免許更新制10年 その効果は?

 12月9日の神戸新聞に「教員免許更新制10年 資質の向上、乏しい効果」と題する記事が掲載されている。もう10年になるのかという感じだ。私は最近は全く関わっていないが、大学でやらなければならないことになった最初からしばらく担当していた。記事の趣旨は、最初の文章につきている。

 「かつては一度取得すれば終身有効だった教員免許に、10年に1度の「更新制」が導入されてから10年が過ぎた。目的は教員としての資質を高めることにあったが、導入以降も体罰やわいせつ行為などで懲戒処分を受ける教員数は高止まりし、大きな変化は見られない。神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題でも教員の質が問われる中、専門家からは効果を疑問視する声が出ている。(堀内達成)」

 ちゃんと署名がしてある記事だ。
 私の印象では、大学全体として、当初から反対であった。正直嫌々やってたと、私は感じているし、また、私自身がそうだった。何故か。それはいろいろな理由がある。教師よりももっと専門性の高い職業があるのに、免許更新のために講習を受けなければならないものは、ほとんどない。医師にしても、看護師にしても、永久免許である。弁護士などもそうだ。それなのに、何故教師が、という疑問は、誰でもいだくだろう。しかも、義務として課せられるのに、受講者自身が費用を負担しなければならない。当然、大学は慈善事業をしているわけではないから、ある程度の利益を出す必要がある。終身の免許を発行しておいて、途中から、期限付きだなどと制度を変更してしまうのは、乱暴なやり方ではないか。
 そうしたこともあるが、なんといっても大きな理由は、そもそも膨大な受講生がいるわけだから、どうしても、講演形式にならざるをえない。そういう講演などをきいて、現場の切実な問題を解決するための参考になるようなことなど、提供できるはずがないのである。少人数で、つまり大学でのゼミ形式で、じっくり時間をかければ、それなりの成果を期待できるだろう。予め文科省が定めた、講習内容の規定があり、それにそった講習内容にする必要がある。それはかなり広範囲にわたっている。そして、ひとつのテーマの講義は一回のみである。それが必修で、他に選択科目があり、それは大学が比較的自由に設定できる。文科省に計画を提出して承認される必要があるが、少なくとも私の大学の計画では、だめだしが出たことはほとんど記憶にない。しかし、それとても、教員養成に普段かかわっているわけではない、他の専門領域の教師が、自分の専門にそった講義をするので、これもまた、かなり多様なテーマがある。一人で選択科目の単位をこなすのは大変だから、多くの場合、2,3人で分担する。つまり、ほとんどの講習は、1回90分の講演を次々に聞いていくだけなのである。もちろん、大学側もお金をとる以上、いいかげんにやっているわけではない。そして、受講生だって、お金を払っており、さまざまな問題を抱えながら実践をしているわけだから、真剣に聞いているし、なんらかの「成果」を感じていることも間違いない。しかし、そのような連続講義を聴講して、いじめ対応や授業の能力が目にみえて向上するなどと、期待しようがないではないか。
 他にも効果があがらないことが充分に予想されることがある。それは、原則校長や教頭などの管理職は免除されていることだ。優秀な教師と認定されると免除されることもある。その認定は、誰がどのような基準でするのか、よくわからない。おそらく、それほど多数の免除者はいないのだと思うが、問題は校長や教頭の免除である。いじめによる自殺など、非常に深刻な事例は、多くが管理職の、学校運営のまずさが、なんらかの形で影響している。校長や教頭は、もちろん年配者が多いので、文科省のいじめの定義にこめられた意味など、実は理解している者が少なくないのだ。昔ながらの感覚で指導している人も少なくない。そういうひとたちこそ、講義で新しい状況などについて学べば、得るところが多いはずである。私たちは、「校長たちこそ、受講すべきだ」とよくいっていたものだ。

 政府とか、行政機関が決めたり、実行したりしている「講習」「研修」で、本当に教師に役立つようなものは、ほぼないといえる。これは、現場の教師の率直な声を聴けば、わかることである。例えば、企業などの職場、あるいは配置転換があるような職場で、新しく配置されたときに、その仕事内容に関する研修を受けるのは、絶対に必要だろう。しかし、教師には、そうした意味での配置転換は存在しない。職場(学校や学級)が変わっても、基本的にやることは同じだ。だから、上から、こういうことが必要だなどと指定される研修や講習などは、まったくといっていいほど無意味なのである。
 教師一人一人が抱えている問題は、みんな違うし、また、対応能力や姿勢もまたみな違う。しかし、教師である以上、なんとかしたいという思いは、みなもっているはずである。そういう問題を解決するには、自分の問題状況を話すことかできること、それを同僚なり、さまざまなひとに聞いてもらって、率直な対応に関する議論ができること、先輩なり専門家のアドバイスが受けられること、実践的な検討の場が保証されること、こういう条件が必要であり、そうした場が継続的に実施されれば、教師の能力は格段に向上するものだ。それは、学校全体の教育力が高まっていった事例をみれば、はっきりとわかる。
 だから、研修に必要な形は、実は明らかなのだ。
 教育委員会などの行政側が行うとすれば、たくさんの、それぞれ独自のテーマに基づいた研修会を、継続的に多数用意し、そこに自由に参加できるように、場の設定を行うことである。参加を指定して義務づけるなどは、マイナス効果しかないのだ。教師はまがりなりにも、専門職であって、自分に何が必要であるかは、自分で判断できる。
 更に、日本の教育界には、民間教育研究団体という、優れた自発的な学習・研究団体が多数ある。そうしたところへの出席についても、できるだけ便宜をはかり、奨励をすべきである。民間教育研究団体への参加を妨害したりするなどは、論外といえよう。
 もし、個々の教師の自発性に基づき、上記のような研修、研究の機会が継続的に保証されれば、教師は喜んで参加するだろうし、力も向上するだろう。もちろん、そのためには、教師の過剰労働を解決しなければならない。
 現在行われているような免許更新制度は、できるだけ早く廃止すべきである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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