべきとき」ってあるのか” の続きを読む