『教育』2020年3月号の第二特集が、「大学で、教養と教育を考える」である。4つの論考が掲載されており、それぞれ興味深いが、まずは教科研委員長である佐藤広美氏の『「三つ編み」の学び--学問を自己と社会に結ぶ』を取り上げる。
佐藤氏は、卒業研究をする場である氏のゼミは、なんでもありだということになっていて、美容、アイドル、恋愛、食文化、痩身願望、不登校など多様なテーマを扱っていると書き、そんな中、最終盤でテーマをかえた学生の事例を、このテーマの題材として提起している。高校時代に告白されて友人関係が切れてしまった、それを研究テーマにしたいということで、セクシュアルマイノリティとの出会いを通して自分の生き方を考える卒論を書いたという例。それから、小さいころ虐待され、母子で児童養護施設に避難した経験、その後出会った里親(制度)について書いた例。佐藤氏は、このふたつを、自分が切実に感じる問題を学問の対象とし、自分一人の問題ではなく、社会的な広がりをもって存在し、学問的に解明できることを経験してほしかったという位置づけをしている。
ただ、私には、佐藤氏のいわんとするところが、あまり明確には理解できなかった。後者の事例は分かりやすいが、前者の事例は、高校時代の経験とセクシュアルマイノリティとの出会いという関連が、明確ではないからである。
それはさておき、「自分の切実な問題」は「社会的な広がり」があるということと、学問的に解明できるということは、どういうことなのだろう。単にそう書かれていても、大学での教育や教育の分析は、それは結論ではなく、出発点ではないか。
切実な問題が社会的な広がりがあるというのは、簡単にいえることだろうか。私も数は少ないが、個人的に切実な問題を扱った学生がいた。弟が自殺した事例と、やはり弟がごく稀な疾病を抱えている重度障害者の事例。しかし、そこに社会的な広がりがあることは、卒業論文を書く上で全く重要ではなかった。もちろん、他にも同様の問題を抱えている人はいるわけだが、そのことが、書くことによって、自分の課題を解決しようという点で、まったく意味などなかったといえる。むしろ、その完全に個人的な、個別事例を徹底的に分析することによって、そのなかに普遍的なことがらを発見することが、解明ということの意味だろう。
気になるのは、「そうした自分の問題にたどり着くのが、現在の大学教育における「効率主義と成果主義」のなかで、問い自体を抱えることは憚られる、問いの意義を確信にするまでに至ることが困難だ」としている点だ。社会人力が、就職率とか、資格取得という成果主義が、一身上の願いに応える社会人力の形成をめざすことの間に壁があるというのだ。
まず、自分の問題にたどり着くことが困難であるということはないだろう。大学生にもなれば、自分が問題を抱えいるときに、何も問題などない、幸せ一杯だなどと感じているはずがない。確かに、その問題を解明することが意義あることだと感じるには、なかなか遠い道のりがあることは確かだ。しかし、それを効率主義と成果主義に要因を求めるのは疑問である。
もちろん、「壁」はある。しかし、それはともに必要なことであって、佐藤氏は、余計な就職率などということを考えずに済むようになれば、個人の問題を考えることができるという発想になっているのだろうか。そのように読めるのだが。問題を抱えていようが、割り切っていようが、ほとんどの学生にとって、就職する必要がある。学生が就職する必要がある以上、大学は、それを援助する必要があり、それは、全体としては、就職率として表れる。就職率をあげる必要がなければいいのに、などと考えているとしたら、それは、学生にとって頼りになる大学教師とはいえないはずである。個人の問題は、千差万別だから、就職の問題とはまったく無関係かも知れないし、また、就職に関わっているかも知れない。いずれにせよ、大学教育にとって、それは両方ともにめざすべきことがらであって、矛盾する場面はいくらでもあるだろうが、一方がなければよいというようなものではない。
佐藤氏の論考は、次に、FD講習会の話に移る。ここでの佐藤氏は、私には混乱しているように見える。
ベネッセから人がきて、講習をするのだそうだが、「偏差値だけで就職できる時代ではなく、偏差値×思考力」が重要だと語っているらしい。そして、佐藤氏は、思考力が必要なので、専門的知識(コンテンツ)よりも、思考力対話力(コンピテンシー)が重要だとのベネッセの見解だ、と解釈している。しかし、私は、その講習を聞いていないので、断言できないが、偏差値×思考力というのは、コンテンツもコンピテンシーも両方必要だと主張しているように思える。なぜ、コンテンツは重要でないと主張しているように解釈するのかわからない。もちろん、比喩的な意味だろうが、ここで偏差値とは「知識」のことをさしているように思える。つまり、知識だけではなく、思考力が必要なのだというのだから、コンテンツを軽視していることにはならない。すると、「批判や協同、創造の能力は、抽象的・一般的に存在しているのではなく、生きた現実の専門性の錬磨の過程と環境のなかにおいてこそ形成されているものなのではないだろうか」と書いていることと、ベネッセのいうことは、私には、それほど違うようには思われない。ベネッセの講習する人に、そう質問すれば、「その通りです」というに違いない。
最後に、「教職科目のコアカリキュラム」という部分になる。教職課程の再申請が求められたことは、大学にとって、極めて大きな負担だったし、私自身がそのために、定年が一年遅れることになったという大きな影響を被った。
私自身は、定年が延びただけで、シラバスの変更等の仕事は一切しなかったので、どの程度コアカリキュラムが詳細なものであるのか、わからないのだが、要するに、項目的なものではないかと思うが、間違っているだろうか。免許更新に関する必修科目についても、必要なコアが示されているが、詳細なものではない。
資格に関わる教授内容については、最低限、項目上のコアを設定することは、教育行政の過剰な介入とは、私はいえないと思う。
私の思い出話になるが、大学院生のとき、院生が集まって、何かの科目の内容として『法と経済の一般理論』を一年かけて読もう、そして、担当として著者である藤田勇先生にきてもらおうということになって、藤田先生の下で、この名著を講読した経験がある。当時、教科書訴訟が進行中で、院生のほとんどは、家永氏を支持し、国家は教育内容に介入してはいけない、教育の自由が必要だという考えをもっていた。それが話題になったときに、藤田先生が、「しかし、教育内容を決められないような国家権力では、まったく役にたたない、無能だということになる」と述べられた。私自身、それはかなりショックな話だった。もちろん、だからといって、国家が教育内容をどこまで決めるか、教育的効果として、どのように決めるかという問題は残る。しかし、国民が学ぶべき最低限の教育内容に関して、決められないような政府の能力では困るということだろう。実際に、イギリスやオランダは、1070年代、80年代まで、学校で学ぶべき教育内容の国家基準は存在しなかった。しかし、それではよくないということになり、ナショナル・カリキュラムが制定されるようになった。イギリスでは、サッチャーがやったので、それは新自由主義的政策と考えられているが、実際には、前の労働党政権がそうした政策を準備していたのであって、サッチャーは、それをより強力に押し進めたわけであり、サッチャーの専売特許ではない。オランダにおいても、「到達目標」という基準を定めたときの、連立政権の首班は労働党だった。
佐藤氏は、国家が学説をもつことと、コアカリキュラムを決めることとを同一視しているが、それは同じものではない。民間教育研究団体の成果を、もっと行政側も学んでほしいというのは、賛成だが、実は、不十分な形ではあるが、取り入れられている内容も少なくないのである。不十分な取り入れ方を、もっと充分な取り入れかたに変えていくことが、必要ではないだろうか。