タイピングの教育はいつから? 入力方式に無関心でいいのか

 いよいよ小学校まで含めた学校教育でのプログラミング教育が始まる。また既に外国語学習という形での英語教育が小学校3年生まで降りてきている。小学校のプログラミングは、コマンドを入力するようなものではなく、ビジュアル・プログラミングということになっているが、英語・ローマ字学習まで始まると、当然タイピングの問題が出てくる。実際に、タイピングの学習を進めている小学校も存在する。しかし、いわゆるブラインドタッチができる人は、まだまだ少ないに違いない。
 あるサイトは、小学校3年生くらいからタイピングの練習を始めるのがよい、と勧めているが、大人が必要から始める場合ではなく、子どもに教育、特に義務教育としてタイピングを学ばせる場合には、いくつかの検討課題が残っているように、私には思われる。それは入力方式である。
 多くの人は、日本語の入力をローマ字入力で行っているだろう。日本語の入力には、実は3つの方式がある。ひとつは、主流といえるローマ字入力、そして、かな入力だが、かな入力は2つあり、JIS方式と親指シフトに分かれる。それぞれに一長一短があるが、学校教育で教える対象とすると、そのひとつを選択して、子どもたちに使わせることになる。いわば強制力が働くわけだ。大学などで、それぞれソフトを使って学ばせる場合には、それを使わない者は履修しないことができる。ただ、大学でも事実上は、ほとんどがローマ字入力の練習ソフトがインストールされているとは思う。 “タイピングの教育はいつから? 入力方式に無関心でいいのか” の続きを読む

年休とったら保護者や校長からクレーム

 年休とったら、保護者からクレームを受け、校長からは、生徒第一に考えろと言われた、教師を続ける気力が薄れたというツイッターが話題になっているという。おそらく学校の風土となっていることだろうと思う。そして、文科省も基本的には同様の「感覚」をもっているに違いない。文科省の「働き方改革」の案では、夏休みに年休をとりやすくして、全体の労働時間を短縮するというものだった。夏休みに年休とりやすいことは、誰が考えたってわかることで、既にほぼ実現していることだろう。夏休みに年休とったらクレームをつけるという校長や保護者は、ほぼ考えられない。逆に、年休とれるのは夏休みくらいなのだ。(教師にとっては実際には休みではない。)だから、文科省の改善案は、何も提案しておらず、現状の肯定に過ぎないのである。しかし、今や教師の労働のブラック度は周知のことになっているから、このまま改善がなされないと、教師志望者がどんどん減ってしまうだろう。既にその兆候は明確になっているのだが。
 まず、年休を取ることは、「権利」であり、正当な理由などは必要ないのだ、ということを、保護者や管理職はよく理解すべきである。端的な言い方をすれば、学期内の授業日に、気軽に年休をとれる体制にすることが、教師の働き方改革のひとつである。 “年休とったら保護者や校長からクレーム” の続きを読む

GIGAスクール構想の疑問 1人1台のPC 効果があるとは思えない

 「GIGAスクール構想」ということで、今後小中学生1人1台のパソコンをもたせる政策が歩みだしている。現国会の目玉の政策なのだそうだ。かかる費用が4000億円という気が遠くなのような金額だ。教育委員会が購入するのだから、学校備品ということになるのだろう。どの程度使われるか、どのように使うのか、よくわからないが、これまでの日本の学校教育のあり方からみて、大いなる無駄になる気がする。もちろん、私自身は、PCの教育を進めることには大賛成であるし、ずっと前から推進する必要があったと考えている。日本はIT教育が遅れていると言われているから、こうした構想が出てきたのだそうだ。しかし、これまでだってパソコンの授業はかなり前からあった。だが、そのやり方が酷い。その酷いやり方を生みだした要因を変えなければ、結局同じことになるだけだ。
 官邸の教育再生実行会議が提唱したことだそうだが、おそらく、売れないパソコン業界の販売経路として、学校を考えたという側面が強いのではないだろうか。大学共通テストの民間検定試験の採用も、教育再生実行会議の提案だった。これが利権絡みであったことは、今や明らかだ。教育再生実行会議のメンバーに財界メンバーが多数入っていることを考えれば、景気回復の手段として構想されたと考えても不自然ではない。
 では、これまでのパソコンの教育で、何が問題だったのか。 “GIGAスクール構想の疑問 1人1台のPC 効果があるとは思えない” の続きを読む

本日最終講義

 今日は、大学での最後の活動である「最終講義」をやってきた。通常の授業の枠とは別に、特別の「最終講義」というのは、どういう習慣であるのかわからないが、多くの定年退職する大学教師は、これを行うようだ。私が強く意識している歴史的最終講義は、矢内原忠雄のものだ。矢内原は、軍部批判をした論文が非難されて、東大教授を辞任せざるをえなくなるわけだが、受け持っている講義が結局、途中で停止されることになる。その最後の講義が、「最終講義」と言われていて、多くのひとたちに語り継がれている。多くの慣習的な最終講義は、こうした普段の講義の最後ではなく、特別のテーマで行う。
 数日前に書いたが、「大学の教育活動でめざしたこと」という題で行った。
 いろいろあるが、大学の講義で目指したことは、とにかく、学生に勉強させることだった。 “本日最終講義” の続きを読む

大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか

 最後の授業を終わり、あとは、「最終講義」を残すのみとなった。今回は、「最終講義」で話す柱となる内容を考えるために書いてみる。考えながらなので、とりとめない書き方になる。
 題名は「**大学の教育活動でめざしたこと」ということで、私は専門が教育学なので、教育活動自体が、専門の実践という側面をもっている。「最終講義」には定型はないのだろうが、多くは、自分がやってきた研究活動の総括などをする。私の狭義の専門領域はヨーロッパの学校制度だが、やはり、基本は「教育とは何か」にある。教育という行為には、必ず価値的な対象がある。そして、具体的な対象は、ある領域の知識であったり、あるいは技能・技術であったりする。しかし、単に専門領域の知識を与えることを意図して、教育活動をしている大学の教師はあまりいないはずである。やはり、知識を獲得するとともに、あるいは知識を獲得することによって、より、高いレベルの知的能力の獲得を目指しているはずである。私の「最終講義」は、その目指してきた知的能力とは何か、それをどのような方法で目指したのか、その結果はどうだったのかという点に焦点を当てて考えることを意図して行う。 “大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか” の続きを読む

入試の出題ミスの対応について

  人間のやることには、必ずミスがありうる。入試問題の作成も例外ではない。センター試験などは、かなりの期間をかけて、何重にもチェックをしているようだが、それでも出題ミスがある。そうした場合、報道を見る限り、ほとんどの場合、その問題は全員に点を与えるという措置がとられるようだ。しかし、それは、正しい対応なのだろうか。もちろん、それ以外の対応は、ほとんど大きなクレームが寄せられるだろうから、クレームのない方法として、全員加点以外ないということは、私にもわかる。しかし、それでも納得できないものがある。
 こういうことがあった。あまり知られていない試験だが、小学校教員免許の認定試験というのがある。小学校免許を取得するコースは、あまり大学に設置されていないので、とらずに卒業してしまったひとたちが、社会に出たあと、やはり小学校の教師になりたいという人のために、一発試験で、合格者に二種免許をあたえる試験である。
 当時、私はこの試験を受験する学生と一緒に、勉強会をしていたのだが、ある学生が受験した科目に、出題ミスがあった。 “入試の出題ミスの対応について” の続きを読む

本日で大学の教育活動終了

 思いもかけず、定年が一年延び、今年の3月で定年退職することになっているが、授業としては今日最後の授業をしてきた。最後は、「国際社会論」で、インターネットの国際社会に与えた影響について扱った。あまりにたくさん教えるべき内容があり、やはり時間が足りなくなってしまったが、学生諸君も日々活用しているツールだから、いろいろと考えてくれるだろう。
 最後に、AIが職業をなくしていく、というよく言われることに対して、どう対応していけばいいのか、ということを強調して終わった。これは、教育研究者としては、とても大事なことで、いろいろな機会にいってきた。
 AIが職業を半分くらいなくしてしまうということは、半分くらいの人々がその仕事を奪われるということだ。また、職業がなくならなくても、仕事の有り様がすっかり変わってしまうということも起きうる。そういうときには、新しい事態に対応できる能力や資質か不可欠となる。今後の教育としても、そうした新しいことへの対応力の育成がとても重要になるわけだ。しかし、そんな能力や資質はどうやって教育することが可能なのだろうか。
 私の考えはこうだ。 “本日で大学の教育活動終了” の続きを読む

『教育』2020.2号を読む 東京賢治シュタイナー学校の取り組み

 2月号の第二特集は、「『みんなの学校』は誰のもの?」という、テーマとしては、かなり刺激的なテーマだ。しかし、ざっと読んだ限りでは、このテーマそのものを掘り下げた文章は、あるのだろうかという印象だ。そもそも「みんなの学校」という概念自体、そうとう検討の余地ありではなかろうか。学校は本当に「みんなの」ものなのか。公立学校は、少なくとも、何かの要素で制限するということはあってはならないわけだから、「みんなの」という形容は、とりあえず納得できるが、私立学校は、特別な教育理念があってもいいわけだから、その理念にどうしても納得できない人は、排除されることになるだろう。明確なキリスト教の学校に、絶対にキリスト教的な要素は容認できないという人を受け入れる義務はないように思われる。というより、もともとそういう志願者はいないだろうし、そうした人を含んだ「みんなの学校」とは考えていないだろう。このような検討は、この特集ではしていないが、私は、かなり重要な事項であるように思われる。 “『教育』2020.2号を読む 東京賢治シュタイナー学校の取り組み” の続きを読む

離島高校生の大学受験 会場に来させないで済む方法はないのか

 大学入試の本場がやってきた。入試競争そのものも厳しさもあるが、過酷な条件を強いられる高校生もいる。毎日新聞の記事「センター試験のため28泊…東京・小笠原の受験生 精神的負担大きく」(1月15日付け)は、離島の受験生たちの過酷さの例を報告している。ただし、離島に事件会場を設定して配慮している地域もあるそうだ。記事によると、「離島にある五島、壱岐、上五島、対馬の県立高4校」に2009年から会場が設けられたという。センター試験はそうした配慮も可能だが、個別の大学だと、地方会場を設定しても、離島まではカバーできない。
 日本における入試制度のもろもろの条件を、日本人はごく当たり前のものだと思っているが、国際的にみれば、かなり特殊なものが少なくないのだ。これまでいろいろ書いてきたが、今回は、大学側、あるいは試験実施機関が指定した場所にまでいって、試験を受けるということについて考えてみる。 “離島高校生の大学受験 会場に来させないで済む方法はないのか” の続きを読む

『教育』2020.2号を読む 校長の役割

 『教育』2020.2号の第一特集は「いま求められる校長の役割」である。編集後記によると、これまで『教育』では、こうしたスクールリーダー論は、ほとんど取り上げられてこなかったのだそうだ。その理由は、校長が、勤評以来、教育行政の末端に位置づけられてきたからだという。そのために、校長とどう闘うかが意識され、校長が本来果たすべき役割についての検討が弱かったことが否めないと書かれている。
 しかし、私のような高度成長期から、『教育』を読んできた世代からみると、この見解はかなり違和感がある。戦後の校長の中でも際立って大きな功績をあげたといえる斉藤喜博は、教科研の主要メンバーであったし、彼の戦後の仕事は、ほとんど校長としてのものだった。校長として、どう教師を育てるか、育てた教師とどのように学校の実践を作り上げていくかを、提起し続けてきた。そして、その主要な場が教科研だったはずである。しかも、斉藤喜博は、勤評以前の、まだ校長が敵(?)ではなかった時代の校長だったわけではなく、斉藤喜博が校長時代にそうした推移があり、斉藤喜博自身が校長の教育行政のおしつけ的役割と対峙したわけである。教科研が、校長論、スクールリーダー論を掘り下げるには、斉藤喜博のみならず、教科研や民間教育運動に参加していた、優れた校長の実践をもっと注意深く分析し、継承する必要があるだろう。 “『教育』2020.2号を読む 校長の役割” の続きを読む