教師の養成について考える1 教職の魅力の低下

 教員養成のあり方は、戦後ずっと議論の対象になってきた。その時々の議論はもちろん違っている。今は、何が課題だろうか。それはいくつもあるように感じる。私自身、ずいぶんたくさんの学生を、学校現場に送り込んできた。既にその役割は終わったが、そこで、考えたことを、少しずつ整理してみたいと思う。
 現在の教員養成の最大の問題は、教師志願者が減っていることだろう。減れば平均的な質が低下することは、割けられない。欧米では、戦後一貫して、教師不足が続いている。おそらく、特に初等教育の教師の人気が高くて、倍率が高いなどということは、ほとんどの欧米諸国で起きたことがないだろう。フィンランドは教師の人気が高く、なるのが大変だと言われているが、例外的存在なのではなかろうか。
 しかし、日本は、少なくとも戦後直後と、最近を除けば、教師はいつも人気の高い職業だった。しかし、ここ2、3年、教員採用試験の倍率が落ちている。そして、おそらく、教職課程を履修しようという学生の数も減っている。このままだと、教師の社会的位置づけが欧米に近くなってくるだろう。この事態は、かなり以前から予想され、私は何度も指摘してきた。文科省は、教職の人気を低下させようと躍起になっているようにしか、私には見えなかった。
 最初の事例は、育英会奨学金の返済に関して、以前は教職につくと返済不要だったのを、すべて返済義務としたことだ。もちろん、特定の職業に就くと、奨学金返済義務を免除するというのは、一面では差別かも知れない。しかし、そういう職業は他にもある。防衛大学校や気象大学校は、そもそも授業料そのものが免除され、ある程度の生活費も保障されている。これは、奨学金返済義務よりも、もっと経済的には有利である。他にもそうした大学校はいくつかある。実は、戦前の教員養成機関である師範学校も同様だった。育英会奨学金の返済が免除される制度は、おそらくその伝統が引き継がれたものだろう。
 そして、近年職場が加重労働の巣となり、学校はブラック産業の代表的なものになってしまった。これは、全面的ではないが、かなりの部分、文科省の政策の結果である。教職に、超過勤務という概念を当てはめず、職務内容をどんどん増やしていった。超過勤務という枠があり、超過勤務手当が支払われる制度であれば、当然、手当の増大を防ぐために、職務量に歯止めがかかる。しかし、教職は、超過勤務手当がないために、職務の増大に歯止めがかからないのである。
 あわせて、戦後のいわゆる「逆コース」以降の教育行政は、組合への攻撃が貫かれている。尤も、その成果のためか、今では教職員組合の政治力は完全に衰え、いかに、学校現場への不適切な行政が行われても、もはや教師たちの抵抗はほとんどなくなっている。その代表例が、東京都のボーナスの部分的再配分であろう。ボーナスから一定の割合で天引きし、それを「優秀」と認めた教師に再配分するシステムである。これは、いかなる意味でも、教師間の協力体制を前向きにする機能に逆行する。アメリカでも、ボーナスを優秀と認められた教師に支給するシステムをとっている学区は、いくらでもあるだろう。しかし、その原資を、教師の給与からピンはねするところは、あるだろうか。おそらく、ほとんどの地域では、そのための予算を組んでいるはずである。もともと、欧米には、日本のようなボーナス制度はないとされているので、ピンはねもやりようがないのだが。
 こうして、教師になることの経済的利点を廃棄し、教師たちの協力的人間関係を阻害してきた。そして、教師は、様々な点での基本的人権を制限されている。
 更に、近年教職志願者の低下をもたらした、仕上げのような政策がある。それは、教職課程認定されている教職資格しか、入学案内パンフに記載してはならないという指示である。これはかなり文科省は徹底して行政指導している。
 大学の教員養成は、「開放制」というシステムになっている。つまり、教職免許法によって規定された単位を、どこで取得しようとも、合計の単位として、必要な単位を揃えれば、教職免許を取得できるという制度である。だから、複数の大学や、一部を通信で取得してもよい。これは、戦前の閉鎖的な「師範学校」のみで小学校教員免許を取得できたシステムからの改革であった。そして、「大学での教員養成」ということと相まって、大学で自由な学問を学んだことを土台にして、教師になるという理念でもあった。だから、狭い意味での教職課程だけを学ぶのではなく、広く、多様な領域の学問を学んだ上で、教職科目を履修して教師になっていくことを理念としていた。そのこと自体が否定されているわけではない。この理念からは、教職課程の認定を受けていない学部や学科の学生であっても、課程認定されている学部や学科が設置している授業をとり、単位をとることが、むしろ奨励されるはずである。ところが、課程認定されていない学科以外では、免許がとれないように、外部から見えるわけである。特に、小学校免許の課程認定されている学部や学科は極めて少ない。だから、小学校教師になりたい人は、わずかな学部学科でしか、免許がとれないと思い込んでしまう。そうすれば、教職希望の学生が減少することは、目に見えている。そして、実際にそうなっているわけである。もちろん、開放制にも欠点はある。教職科目の履修が甘くなる傾向は否定できないだろう。しかし、だから閉鎖制にすればよいということにはならない。
 もし、文科省が、意図的にこうした事態を押し進めているのではなく、やはり、多くの学生が教職を志願し、一生懸命勉学努力して、教職を目指してほしいと思っているなら、上記のようなことは、やめる必要がある。もちろん、教職志願者の減少は、企業活動の回復などもにも原因があり、それはいいことである。だが、やはり、教職の魅力そのものを低下させる力が働いてきたと言わざるをえない。
 まず、意欲があり、優秀な学生を教職に惹きつけることは、将来の社会を形成する上で極めて重要なことだという認識が共有されるべきだろう。そうした学生を惹きつけるためには、私は、やはり、奨学金の返済免除の復活が、まず有効だと思う。それは、どの程度効果があるかわからない、また、かなり部分的でしかない高等教育の無償化政策よりも、目的がはっきりしている点で、効果を生みやすい。
 第二に、教員養成の「開放制」原則を徹底することである。課程認定のない学生が、教職課程を履修できるにもかかわらず、できることを開示させないというのは、まったく無意味な政策である。教職履修者を減らして、なにかいいことがあるのだろうか。最初から目的意識をもった学生のみが、履修するのがよい、と思っているとしたら、それは、教育に対する全くの誤解である。
 学校のブラック化については、また別途論ずることにする。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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