オリンピック 運動会と子どものオリンピック観戦

 運動会を開催するかどうかが、議論になっている。当初、コロナ禍であるので、運動会は中止するように行政指導があった。しかし、子どもたちから、オリンピックをやるのに、どうして運動会はできないのか、という不満の声が出てきたと報道され、それに対して、萩生田文科相が、安全対策をしてやるように、という逆の指導をだしてきた。それに対して、今度は、命よりオリンピックが大事なのかという文科相批判がでてきている。つまり、運動会を工夫してやるように、という指導が、明らかに、オリンピックはいいのに、運動会はだめだという不満に対して、オリンピックも運動会もできるようというアピールとしてだされたからだ。
 問題は複合的だ。オリンピック開催と運動会という、規模が全く違うが、性質は同じである行事、しかも、オリンピックは大きな政治課題になってしまったために、オリンピック開催と絡める人と、独立して考えているひとたち、様々な立場がある。

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緊急事態宣言下でもオリンピック開催とか

 IOCのコーツ氏が、たとえ緊急事態宣言がでていても、オリンピックは開催すると表明した。テレビでも大きなニュースとして扱っていたが、ここまで日本人が馬鹿にされているのかと思うと、情けない気持ちになる。以下そのことを伝えるニュースである。
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huffpost
国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長は5月21日、3日間にわたる調整委員会後に開いた記者会見で、大会期間中に東京が緊急事態宣言下だったとしても開催する考えを示した。【ハフポスト日本版・Rio Hamada】 質疑応答で、大会期間中に東京で緊急事態宣言が発令されている状況になった場合でも、大会を開催するのかという質問が飛んだ。 コーツ調整委員長は「緊急事態宣言下で、複数の競技のテスト大会が成功した。アスリートや日本の人々の安全や安心を守るために設定した全ての計画は、最悪の事態を想定したもの」と説明。 その上で「質問への答えは、完全にイエスです」と答えた。
政府分科会のメンバーからは「やってはいけない」の声もあったが…

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私権制限は憲法改正が必要という見解は誤り

 日本では、欧米のような徹底した対策は、とれない、それは憲法のせいだ、という議論が、ネット上には多数みられる。おそらく、憲法改正したい政治家たちの思惑にのせられているのだろうけど、少し考えれば、おかしいことがわかるはずだ。そして、憲法の専門家であるひと達ではなく、むしろ素人のコメンテーターやSNSでの書き込みが顕著である。
 例えば、次のような意見がヤフコメに載っていた。1000以上もあるコメントのひとつで、わざわざアドレスは載せないが、このような見解は、いくらでもある。
 
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ロックダウンなど個人の権利制限は日本は出来ません。憲法違反になりますから。
立憲民主や反政府的立場の学者は拡大解釈によって憲法下でも権利制限の立法が可能だととんでもない危険な思想をひけらけしていますが、明らかに憲法違反となる法を作る危険性を軽視してはいけません。「日本の憲法は緊急事態が起こり得ない」ようになっています。緊急事態とは戦争を含みますので、憲法で緊急事態の概念を否定しているのです。

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チェリビダッケはレコード嫌いだったのか 井阪氏の見方

 前にチェリビダッケについての文章を書いたが、(チェリビダッケのリハーサル1~3 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1386 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1396 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1402)井阪紘氏の『巨匠たちの録音現場 -カラヤン、グールドとレコード・プロデューサー』(春秋社)を読んで、意外な評価だったので、再度考えてみた。
 本の題名には、2人の固有名詞が書かれているが、実はチェリビダッケも扱われている。録音芸術の巨匠だったカラヤンを別格として大きく扱い、更に、録音を完全に拒否したチェリビダッケと、生演奏を拒否して、録音だけの活動に入り込んだグールドを対照的な演奏家として、分析しているわけだ。そして、付録のような形で、有名な録音プロデューサーだったジョン・カルショーを加えている。著者は、録音プロディーサーということなので、実際に経験した彼等の録音活動を扱っているのかと思ったが、扱われている事実は、ほとんどが文献によるもので、それらの読み方に、実際の録音プロデューサーとしての分析を加えた形になっている。したがって、新しい事実を教えられたということは、ほとんどなかった。

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ワクチン接種の予約・指定方法について

 やっとコロナワクチンの本格的な接種の予約が始まった。一部には、先行接種ではない、本番の接種が高齢者に対しては始まっている。しかし、予想されたことだが、予約の混乱があちこちで発生しているようだ。高齢者は、大規模な集団接種が可能な最初の集団だから、混乱も大きいのかも知れないが、一般が対象になったときには、もっと人数が多いのだから、予約方法が改善されない限りは、より大きな混乱が生じる可能性がある。慣れによって改善される部分もあるだろうが。
 そもそも、こうした大量接種の順番を決めるには、どんな方法があるのか。
 大きく分けると各人の予約制と、行政による指定制がある。
 予約には、窓口予約、電話予約、ネット予約がある。郵便予約も方法としてはありうるが、コロナワクチンでは適当ではないので、郵便予約はおそらくまったく採用されていない。
 指定制は、番地など、なんらかの基準を設定して指定するのだろうが、行政がすべてを指定する方法と、グループ化したものを、順番を抽選で決める方法などが、今回実際に行った自治体がある。

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オリンピックに期待する経済効果は、ほぼ消失した

 毎日新聞が「東京五輪で景気浮揚たいした差ない 専門家切り札に冷徹」(2021.5.18)という記事を掲載した。要するに、五輪を強行しても、たいした経済効果はなく、また、中止しても、既に五輪に期待する経済効果のかなりの部分は済みになっているので、大きな損失はない。そして、無観客で実施した場合に、経済効果は小さく、逆にコロナの感染拡大が起きて、再度の緊急事態宣言など発出した場合の、経済的マイナスは非常に大きいという分析を、多くの経済学者がしているという記事だ。
 オリンピックに懐疑的な者にとっては、常識的な内容だが、オリンピックスポンサーのメディアが、ついにこうした内容を書くようになった。
 オリンピック開催が、東京に決まったニュースで、日本中が喜びに沸き立ったなどという報道があるが、それは間違いだ。当時から、どうして東京になんか決まったのだ、イスタンブールでよかったではないかと思った人は、少なくないのだ。当時文科省にいた森脇氏が、インターネットの番組で、そのように述べていたのが印象的だったが、石原知事がオリンピック招致に取り組んでいたとき、うまくいかなかった最大の理由が、世論の支持が低いということだったのだ。そうして、安倍第二次政権になって、ものすごいメディアによるオリンピック宣伝があり、わずかながら、オリンピック招致に賛成する意見が上回るようになったが、メディアによる「洗脳」とも言うべき宣伝がなければ、けっして逆転することはなかっただろう。

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新型コロナウィルス雑感 医療システムのこと

 医療システムのことを詳しく知っているわけではないが、やはり、感染者数が非常に少ないにもかかわらず、医療崩壊、あるいは逼迫が起きてしまうことについて考えてみたい。もちろん、大筋としては、日本の病院といっても、開業医や小規模な私立病院が多く、そうしたところでは、人手が相当必要な新型コロナウィルス対応はできないという事情があることは、既に散々指摘されている。それでは、日本医師会の中核となっている個人の開業医が、なぜこうしたことについて、あまり協力的になれないのか。
 まず欧米では、感染者が多いのに、医療崩壊が起きていないというのは、あまりに単純化しており、事実ではないと思わざるをえない。昨年春先のイタリアや、昨年のアメリカなどは、明らかに医療崩壊状態といってよかった。アメリカは、あまりそのようにいわれないが、そもそも、医療にアクセスできないひとたちが多数いるのだから、病院が逼迫しなくても、事実上の医療崩壊というべきだったろう。

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読書ノート『教育を拓く』序章 堀尾輝久

 序章の部分のみの考察をする。特に、国民の教育権論の部分だ。堀尾氏は、国民の教育権論の最も代表的な論客であり、その象徴的存在であった。そして、本書でも、国民の教育権論を擁護している。私自身も、国民の教育権論の支持者であるが、現状認識において相当な違いがある。そして、私自身の最も重要な自身の課題としているのが、国民の教育権論の再構築であるので、堀尾氏の検討は、避けて通ることができない。
 私は、国民の教育権論が、1980年代から90年代にかけて、完全にその力を喪失したと解釈しているのだが、その原因について、堀尾氏は一貫して、それを書いていない。新自由主義政策に圧迫されてきたという立場であろう。だから、新自由主義的な教育権論に対して、国民の教育権論を対峙していることになる。だから、ここでは喪失の原因ではなく(それは佐貫論の検討として行う。)堀尾氏の論理が、新自由主義的な自由論や公共性論に有効であるかを検討する。

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高橋洋一の統計の扱いへの疑問

 高橋洋一問題は、既に収まっているかも知れないが、一言付け加えておきたい。
 高橋洋一は、とにかく統計をもとにものをいう人だ。しかし、その統計自体が、信頼できなかったらどうなるのか。彼は、中国の経済統計は信用できないと、常々いっている。では、日本のコロナ感染者数の統計はどうなのか。欧米では、日本の統計は、実態よりかなり少なくでており、信用できないという見解は少なくない。検査数が圧倒的に少ないからだ。
 高橋氏が、今回のさざ波論で示しているグラフは、「外国の集計による」、だから参考になるという前提でだした結論だが、いくら外国の集計でも、日本の数値は、日本が提出したものだろう。
 現在の日本でも、広島は非常に増えているが、これは、明らかに、広島がかなりの検査数をしているからという側面がある。それに対して、東京は、人口に比べて、感染者数がいかにも少ない。高橋氏は、この広島と東京の感染者数を、そのまま比較できると思っているのか。思っているとしたら、統計を扱う人間として失格だろうし、高橋氏ほどの優秀の人間であれば、そんなことは思っていないはずである。とすれば、日本と外国の比較はどうなのか、という問題を処理する必要が出てくるではないか。もちろん、検査数が2倍になれば、陽性数が2倍になるわけではない。広く検査を行えば、当然感染していない人も対象になるから、数字上の陽性率は下がってくる。しかし、陽性数は確実に増えるだろう。こんなことは、まったく常識の範囲である。だから、欧米と日本の感染数を、そのまま比較するのは、統計上おかしいのだ。

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ミレルラ・フレーニを偲んで

 コロナ騒動とか、自分自身の退職時期と重なったためか、ミレルラ・フレーニが亡くなっていたことを、ごく最近知った。フレーニは、もっとも好きなソプラノ歌手だった。フレーニが得意とするオペラが、もっとも好きなオペラに入っていたからともいえる。とにかく、亡くなったことを知ったので、フレーニについて少し書いてみたい。
 フレーニは生で実際に聴いたことがある。ミラノスカラ座がアバドに率いられて来日公演を行ったときだ。アバド指揮による「シモン・ボッカネグラ」でのマリアと、クライバー指揮による「ボエーム」のミミだ。どちらも、超がつく名演だったが、聴いた席によって、声の質がまったく違うように聞こえたことが印象に残っている。シモン・ボッカネグラのときには、席を一階の後方で、レコードで聴く声と似ていて、ああフレーニだと思ったの他が、ボエームではずっと前のほうで、ずっと丸くふくよかな響きだった。「私の名はミミ」などは、本当に感動的な歌唱だった。

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