昨日の日本全国の小中高と特別支援学校の春休みまでの休校の要請は、案の定日本中で大きな驚きをもって受け止められた。おそらく、現場は相当な混乱に陥った一日を過ごしただろう。月曜日からということは、昨日発表されて、具体的なことを決めて、保護者や子どもたちに伝えるのは、今日一日しかないのだ。あまりに急だということで、火曜日からの休校を決めた地域もあると報道されていた。野党からは撤回要求などもだされたようだが、岸田氏は、「やることはすべてやるのだ」と応じたそうだが、「やるべきことを、かなりやらずにここまできた」のに、よく言う、という感じだ。
ワイドショーをちょっとみていたら、医者が、この休校措置を是認しているのには、少々びっくりした。また、そのテレビ局が行った調査では、7割が賛成で、3割が反対ということだった。まあ、メディアが散々危機感を煽ったあとの調査だから、そうなるだろう。しかし、批判もかなり出ている。私は、この一連の流れのなかで出てきた意味で、批判的な見方をせざるをえない。安倍首相の談話に関しても、昨日は、休校を要請するということだったが、今日は、地域が状況を考えて、決めるようにというように、けっこう大きなニュアンスの相違が出ているのである。とりあえず、批判が出てきたので、「いや、地域ごとに決めていいのだ」と修正したのだろう。しかも、何故、こんな大きなことを突発的といってもいいくらいのタイミングでだしてきたのか。それは、IOCの委員が、オリンピックの中止もありうるという見解を示し、5月までには決めなければならないという示唆を行ったために、なんとか手を打たねば、というので、出してきたという解釈が濃厚である。そして、今まで検査に対して制限してきたのは、患者数を少なくすることによって、オリンピック開催に対して疑問が出ないようにするためだ、という解釈が次第に大きくなっているようだ。
検査に対する制限は、国民の多くが疑問に思っていたことだろう。テレビに出演する医者たちが、検査能力は民間にもあり、国がいっているようり遥かに多数の検査を処理することができると明言しているのだから、検査能力そのものがないためではなかったことは明らかだ。私は、専門家ではないので、断言することはできない。当初は、国費負担という費用問題かとも思っていた。中国への配慮説もあった。しかし、ここにきて、やはり、オリンピックなのかという解釈に傾いている。オリンピックを開催するためには、国民の健康を犠牲にしてもいいと考えているのか、と思うと、なんともやりきれない気持ちになる。オリンピック招致のときに、福島原発は完全にコントロールされていると、大嘘をついたことから、特に驚きはしないのだが。
さて、今回の措置も、明らかに泥縄で決められている。大きな規模のイベントの中止要請や、休校要請は、きちんと練られたものでない以上、今後様々な混乱や矛盾が出て来ることは避けられない。そして、逆に、とんでもない国費の支出を強いられる可能性も大きい。イベントの中止や、休業を事実上迫ることになるのだから、損失補償をせざるをえなくなるかも知れない。
新型コロナウィルスは、インフルエンザにもっとも近い側面をもっているといえるだろう。感染力とか病状の深刻さなどは、まだわからない点が多いとしても、少なくとも、現在までの感染や死者数から考えれば、インフルエンザほどの深刻さには至っていない。インフルエンザにかかれば、感染させないために、学校に登校することは、原則禁じられる。そして、インフルエンザ罹患者が何人かでれば、学級閉鎖、あるいは学校閉鎖となる。患者が休めば済むともいえるが、まだ発症していないが、感染している者がいて、他の子どもに感染させる危険性があるから、ある程度の患者が出ている場合には、発症者を休ませるだけではなく、休校措置がとられるわけだ。しかし、まだ一人も患者がいない、まして、地域的にも患者が出ていないところで、すべての学校が休校措置をとられるというのは、いくらなんでもやりすぎではなかろうか。昨日も書いたが、1月も休校にすれば、当然外出も多くなり、そこで、感染する危険性がかえって高まる可能性すらある。
今日の報道によれば、共働きの家庭のために、学校の場を提供することもあるというのだ。共働きだけに限定すれば、密集度が小さくなるから、安全だという理屈らしいが、いくら密集していなくても、感染者がきていたら、感染してしまうではないか。しかも、学童保育は休みにしないようだから、そこで広まる可能性も否定できない。
この間感じたことを、他にいくつか整理してみる。
政府の後手後手は明らかだが、国民の側にも問題はある。安倍首相や羽生田文科相が、休校措置については、各自治体が実情に応じて決めてほしい、と訂正して言ったことは正しい。その場合、各自治体、あるいは校長が、実情を把握した上で、独自に判断できるだろうかという問題だ。ときどき国があいまいな基準を出したり、あるいは、基準そのものを出さないと、はっきりと国が決めてほしいというような声が起きるし、また、テレビのワイドショーなどでも、コメンテーターが必ずそうした意見をいって、みんなで頷く場面が多い。しかし、こうした病気の感染状態などは、地域によって異なるわけだから、異なる状況では、異なる対応がとられるべきこともあるのだ。それを一律に、地域の行政官や住民が、とにかく、国に基準を求めることは、自分で考えないことでもある。そうした姿勢もまた問題だろう。
岩田健太郎氏の指摘と、その後の動向は、危機に対する政策責任者のシステム設計と、現場で対処する人の問題を混同する、日本人には特に強いとされる傾向が出た。過去何度か、安楽死の実行映像が流されると、その度に、その人がかかっていた病気と同じ罹患者から、抗議がだされたが、それは、安楽死というシステムと、個々人の判断を問題が混同されているわけだが、そうしたことは、ヨーロッパではあまりみられない。これは、「不都合な真実」を明らかにすると非難される、したがって、明確な制度的欠点を改善する議論が、実践者の間で拒否されがちだという結果を生むことになる。
まだまだ事態は変化しつつ推移するだろうから、その都度考えていきたい。