小学校5,6年の算数・理科・英語の専科教員か?

 8月20日の中教審の特別部会に、2022年度をめどに、小学校5,6年の専科科目を、現在広まっている理科に加えて、算数と英語を加えるという案を、提案したと報道されている。こうした専科化の動向は、ずっと問題となっているし、特に、現在理科の専科化は、報道されているように、進んでいる。しかし、これらは、非常に問題の多い施策と言わざるをえない。
 現在の制度では、小学校の教師は、全教科を教えるのが建前である。しかし、一人ですべてを教えるのは困難だから、学校の事情に応じて、専科の教師が配当されている。私が小学校のときですら、5,6年の音楽は専科の先生が担当していた。学校によってかなり事情が異なると思うが、その他に図工、家庭なども専科がいることがある。要するに、ばらばらなのである。もし、文科省のその構想が実現するとどうなるのか。

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Law & Order 自殺幇助問題

 日本でも、医師による嘱託殺人が起き、実行者は起訴されたが、丁度今、Law & Order で自殺幇助をテーマにしたドラマを見た。18シリーズ1回「残像」。妻と子どもが自宅に帰るのを見送ったトーマスが、そのあと塩化カリウムを自ら注射して、自殺する。しかし、他殺の可能性もあるので、とりあえずグリーン(殺人課の刑事)が呼ばれる。そのとき、トーマスの弟のルーポ(刑事)が、帰国し、自分も捜査に加わりたいというが、身内だから難しいという話をしているところに、もう一人の同じような自殺事例が発生する。そこでルーポも加わる。(その後相棒となる)
 仮釈放になっているリンガード(以前自殺幇助で実刑判決を受け収監されていた)に会いに行くが、自分は関係ないと言い張る。
 トーマスは、末期癌でかなり苦しんでいることで、覚悟の自殺だったが、もう一人のドリスコルは、ジャーナリストのノーランが、自殺をする現場におり、映像にとって、放映することになっていることを知る。しかも、ノーランは、10年前、リンガードが疑われた自殺幇助事件で、リンガードに実行したことを白状させた人物だった。

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矢内原忠雄と丸山真男13 内村鑑三の継承

 矢内原忠雄も丸山真男も、系譜的には内村鑑三とつながっている。矢内原は、主に新渡戸稲造と内村鑑三という二人を「教師」としている。新渡戸には植民政策を教わり、その講座の後任となった。内村は信仰の師である。丸山のふたりの教師は、長谷川如是閑と南原繁であるが、南原の二人の師が、小野塚喜平次と内村鑑三であった。つまり、南原と矢内原は内村の信仰の弟子であったが、東大の聖書研究会は主に矢内原が指導しており、南原はあまり関わらなかったようだ。南原と矢内原のつながりは、連続して東大総長になって、東大改革に尽力したことのほうが強いのかも知れない。こうした系譜のなかで、内村鑑三は、矢内原とも丸山ともつながっているという点で、とりあげる価値があると思われる。矢内原は、直接の弟子であり、人生のあらゆる時点内村について語っているから、文献は膨大であるが、丸山も内村について、頻繁に触れている。しかし、当然のことながら、二人の継承する中身はかなり異なっている。

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読書ノート『能力と発達と学習』を読む2

 今回は第一章「人間の能力をどうとらえるか」を扱う。
 最初に「知能」を問題にしている。知能とは何か、生まれつきの遺伝的なものか、固定的なものなのか、各知能の関係は何か、測ることは可能なのか、等々様々な検討がなされているが、現在の我々には、あまり切実さを感じさせないテーマである。しかし、1963年当時は、まだ、「知能」は極めてホットで、実際生活にも影響を与えていた重大な問題だったことは知っておくべきだろう。
 一番極端な例はイギリスで、1944年法で、前期中等教育まで義務化されたが、小学校後は3つのコースに区分されていた。しかも、年数も教育内容も異なっていた。それを、イレブンプラステストという試験で振り分けたが、そのテストの重要な柱が知能テストだったのである。つまり、知能テストで、進学する学校の種類を決められる、人生に大きな影響を、知能テストが与えていた。当然、大きな批判が沸き起こり、イギリスを中心とした大論争が起きた。また、DNAが発見されたこともあり、遺伝学が盛んになったことも、教育に影響を与えた。知能や能力は遺伝的に決まっているとか、あるいは人種的に知能の水準は異なっているとか、様々な「学説」が横行していた時期でもあった。かつては日本でも、就学前検診で知能テストが行われ、一定水準以下だと、ほぼ強制的に養護学校にいれられるというような時代もあった。こうした論争を経て、現在の学問では、かなりの部分で学説の一致をえている。既に知能テストを大規模に行うようなこともなくなっている。だから切実感はなくなったのだが、形を変えて、同様の問題は残っていると考えるべきだろう。

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矢内原忠雄と丸山真男12 講和問題

 日本が占領統治されていた時期の最大の政治課題は、いうまでもなく「独立」であり、それは講和条約の締結であった。しかし、ポツダム宣言を受け入れ、占領が始まった時点から、次第に国際情勢が変化し、戦争中は連合国として協力しあっていたアメリカとソ連は対立関係となり、東アジアは共産主義革命の進行が顕著になっていた。そのために、日本との講和条約は、単純に連合国全般と締結することが難しくなっていた。政治家はもちろん、多くの知識人も、この講和問題をどう考えるか、立場の選択を迫られていたといえるだろう。矢内原忠雄も丸山真男も、それぞれの立場を明確に出している。しかし、それはかなり異なるものだった。二人とも、講和問題を議論する知識人たちの集まりであった「平和問題談話会」の中心的存在の一人であったが、実は、その中心的声明の原稿を書いたのは、丸山であり、実は、矢内原は、多少その談話会の傾向とは異なる言論活動をしていた。

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読書ノート『能力と発達と学習』(勝田守一)を読む1

『教育』が第二特集として「能力・発達・学習と教育実践」というテーマを設定して、勝田守一の名著『能力と発達と学習』を論じる文章を掲載した。その論文に対しては、別途論評する予定だが、それと並行して、私自身の読書ノートとして、何度かに分けて、考察しようと思った。考察というよりも、この名著(以下、本書 ページ数は、著作集6巻のもの)から何を学びとるかということの整理にしかならないかも知れない。
 本書は、『教育』に一年間連載された文章をまとめたもので、「教育学入門」であるが、「教育研究の成立する前提とその本来の領域」を明らかにすることを志して書かれた。私自身は、あまり読書家ではないので、大量の本を読んでいるわけではないが、私の読んだ「教育学入門」「教育学概論」のなかで、戦後最高の書物であり、これを凌駕するものは書かれていない。私自身、生涯のなかで、この本を越える「教育学概論」の書物を書くことは、夢であり、また、最大の努力目標として、ずっと念頭にある。しかし、先の論文は、この名著を、面白くない、新味のないもので、最近流行りの論の先駆けに過ぎないなどと評価している。前のことだが、最近の若い教育学研究者は、勝田守一という人を、かなり低く評価していると聞いたことがある。その典型的な事例を、『教育』の論文でみたわけだが、その論評は別途行うので、それとは無関係に、本書を読み進めたい。
 まず、最初に私の本書を読む心構えを書いておきたい。

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BC級戦犯の記事 8.15を機会に

 戦後、戦犯として裁かれた人は、圧倒的にBC級が多い。条約で禁止された戦争犯罪や捕虜に対する不当な扱いで裁かれた人たちだ。東南アジア現地で行われたものも多く、死刑判決をくだされた場合も多い。私が大学で学んだ教授は、学徒動員で出征した人だったが、BC級戦犯として処刑された戦友が多く、ときどきそのことを講義で話された。多くは、上官の命令で行わざるをえなかった行為で裁かれたもので、当然裁かれるべき上官は、うまく逃げてしまった事例も少なくないようだ。丸山真男が批判した、責任は下に負わせるという日本軍国主義の(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61689)(日本ばかりとはいえないかも知れないが)汚点が刻印されている。
 JBpressの2020.8.15号に、「B29搭乗員を処刑、「戦犯」だった父の胸中」と題する吉田典史氏の文章が掲載されている。B29の搭乗員で、墜落して日本軍の捕虜となったアメリカ兵を処刑した罪で、戦後裁判にかけられ、死刑判決を受けたが、減刑されたという人物の記事である。A氏とする。

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『教育』2020.8号を読む 荒井文昭「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち

 第二特集「コロナ一斉休校と子ども・教育」の最後の論文は、荒井文昭氏の「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち」だ。
 題名が「現場で決める」だから、まず「現場が決められない」状況から入っているのだが、「パソコンとwifi機器の無償貸与をしながら、双方向性を確保しようとしている一部の学校、NPO」がある一方、多数は、指示待ちの状態に置かれていることが、「深刻な事態」という。確かに、私が聴いている現場の声でも、指示待ち状態が多いが、しかし、それは積極的な提案をしても、上から潰されるという事態もあわせて起きており、強制された指示待ちという、いかにも残念な事態であることが多い。残念ながら、この文章では、積極的な提案が潰されることについてのコメントがないことだ。筆者の職場でも同様なことが起こったというが、それについては、「東京の教育に象徴される教育政策の結果」であると、そのこと自体は間違いではないにせよ、ではどう切り込むかいう視点があまり感じられない。職場の大学での実践を紹介しているが、大学と小学校、中学校では状況はかなり違う。オンライン教育の実施などを提唱しても、待ったがかかるのは、教委の消極性だけではなく、確かにネット環境の整備が遅れていることがある。では、それに対応しようがないとかといえば、私はあったと思っている。例えば、ネット環境がない家庭では、学校に登校させて授業を行う、その授業をZOOMなどを使ってネット配信して、双方向授業とする。そういう案をいろいろなところに提示した。当初は、数人数の登校は認めるところが多かったのだから、可能だったはずである。困難な状況であるほど、創造的に対応を考えねばならない。

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矢内原忠雄と丸山真男11 天皇制について(丸山2)

前回は、終戦から間もない時期に書かれた「超国家主義の論理と心理」によって、丸山の天皇制認識を検討した。今回は、戦後10年余経過した時点で書かれた「日本の思想」を検討したい。(丸山真男集7巻所収)このあと、丸山は、もちろん天皇制問題をずっと追求していくわけだが、戦後の天皇制については、私が知る限り、本格的に触れることはなく、ひたすら古代まで立ち返って、歴史貫通的に流れる思想を追求していったといえる。しかし、古代天皇制からずっと継続する思想を問題にすれば、それが敗戦と戦後の象徴制の天皇というシステムにも、継続しているのか、あるいは、やはり、断絶があったのかという点については、無視することはできないはずである。1500年にわたって続いた制度と、それを支える思想が、単なる一度の敗戦で消えてしまうことは、考えにくい。特に昭和天皇の逝去の前後に生じた大記帳運動ともいうべき事態を、丸山はかなりショックをもって受けとめたが、それは、まったく新しい戦後的なもので、丸山の批判する性格ではないのか、戦前体制の残滓ともいえるのか。この点に関する分析をしなかったことは、やはり、大いに不満をもたれてしかるべきだろう。

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2番の名曲はあるか

 民主党政権のとき、蓮舫議員が、「2番じゃだめなんですか?」と発言して物議を醸したことがある。専門家たちは、その発言を馬鹿にしたが、議員は素人なのだから、専門家は丁寧に説明すればよかったのに、この対応は専門家としてはいただけなかった。
 ただし、表題の「2番」は、ランク付けの2番ではなく、順序としての2番である。交響曲とか、ピアノソナタには、出版順の番号がついている。今日スキャンをしながら、ベートーヴェンのピアノ協奏曲2番をかけていたのだが、「そういえば、2番て人気ある曲が少ない」と思ったので、少々思い出しながら考えてみようと思った。

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