主体・責任を考える 小坂井敏晶「責任という虚構」をを読む

 相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)等、責任能力をめぐる難しい事件が少なくない。何度か、このブログでも書いた内容だが、再度論じたい。きっかけは、小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(筑摩書房)を読んだことだ。読書ノートにしなかったのは、ざっと通読しただけで、まだ精密に読んでいないからだ。精密に読み直すかどうかはわからない。重要な、あるいは過去、多くの人によって詳細に議論されてきた主題を扱っているのだが、しかし、肝心の結論が書かれいない。「結論に代えて」という章があることでもわかる。それが読後感として一番の不満だ。
 私が、この本を読み始めたのは、犯罪の責任に関して、多く触れているからである。犯罪を罰するのは、自由な判断が可能な人間が、意図的に犯した行為、社会にとって禁止され、犯罪とされる行為を行ったときである。自由な判断が可能である場合に、責任が生じるという論理に支えられている。だから、判断ができない子どもや、精神疾患の人間は、罪に問われないという構造になっている。
 小坂井氏が問題にするのは、自由に判断する人間などという存在がありうるのかという点である。まず、社会心理学者として、有名なアイヒマン実験を詳細に問題にする。そこでは、自由な判断などではなく、状況と側にいる指導する人物に促されて、自分の判断ではなく、誤答する生徒役に電圧をかけて苦しませてしまう被験者が、圧倒的に多い。誰もがよくないことだ思いながら、その自分の判断を貫く人は、極めて少数だというのが、このミルグラムによって行われた実験の結論である。(問題に回答する生徒役と、教師役に被験者が分かれ、生徒が誤答すると、別室にいる教師役が、電流を流して、苦痛を与えると効果があるからとスウィッチをいれるように、指導役に促される。生徒役は苦痛を示すようになるが、教師役のほとんどは、かなりの高圧の電流を流し続けるという結果となり、人間は自由な判断ではなく、状況に流され、命令されることに服従するのだという結論が示される。元ナチ親衛隊員で、アルゼンチンに潜伏中逮捕され、イスラエルで裁判にかけられたアイヒマンが、自分は命令されただけだ、と弁明したことをきっかけに行われた実験。)
 更に、脳神経科学によって、ある行動をするという意思と、実際の行動は、当然、意思が先行しなければならないが、ある緊急の行為については、むしろ行動が先行する、つまり、意思によって行動が引き起こされたのではない、という結果から、やはり、自由意思による行為という前提を崩す。(しかし、これは、「反射」に関するもので、通常の行動とは異なるように思われる。)
 つまり、人間には、自由に、主体的に「判断する」ということは可能なのかという、古来議論され尽くしたかに見えるテーマを、正面から扱っているわけである。自由意思論と決定論の対立である。もし、人間の行為の説明が、自由意思論と決定論の、「どちらか」が正しく、中間がありえないとすると、決定論の立場にたてば、犯罪の責任を問い、罰することはできなくなる。少なくとも、現在の刑罰理論の前提にたてば。小坂井氏は、自由意思論を次々と批判していくのだが、では決定論の立場に断ち切っているわけでもないようだ。しかし、執筆の動機が、パリ大学でミルグラムの実験を紹介したところ、学生から、「それなら、ナチスを裁く資格が、われわれにあるのか」という問いだったと書かれている。そして、人間の主体的判断とされるものが、実はそうではないことを、多様に提示している。
 ミルグラムの実験では、30%は拒否しているので、やはり、自由な判断をする人はいるので、人格による違いである、だから、70%は責任があるという反論に対して、人格も遺伝や教育、社会的背景などの「外的」要因によって規定されていると、小坂井氏は主張する。
 もちろん、命令されて実行しただけだとしても、自動的に、実行されるわけではない。アイヒマン実験に参加した教師役も、一端は躊躇する者がほとんどだ。「やれ」「はい」と何も考えずに実行したわけではない。
 ミルグラムは、「実験」として行ったわけだが、いくらでも「現実」に起きたことがある。戦場で、捕虜を射殺せよ、と上官に命令されて、国際法違反であることを知りながら、命令に従った日本兵はたくさんいる。少なくない人が、戦後C級戦犯として処刑された。有名な「私は貝になりたい」はそうしたドラマである。
 東ドイツから西ドイツに亡命する人、北朝鮮から中国へ逃げようとする者。その多くは、見つかって、その場で射殺されてしまう。彼らも状況は全く同じである。もし命令を拒否したら、彼らが処刑されるのだ。
 しかし、これらは、「決定論」が想定する「自由判断の否定」だろうか。決定論は、基本的には、我々が自覚していようが、無自覚であろうが、自分の意思で行動しているとしても、それは他の要素によって規定されていて、自由な判断ではないのだということだ。そして、その「他の要素」は、行動する時点では当人によって、認識されていないはずである。自覚していたら、それは主体的な判断になる。ミルグラム実験、亡命者や捕虜の射殺は、自分が何に強制されて、本来やるべきでない、あるいはやりたくない行動を取らざるをえないかを「自覚」している。「これをしなければ、お前が殺されるのだ」といわれれば、ほとんどの人間は、それに従わざるをえないだろう。そのことは、自由意志か決定論かという議論とは、異なる位相にあることだ。だから、強制されたのだから、責任を問えるのか、という問題の建て方自体が間違っている。不当に殺されたという事実があれば、では、その責任は誰にあるのか。実行した者と命令した者がいる。もちろん、命令した者も、更に上位の者から命令されているかも知れない。
 もし、犯罪が行われても、責任を追求することは不可能であり、無意味であるというのならば、別であるが、犯罪があり、被害者がある以上、そこに犯罪を実行した者は罰せられるべきであるという、社会規範があれば、その犯罪に関わった者を、実行者だけではなく、総合的に関与した者を析出して、罰する必要があるし、そうした問題の建て方が妥当だろう。
 おそらく、小坂井氏も、別に犯罪の責任を問わないという立場ではないに違いない。「虚構としての主体」「虚構としての責任」という言い方は、本当に、主体的な判断をしたかどうかは別として、ある犯罪行為が行われた以上、それは、虚構としての主体によって行われたと判断して、その責任を問うのだろう。犯罪とは、それ自体が普遍的な意味での悪、つまり犯罪なのではなく、その社会が犯罪とか悪だと認めるが故に、犯罪とされるのだから、それは「虚構」であるという。それは、間違っていない。武士の社会では、とくに戦闘状態では、殺人は「善」なのだから、殺人が普遍的な悪とはいえない。だから、社会の約束事として、つまり、「虚構としての責任」で罰することになる。言葉の問題であると、私は思うが、「虚構」と呼ぶか、「制度」「約束事」と呼ぶかは、少なくとも、この文脈ではどれでもよい。小坂井氏の問題意識そのものにとっては、別の検討事項があるので、「虚構」と呼ぶ必要があるのかも知れないが。
 むしろ、問題は、次に出てくる。
 実際に、主体的な判断があるかどうかは別として、行為をした以上、判断があったはずであるという「虚構」「約束事」によって、責任を生じさせることになると、心神喪失という状況を認定することが不自然になる。主体的な判断など、厳密にはありえないのだが、犯罪行為があった以上、主体的な判断があったはずであるという前提だから、健常者と精神疾患者の区別は消滅するのである。犯罪を罰するのは、それが意図的なものだったからではなく、犯罪という行為を行ったこと、それが被害者への損害を与えたこと、そして、社会に対する危険を及ぼしたことに対して行うものであると解釈している。もちろん、いかなる犯罪論も、完全に説得力をもつものではないし、また、複合的であってもよいが、基本は、「行為」そのものが問題なのだと考える。抑止効果が基本であるが、それは罰だけではなく、矯正教育や罰そのもののなかに教育的効果を含めることも重要であろう。それが効果をもては、それだけ社会は安全になるし、被害者が生まれる可能性も低下する。
 私自身、犯罪を「意図した行為」として把握することには、全面的な納得はできないので、「虚構としての責任」「虚構としての主体性」を軸に考えることに異論はない。しかし、自由意思論を否定して、虚構性を導き出したことの「結論」を回避しては、問題設定に対して、解決を与えないと言わざるをえない。少なくとも、アイヒマンの犯罪や、死刑制度の妥当性、冤罪などを問題にしているかぎり、では、どうするのかについて、提起する必要があると思うが。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です