『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える2

 今回は、米津直希氏の『学生の「自治的活動」と学び』を取り上げる。
 2019年3月の大学評価学会における中山裕之氏の報告が、大学における生活指導の領域(部活動、サークル活動、自治会活動、社的な活動など)を「課外の自治的活動」としてとらえ、青年期の発達における意義と位置づけを検討したもので、討論の結果、「そうした能力の形成が大学教育、あるいは青年期教育において重視されるべきだとの認識が得られた」とする。最後の「認識が得られた」というのが、多少わかりにくい。というのは、このあとすぐ、「学生自治」に関して、1968年からの大学紛争で得られた認識は、日本においても、また、ヨーロッパやニュージーランドにおいても、学生参加や自治会活動が、「学生教育として位置づけられているのだろうか」と疑問を呈しているからである。日本においては、そもそもが貧弱な成果しかなかったのだが、ヨーロッパでは、学生参加の権利は、高等教育だけではなく、中等教育のレベルまで保障されている。そして、初等・中等教育においては、父母の参加も制度化されている。そして、米津氏の指摘するように、それは、「学生教育」として位置づけられているのではなく、運営に対する参加の権利として位置づけられているのである。
 この点は、日本における「子どもの権利」の問題として、極めて大きな課題である。日本は、「子どもの権利条約」に関して、批准されているものの、いくつか留保をしており、そのためか、教育行政は、極めて冷淡な態度をとっている。その代表例が、「子どもの意見表明権」である。もちろん、学校で、子どもが意見をいうことは、多いに奨励されているし、そのように工夫している学校や教師は多いだろう。しかし、子どもの意見を聞くことと、あるいは子どもに意見をいわせることと、「意見表明権」を認めることは似て非なることなのだ。
 スウェーデンの女子高校生のグレタ・トゥンベリさんが、国連の環境会議で意見を述べ、なみいる大人たちに、厳しいことを言い放ったとき、日本では、彼女に意見を言う機会を与えたこと自体を、非難するひとたちが少なくなかった。こういう姿勢が、「意見表明権」を認めない態度だろう。
 日本の小学校には「児童会」が、中学と高校には、「生徒会」がおかれている。これは学習指導要領で規定されていることだから、おそらくすべての小中高にあるに違いない。しかし、それはヨーロッパにおける生徒会の権利とはまったく違う。日本の児童会や生徒会は、あくまでも「教育の手段」であり、教師の指導の下で動くことになっている。だから、たぶん、生徒会で学校に要望をだすことはできるだろうが、決定に関与することはまったくできない。もし、生徒会の役員などをやって、意欲的に活動した経験のある人なら、そこらの壁を感じたことがあるだろう。結局、生徒のほとんどが望み、それが非常に合理的であるにもかかわらず、学校はそれを認めない。そんな経験だ。ヨーロッパの多くの国は、学校の運営に決定権限をもった組織に、生徒会は代表を送ることができる。もちろん、その組織で決められることは、明確に規定されており、その範囲のなかではあるが。しかし、生徒の学習活動に関することは、ほぼ含まれているといえる。もちろん、だから生徒の考える通りに決まるということではない。あくまでも、学校の各組織の代表とともに議論するのだから、生徒の見解が他の層に否定されることはあるだろう。しかし、権限をもって参加できることは、参加できないこととは、全く違うだろう。
 日本の学校は、大学も含めて、権限をもった自治組織は法律上認められていない。確かに、大学紛争時代は、「大衆団交」といって、学生自治会が、大学と学生を前にして交渉し、正式な権限ではないにせよ、実質的な交渉権限を発揮したことはある。しかし、いま、学生自治会が、大学と「交渉」するところが、どれだけあるのだろうか。
 私は、教員時代に一度だけ「学生委員」をしたことがある。そのときに、学生の団体である「学友会」の代表と、学生委員が交渉する場を一度だけ経験した。残念ながら、学生は、「お願い」というレベルとしても、極めて遠慮がちであった。むしろ、教員たちのほうが、もっと強く要求したほうがいいよ、というような雰囲気で接していて、まさしく大学紛争世代である私としては、ちょっと苦笑せざるをえなかったものだ。そのときの学生委員の教員たちも、多くは紛争経験世代だったから、学生の弱々しい姿勢に、少々いらだっていたものだ。
 しかし、これは、学生たちを責めるわけにもいかない。彼らは、ずっと「教育的対象」としての児童会や生徒会を経験し、お願いしたって、ほとんど聞き入れられることはないものだ、という認識を形成してきたからだ。
 もっと、はっきりとものがいえる生徒や学生が育たねば、日本は、活力のない社会になってしまうだろう。
 米津氏の指摘は、正しいと思うが、そういう方向での掘り下げという点で、多少物足りない。
 しかし、その次には、そうした自治会活動の権限問題とは離れて、学生たちが、様々な自主的な活動をして学んでいることが紹介されている。たとえば、教師を志望している学生たちが、地域の子どもたちの学習支援をしている活動などである。
 ここで紹介されている学生たちの経済的厳しさは、私も教師として、そういう学生と接してきた。そして、そういう中で様々な活動をしている学生たちが多いことも共通している。そういう活動が、大きな教育力をもって、彼らを成長させていることは間違いない。氏の大学の苦しい状況もあり、そうしたなかで頑張っている教員や学生たちには、敬意を払わずにはいられない。
 自治会が、本来「教育のため」の組織ではないとしても、そして、本来の権限を認められていないとしても、自治会的な活動の中で学生が成長していくことは間違いないのであって、そうした活動を大学として援助していく必要がある。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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