読書ノート『芸人と影』ビートたけし

 ビートたけしの『芸人と影』を読んでみた。芸能人の不祥事とされる事件が相次ぎ、テレビでは頻繁に取り上げられているが、紹介文が、テレビの切り口とは相当異なるようなので、参考にしてみたいと思った。本気でそう思っているのかは、まったくわからないが、芸人は、立派な尊敬されるような存在ではない、昔からヤクザとのつながりは常識で、それは、自分自身もそう思うべきであるし、世間も芸人を思い違わないようにしてもらいたいという信条が出ている。だから、芸能人の不祥事について、要するに、世間の目も厳しすぎるし、当人たちも対応を誤っている。しかし、他方で、危ないひとたちとの付き合いに、無自覚であってはならず、一線を引く姿勢が大事だというわけだ。しかし、なかなか難しいという。反社会的人物がいる場に呼ばれて、食事をして、謝礼をもらった芸人が、お金をもらったことを当初隠して、傷口を広げたが、むしろ、本当にもらっていなかったら、その方が危ない。お金ももらわずに、出かけていくとしたら、それは友人であることの証拠なわけだという。
 ビートたけし自身が、どうやって切り抜けたかという体験談を書いているが、なるほどと思う。ある有力暴力団の親分から、何度も食事等の誘いを受け、断ってきたのだが、あまりに度重なるので、無下に断り続けることも難しいと、頭をひねった。その結果、すべてをおおっぴらにやればいいと思いつき、雑誌社に頼んで、大型対談を企画して、ビートたけしとその親分の対談を雑誌上で実現したのだそうだ。しかし、それだけではあまりにわざとらしいので、連続企画として、小泉首相や検事総長にも登場してもらったというのである。最近、なんでも隠し、隠蔽しようとする政治家に、見習ってほしいやり方だし、また、表沙汰にすると都合が悪いが、避けられないことを、適切に乗り切る方法として、多いに参考になる。
 ビートたけしという人は、マルチの才能を発揮している人で、息の長い活躍を続けている人として、やはり、相当な努力をしているのだということがわかる。また、相当な努力をしている人の状況を理解もしている。それがわかるのが、大河ドラマに古今亭志ん生の役で出たときの話が書かれている。ビートたけし自身が落語家としても活動しているが、役をもらったとき、志ん生の落語の録音をさんざん聴いたそうだ。志ん生の間のとり方に天才的なものを感じるという。この点については、息子の古今亭志ん朝が、父親に質問したときのことを、志ん朝自身が語っている映像がある。「なぜ、あんな風に間をおくのか」と聞いたわけである。志ん朝の落語は、スピーディな語り口が特徴で、間というより、勢いで聞かせると思う。志ん生は、間を置くと、聴衆が、次は何がおきるのか、とより注意力が喚起されて、こちらの話しを待つような状況が生まれるのだ、すると、次の話をずっと真剣に聞いてくれるのだ、というような回答だったと思う。しかし、あまりに間をあけすぎたら、だれてしまうだろう。その間の感覚がすばらしい、とビートたけしは評価する。
 自身、多数のヒット番組を制作し、その中心として活躍してきたが故の話も興味深かった。
 やらせ問題で非難された番組について、むしろ視聴者の勘違いを批判する。私も、テレビはほとんど演技の世界だと思っているので、やらせ批判はナンセンスだといつも思っているが、それが問題だと思っている人は、テレビのそうした番組をみるべきではない。熱湯に飛び込む番組では、熱湯に飛び込ませるはずがないのだし、あれは、熱湯をあびたときに、そうするかも知れないという「演技」を愉しむものなのだというわけだ。そういう意味では、あまりみたことはないが、本物らしく見せるひとと、いかにもわざとらしいひとの「芸」の違いがあり、それを見分ける楽しみでみる番組なのかも知れない。それでも、わざわざみる気持ちは、私にはないが。
 ずいぶん前の学生だが、テレビでアルバイトをしているひとがいた。そして、タレントが出るクイズ番組では、アルバイトの学生がリハーサルをやるのだそうだ。そして、誰がどう答えるかは、すべて台本として決まっていて、正解も間違い解答も、台本通りなのだと教えてくれたが、まあ、そんなものだろうと思っている。完全に素人が参加するクイズ番組は違うのだろうが。笑点なども、台本にそって話しているに過ぎないわけで、それを知っているのと知らないのとでは、番組の愉しみ方が違ってくるだろう。もちろん、台本にそっていると知っていても、いかにも、アドリブでやっているかのように演じている、その演技力を愉しめばいいわけだ。
 しかし、かなりのテレビ番組が、マンネリと他の番組のまねになっていることは、ビートたけしのいう通りだろう。ワイドショーはいわずもがな、ドラマにしても、他の形態にしても、似たような番組が氾濫しているが、このままだと、やはり、テレビは衰退していくだろう。最近の若者は、本当にテレビをみない。学生たちの会話を聞いていても、テレビの話題など、ほとんどない。
 最後に、スポーツに関する話題も納得できるものだった。高校野球で、サイン盗みが批判されたことがあったが、私には、当時から解せなかった。サインを盗むといっても、外野席から望遠鏡で除いて、それを無線でバッターに知らせるというようなことは、明らかに、スポーツのあり方としておかしいが、投手や捕手の動作をみて、それをバッターに知らせるというようなことは、技術の一つではないかと思う。2塁ランナーがキャッチャーの指のサインをみて、その手の格好をしてみせる、というのならば、キャッチーの側で、ごまかしのサインテクニックを使えばいい。また、手の格好をそのままやってみせるランナーも、もっと巧妙に伝えるなど、実はいろいろやっているに違いない。稚拙でばれてしまうから問題になったと思うが、少なくとも、道具を使わずに、相手の動作を感知して、今後の進行を予想することは、どんなスポーツでもやっていることだ。守る側だって、相手が打ってくるのか、バントをするのかは、すばやく、相手の状況から見分ける必要があるわけだ。その際、相手のコーチが出すサインを、じっとみるのは、当たり前だし、禁止のしようがないだろう。
 ビートたけしは、団塊の世代で、私もそうだ。だから、なんとなく、自然な共感できる部分がある。こういう言い方は不遜であるかも知れないが。というのは、団塊の世代というのは、いろいろと話題になるが、当人たちからすれば、かなり苦難の道を歩まされたという感覚がある。そして、他の世代にない特徴は、常に、何か年齢が新たな段階になると、史上初の、とか、史上最高の、というような形容詞で語られる現実にぶつかってきたのだ。小学校に入ると、とにかくすし詰め学級。今は30人学級の実現を、というような要求が掲げられるが、私たちのころの小学校、中学校は50人くらいいるのが普通だった。そういう小中学校を過ぎると、史上最悪の受験地獄に見舞われた。高校にいきたくても、定員が足りなくて行けないひとたちもいた。大学入学で同様のことが繰り返される。大学時代は大学紛争だ。そして、就職難、結婚難、とつづく。そして、就職すれば、企業戦士が多かった世代でもある。定年を迎えれば、当然世界にもまれな急速な高齢化社会の担い手である。高齢者ドライバーの事故とか、年金問題を深刻にさせている世代とか、まあ、いろいろと言われている。
 多くの団塊の世代のひとにとって、同じ思いだろうが、それまでの習慣、大人たちの考えかたなどに、そのまま従って生きていくわけにはいかないという、強い必要性を感じていたわけである。だから、破天荒な生き方をしたひと達も少なくない。おそらく、そのなかでもそうした破天荒さを最も典型的に示して、マルチタレントとして成功しているのが、ビートたけしなのではないか。だから、この書物には、ある意味「常識」とはかけ離れた主張がたくさんあるが、よく考えてみると、合理的なのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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