題名は固そうな本だが、実に柔らかいというか、哲学の書物の割りには、どんどん読める本である。本の主題は、リベラリズムとは、他人に迷惑をかけなければ、そして個人の自発的な行為であれば、それを認めるという立場であるにもかかわらず、世のリベラリストが、切実な要求をする人がいるにもかかわらず、沈黙してしまうという例をだしつつ、まずは、リベラリズムの限界、矛盾を示す。
まず、同性婚を合法と認める国が多くなり、アメリカの最高裁でも合法と認める判決が出た。その判決をみて、あるモルモン教徒が、一夫多妻制が合法であることを認めさせるために、二人目の妻(まだ正式に結婚が認められていない)との結婚を正式に認める申請のための訴訟を起こした。ところが、世の中のリベラリストたちは、同性婚のときとは異なって賛意を示さなかったという。この場合も、自発的な意志であり、他人に迷惑をかけているわけではないのだから、リベラリズムの立場からは容認すべきであるのに、そうなっていない。そして、同様な例として、知らずに惹かれあい、年の差結婚していたカップルが実は父娘であることが、わかり、近親婚の罪で有罪となったり、同様に、結婚後兄妹であることが分かって、実刑判決を受けた例についても、リベラリストは沈黙している。それは、矛盾ではないかと、萱野氏は主張するわけである。
興味深い事例が出されているが、リベラリズムの検討のための素材なので、他人の権利を侵しているか、自由意思に基づいているかという基準で判断がなされている。従って、判断基準が「認めるか否か」ということと、リベラリズム的観点とだけで判断されている気がする。その点は不満である。
例えば、近親相姦についての反対論として、タブー、障害児が生まれやすい、などが検討される。タブーは、時代の進行によって薄れていくとして、思想的には、タブーの克服でよいが、障害児が生まれやすいという点については、どうだろうか。
萱野氏は、障害児が統計的に生まれやすいのは、近親婚だけではなく、(実は近親婚で本当に障害児が生まれやすいかどうかは、いかなる人間社会においても、近親婚はタブーなので、信頼できる統計は存在しないと思われるのだが)高年齢出産とか、ある種の遺伝子の組み合わせとか、他にも該当例がある。そういうものは、禁止されていないのだから、近親婚だけ禁止するのはおかしいだろうという論理がとられている。確かに、近親婚を出産の統計を根拠に禁止するのであれば、高齢婚や遺伝子組み合わせによる禁止も検討されなければならないだろう。
これまでは、特異な例を使って、リベラリズムが自己矛盾になっているという説明がなされるが、本論は次の「パイの分配」に関する部分だろう。リベラリズムは、パイの分配論の立場、つまり所得再分配を主張するとして、その代表的論客としてロールズをだしている。しかし、当初からすっきりしない感じがしていたが、ここに至って明確になってきたことは、「リベラリズム」をアメリカの論によって説明している。通常、アメリカのリベラリズムは、典型的な自由主義ではなく、一種特殊な傾向があるとされている。だから、極端な自由主義であるリバタリアニズムが、わざわざリベラリズムと呼ばないわけである。特に、戦後のアメリカのリベラリズムは、常識的には社会民主主義的な要素が強い。確かに、アメリカのリベラルは所得再分配政策を支持する傾向が強い。オバマの健康保険制度政策などは、その代表だろう。(このことは、あとで検討する。)
萱野氏が検討しているのは、リベラリズムのひとたちが、パイの分配を批判するひとたちが増えてきているが、それは右翼だとか、ポピュリズムだとかいって非難しているが、実は、右翼的思想ではなく、パイそのものが減少していることを認識して、自分たちの払った税金は、自分たちのために使ってくれという、ある意味まっとうな要求なのである。しかし、リベラルは、それを認識しておらず、パイが減少しているにもかかわらず、パイの分配が可能であるかのような主張を続けている。それが支持をなくしている原因であるという。そうした批判の具体例が、日本の民主党政権の政策であるので、私には、民主党ってリベラルなのか、と疑問を感じざるをえなかった。
パイ論では、主に生活保護が扱われている。生活保護のあり方は、戦後ずっと議論の対象となっているが、萱野氏が扱っているのは、ポルシェを乗り回し、多額の保険金をもらっているのに、生活保護をうけた不正で逮捕された男に対する非難と、できるだけ生活保護を受けさせないようにする役所の「水際作戦」を例に出す。水際作戦の批判として、日本共産党が紹介している、大阪の女性が生活保護の申請になんども出向いたのに、「ソープランドへ行け」と言われたという報道を対比させている。そう書いているわけではないが、ここでは、文脈上、共産党がリベラルとして位置付いているように読めるが、戸惑いは避けようがない。
結局、パイの分配は、リベラリズムでは不可能で、功利主義によって可能なのだ、というのが、萱野氏の主張であるようだ。ロールズも、その点では、功利主義に依拠しているという解釈となっている。またリベラル派は、パイそのものが減少しているにもかかわらず、分配が可能であるかのように主張しているが、それは空想であるとする。結局、分配を諦めるか、あるいは増税が必要だという議論をしているように思われるのだが、そこらはあまり明確に書いてあるわけではない。
以上のように、リベラリズムには矛盾があり、今日最も重要な福祉を実現するためには、功利主義が必要なのだという結論のようだ。
ひとつひとつの議論は非常に分かりやすく書かれているが、しかし、あまり納得できるものではなかった。同じ民主党でも、アメリカの民衆党と日本の民主党(今は分裂し、名前が違うが。)を同列に論じたり、あるいは、一般的な意味でのリベラリズムと、アメリカ特有のリベラリズムとを、明確に区分して使っていないなど、かなりラフといわざるをえない。
そして、パイの理論を功利主義ならば、正当化できるというのも、私には説得力を感じない。そもそも、パイの理論という形で議論することの妥当性も検討の余地がある。
確かに、リベラリズムという軸で検討すれば、所得再分配は、既存の所得を税徴収と福祉政策によって、調整を行うことになるが、そもそもの所得の分配問題がその以前にある。アメリカを例にとれば、経済規模を拡大し、全体の富が増大したときに、どのような「所得」の状況になるか。特に、1980年代以降は、所得格差は格段に大きくなっているはずである。富の上位層が、全体の富のどれだけの部分を占有しているかという割合は、次第に大きくなっている。そして、そうなるに従って、むしろ、所得再分配政策は弱体になっていった。その結果、所得格差は更に拡大するわけである。パイが大きくなれば、分配もより可能になるというのは、現実を反映した論理ではないのだ。
リバタリアンなどの厳密自由主義者は、税を不当な国家による収奪だと位置づけるが、そこには、正当な労働によって獲得した所得であるという前提がある。問題はその前提である。しかし、その前提は、正しい現実認識によるものではない。例えば、日本では、同じ労働をしていても、臨時職員と正規職員とでは、まったく給与が異なる。ほとんどの職場では、まったく同じ場所で、同じ仕事をしているが、正規職員と臨時職員とが混在している。これは、「正当」な労働によって獲得したものといえるのか。
アメリカの労働者が、例えば年間400万円くらいの所得を得ているとしよう。そして、社長で40億円以上の給与を得ている人もいる。では、社長は、その労働者の1000倍の労働をしていると、本気で思う人がいるだろうか。おそらく、40億の給与がある社長は、400万の労働者よりも格段に長時間、難しい仕事をしているだろう。だが、1000倍も違うだろうか。どのような配分が公正であるかを決めることは困難であることは確かだ。しかし、得た所得に税をかけることによる再分配の前に、所得そのものの公正な分配の原理を考える必要があるのだ。その点で、リベラリズムが無力であることは間違いないが、功利主義で適切な理論を提供するとは思えない。(つづく)