最近は、教育問題として、学校制度が議論されることはほとんどなくなっている。いじめや不登校、きれる子どもたち、教師の過重労働などの具体的な問題が深刻になっているためだと考えられるが、実は、制度も事実上変化している。近年だけをとっても、義務教育学校という新たな学校種が制定され、小学校、中学校、高校という区分を越えて、小中一貫、中高一貫などの学校も増えている。中高一貫に関しては、中学と高校が連続して同一法人で運営されている場合と、中等教育学校のように、一体の学校との二種類がある。そして、高校には、普通科以外に職業科があり、更に、理数などに特化した学校もある。つまり、複線型学校制度になったわけではないが、単純な単線型ともいえないシステムに変化しているのである。そして、それは、いじめ等の学校の問題の背景的要因のひとつでもある。従って、学校制度のあり方は、教育の内実にも影響を与えることを無視すべきではない。 “学校制度の分岐型と総合型” の続きを読む
カテゴリー: 教育
『教育』2019.9を読む 縛り・縛られるから抜け出せるのか
既に10月号が出ているのだが、まだ、9月号の宿題のようなものが残っている。「縛られる学校、自らを縛る教師たち」という特集で、そうした「縛り」からどうやって抜けだすのか。私は小学校や中学校の教師ではなく、大学の教師なので、この縛りは極めて緩い。だから、小中学校の縛りについては、いろいろな話を聞くし、実習生の授業をみたり、また、学校側の説明をきいて、感じていることはたくさんある。
「縛り」がだんだん強くなっていることは間違いないし、また、その圧力の質と量がともに形として現れているといえる。もちろん、義務教育である以上、「縛り」はある。少なくとも、日本の義務教育の歴史のなかでは、自由な教育が保障されていた時期は、極めて短い。ないわけでもなかった。しかし、それは、国家がまだ教育の内容まで掌握できない時期に限られていた。明治の初期と戦後初期の数年間だけである。他方、ヨーロッパでは、1980年代までは、多くの国で教える内容まで含めて、学校に任されていたという事実もあるし、今でも、教育内容に関する国家基準はあっても、日本の学習指導要領よりは、ずっと大綱的である。
さて、もっとも普通で基本的な「縛り」は、
(1)学ぶときには、指定された内容を、机に座って学ばなければならない
ということにあるといえる。 “『教育』2019.9を読む 縛り・縛られるから抜け出せるのか” の続きを読む
多文化主義は終焉したのか(続き)
日本で英語が小学校の正式教科になることが決まっているが、決まる前の議論で、日本語が習熟する前に、英語教育を導入すると、日本語が混乱し、日本語の習得にも悪影響があるという反対論が少なくなかった。母語をきちんと習得してこそ、第二言語が習得できるという考えかたは、ヨーロッパのバイリンガリズムに似ている。もちろん、実際の進行は全く違う。
ヨーロッパでバイリンガリズムの教育を行われているときには、当然住んでいる国の言語の習得をかなり行いながらは、合わせて母語の習得のための補習も実施する。実際に幼稚園や小学校の下級段階では、母語の習得もまだ完全とはいえないだろうから、その時点で第二言語を教え始めた場合に、母語が不完全だと第二言語の習得にもマイナスだというのは、現場の多くの体験からいわれていることだろう。特に母語環境が家庭にしかないのだから、母語の形成が遅れがちになるのは避けられないに違いない。 “多文化主義は終焉したのか(続き)” の続きを読む
水泳授業の民間委託
毎日新聞9月12日の地方版(福岡)に、「水泳授業の民間委託検討 久留米市小学校、プール老朽化などで/福岡」という記事が出ている。全46校にプールがあるが、20校が築30年以上となっていることが原因で、検討をしているということだ。既にいくつかの自治体で行われていて、調査したところ「天候に左右されずに授業ができる」「専門家の指導で学習効果があがる」というような結果がでたという。
この記事を読んで、以前私自身が経験したことを思い出した。
私の家の近くに鉄道が通ることになり、ある小学校が駅近くになるために、開発を主導しているところから移転要請があり、近くに移転することになった。その際、私の妻が教育委員会と交流があったので、その学校をどのようにするかの検討チームにはいり、私も部分的に参加した。その際議論になったひとつが、プールだった。とにかく大規模開発する地区だったので、移転先の敷地もそれほど広くなく、また、公民館との併用の複合施設となることが決まっていた。だから、プールを作るのは、けっこう無理があったのである。私たちは、オランダに家族で一年間住んでいて、娘たちが現地校に入っていたから、その経験なども踏まえ、プールは学校に作る必要はなく、近くの駅前にスポーツクラブがふたつもできることになっているので、そこと契約して、そこのインストラクターに指導してもらったらどうかと提案した。 “水泳授業の民間委託” の続きを読む
ポピュリズム政党の教育政策(2)
オランダ
オランダの自由党(Partij voor de Vrijheid)をみてみよう。
オランダは、長い間、移民政策の優等生と言われ、移民に対する寛容政策が最もうまくいっていると考えられてきたが、2001年の911同時多発テロで空気が一挙にかわる。労働党の論客だったフォルタインが移民への制限を訴える主張をひっさげて、フォルタイン党を結成、2002年の総選挙に挑戦した。選挙の1週間前に暗殺されてしまうのであるが、第二党となったフォルタイン党は入閣した。その直後にオランダに一年の海外留学にいった私は、その当時の政治的混乱をつぶさにみることになったが、フォルタインの人気はかなり大きなものだった。モスクやイスラム学校への暴力的介入などがおき、次第に、社会の反移民的雰囲気も少しずつ強くなっていった。そういうなか、EUへの懐疑も大きくなり、オランダでは、2005年のEU憲法を国民投票で意志を問うことになり、60%が否定し、結局、EU憲法は成立しないことになった。その反対運動の先頭にたったのが、ウィルダースで、自由党を結成し、今では有力な政党として、オランダ政治に大きな影響をあたえている。 “ポピュリズム政党の教育政策(2)” の続きを読む
『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」
『教育』9月号の第二特集は「誰もが何かのマイノリティ」である。これも意欲的な企画だと感じるし、また執筆者が、私にとっては非常に新鮮であった。企画の趣旨は、マイノリティの配慮が、逆に「やわらかい排除」になってしまうことのないような、「普通の人」のなかにある多様性を見つめ、多様な人たちが多様なままに生きられる社会をめざすと書かれている。非常に意味のある提起だと思う。しかし、ものごとは単純ではないように思うのである。それを少し考えてみた。
最初に喜久井ヤシン氏の『「ふつうの人」ってなんだ問題』という文章がある。
一緒にボートにのっていた兄が嵐にあって転覆し、死亡してしまったことをずっと悩んで、カウンセリングにかかっている高校生を描いた『普通の人々』というアメリカ映画があったが、正直あの映画で、何が「普通の人」なのかはよくわからなかった。喜久井ヤシン氏の文章も、「ふつう」ということの難しさを語っている。氏は、不登校、引き籠もり、フリーター、ゲイという様々な普通でない属性をもっている。だから、「ふつうになりたい」と思っている。ふつうじゃないと、なぜそうなのか説明しなければならない。しかし、説明しても、なかなか理解してもらえないだろう。同じひきこもりのグループにいけば、異質ではなくふつうになる。結局、ふつうとは、「説明する必要がない」状態である。だから楽なのである。 “『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」” の続きを読む
黒染強制から考えること
9月4日の毎日新聞に、「東京都教委 都立中・高「黒染め指導」禁止周知へ 全校長会合で説明」という記事が出ていた。黒髪ではない生徒に、黒く染めるように指導するのが「黒染め指導」で、ほとんどなくなっているのかとも思っていたら、まだかなりあるようで、大阪府の訴訟や市民運動による要請をきっかけとして、このような周知徹底がなされたということだ。もっとも、このような指導は何度もなされているようだが、あまり効果があがっていないことが、こうした説明会の開催に現われているともいれる。
毎日新聞には、この問題に関する記事がいくつもある。大阪の訴訟は、生まれつき茶色の毛髪だった高校の女子生徒が、1,2週間ごとに指導をうけ、度重なる染色で髪がぼろぼろになったという。「母子家庭だから茶髪にしているのか」と中傷されたり、指導の際に過呼吸になったりしたという。文化祭・修学旅行に茶髪を理由に参加させてもらえなかった、そういう事情で訴訟を起こしたわけである。損害賠償請求の訴訟だから、訴えの利益がないということで、却下されてしまうことはないだろうが、こういう提訴は、勝敗に関係なく社会的に大きな影響がある。そのひとつが東京都の説明会であろう。 “黒染強制から考えること” の続きを読む
森の幼稚園を認可するように、幼稚園設置基準の改正を
ヤフーニュースに、森の幼稚園の紹介記事があった。 https://news.yahoo.co.jp/byline/maeyatsuyoshi/20190723-00135247/
岐阜県にある森の幼稚園に務めることになった人の体験記のような記事だが、ぜひ多くの人に読んでほしい。
私が森の幼稚園を初めて知ったのは、2004年に、卒論ゼミの学生募集のときに、ある学生が「森の幼稚園」を題材に卒論を書きたいといってきたときだった。私はまったく知らなかったので、「え、なに、森の幼稚園、知らないけど」というような応対をしてしまった気がする。同じ専修に幼児教育の専門家がいたので、実は最初そちらにいったのだが、その先生が私のところにいくように勧めたのだそうだ。というのは、当時、森の幼稚園のことなどは、ほとんど知られていなくて、日本語の文献がほとんどなく、研究するには、どうしてもドイツ語文献によらざるをえなかったから、国際教育論の担当者だった私に頼めということだった。文献もないのに、何故興味をもったのかは、実はよく聞かなかったのだが、私が知らないことを、学生が研究してくれるのは大歓迎なので、それから一緒に勉強するような卒論の取り組みになった。
くりこまの森の幼稚園の活動2005年
当時日本には、森の幼稚園と称する園がひとつかふたつで、現在ある「NPO法人森の幼稚園全国ネットワーク連盟」が2005年に宮城県のくりこま高原で第一回の交流集会を開催して発足したと思われるが、(当時は任意団体で法人ではなかった)卒論の学生もそこにでかけていった。実際に森の幼稚園の活動に参加し、ビデオをとってあるのだが、かなり強い雨がふっていて、「雨の日も、風の日も、雪の日も」行うという森の幼稚園のモットーそのものを実践していた。 “森の幼稚園を認可するように、幼稚園設置基準の改正を” の続きを読む
教科書はなぜ書店で変えないのか
『季刊臨教審のすべて6』にある香山健一氏と山住正己氏の対談を読んでいると、なかなか興味深いやりとりがあった。第三次答申のための議事を整理してまとめたもので、本答申の前の段階の文書についての対談である。興味深いやり取りというのは、実際の答申に書かれなかったのだが、教科書を一般書店でも売れるようにする、21世紀には、教科書検定をやめて、自由発行・自由採択にするという話し合いがもたれていたことが報告されている。臨教審への反対派である山住氏もこの点については、大いに賛成だと発言しているのである。こうした提言が実現していないことは、残念なことだ。このふたつが実現するだけでも、日本の教育の風景は相当に変わると思われる。
教科書が市販されていないのは、つまらないので誰も買わないからだ
教科書を一般の書店で販売することが、法的に禁じられているわけではない。教科書検定訴訟を受けて、国は、教科書検定が憲法で禁止されている検閲ではない理由として、検定に通らなくても市販することはできるのだから、検閲ではないという反論をしていたことでもわかる。実際に、検定に不合格となって後、市販された本はある。これも興味深いことに、家永三郎氏の高校の日本史と、新しい教科書をつくる会の中学歴史教科書という、立場的にまったく逆の書物が、同じように検定不合格になりながら、市販されているのである。また、教科書を販売している特別な書店も県にいくつかある。これは市販のためというよりは、何かの事情で教科書が不足してしまったときに購入できるようにするための、特別の契約関係にあるのだろう。転入生がくるなどもそうした事情だろう。 “教科書はなぜ書店で変えないのか” の続きを読む
教員採用試験の倍率低下しているというが
教員採用試験の倍率が低下していることが、大分話題になっている。
私自身、教師になりたい学生を指導してきたので、いろいろと考えるところがある。
教師に本当になりたいと思っている学生にとっては、倍率が下がるのは歓迎だろう。なにしろ、なりやすくなるなのだから。しかし、倍率が下がると、教師の質が低下するという心配をしているひとたちも多いようだ。また、倍率が下がった原因に関しても、いろいろな考えがある。
私自身は、教員採用試験の倍率が下がった最大の理由は、社会全体の人手不足で、特に民間企業の採用が多くなり、学生たちにとって、ほとんどの分野で、就職しやすくなっている。その分教師になろうという人が少なくなっているわけだ。こういうことは、景気の変動の影響として、過去何度もあったことだ。しかし、最初から教師になりたい人が、民間に志望を変えるということは、あまり起きていないように感じている。免許をとっていても、迷っている学生や、とってはみたものの、あまり向かないことがわかったような学生は、企業に鞍替えしていくだろう。そういう結果であると思う。 “教員採用試験の倍率低下しているというが” の続きを読む