歳をとると、本を読んでもあまり感動しなくなってきたのだが、この本は、とても感動した。教育実践録としては、津田八州男氏の『五組の旗』以来だ。原田氏は、神奈川県で小学校教師を30数年勤めたあと、定年退職しているが、この本は、これまで雑誌などで発表してきた素材をもとに、実践の集大成としてまとめたような感じだ。こんな小学校の教師がいるのかと、正直驚いた。
これほど優れた教育実践書は、滅多にないので、教師のあり方を考えたい人には、ぜひ読んでほしい。
神奈川県のどういう地域で教師をしていたのかはわからないが、出てくる話は、とにかく、手をつけられないと多くの教師や親が考える子どもを、たくさん抱えて、彼等とコミュニケーションをとりつつ、子どもたち同士の繋がりを、通常のクラスよりもずっと強固なものに形成していく話である。しかし、そういう実践が、すんなりいくはずもなく、どの話も、苦労の連続で、暗中模索のなかで、子どもたちと一緒に考えて、なんとか改善しようという姿勢で貫かれている。
どんな優れた実践であっても、表面的にそれをまねることなどはできない。そして、原田先生も、最初からうまくいったわけではなく、また、ベテランになっても、それまでいじめられたり、教師に不信感をもっている子どもたちを、直ぐにまとめられたわけではない。悪戦苦闘を繰りかえして、次第に子どもたちを集団としてまとめていったわけである。その基礎には、全生研の民主主義的学級と班作りの理論があることが、随所でわかる。
優れた実践から学び、自分の実践に活かすためには、どこが優れているのかを、自分で応用可能なように、整理してみることだろう。原田実践の、他人でも学びとれる原則として、私なりに整理してみた。
・子どものどんな物言いにも、ネガティブな反応を返さず、それを肯定的に受け取るが、それが、決して、表面的なものではなく、そこに、発展の芽をつかみ取る姿勢を徹底している。
原田先生がトイレに行こうとすると「先生、もしかして生理なの?」「ねえ先生、先週セックスした?」などと聞いてくるのに対して、「抑圧されてきたからこそ隠微な笑いの中に閉じこめられている。そのままにしては現実からのスタートはできない」と考えて、「ごめんねぇ。それはプライベートなことだからね、教えてあげられないんだよ」と、まっすぐに目をみながら答えると「そうなのか」とあっさりと納得する。
そこで終わらせず、「ところでさ、いつも『**はチン毛が生えている』とかいって、笑っているけどさ、君たちはどうなの?」「えーっ、オレたちは生えてないようぉ」「そうか、それじゃね、生えてきたらちゃんと先生とお母さんに報告するんだよ」「なんでだよ」「だってそれは大人になったっていう証拠だからね、市役所に届けなくちゃならないんだよ」「えーっ・・・。ほんと?」
こんなやりとりをする。以後、彼等は、積極的に原田先生と話をするために、寄ってくるになったという。
子どものネガティブな発言、原田先生に向けられたものだけではなく、同級生に向けられたもの、どんな発言でも、決して、完全な否定をすることはない。もちろん、言ってはいけないことに対する注意をしないわけではないが、そういう発言を何故するのか、その意味を引き出そうとする。それは、「聴いてもらえる」という感情を子どもたちに起こさせたのだ。
・教室で暴れている子どもをもつ親を、決して非難・批判したりせず、ともに苦労していこうと共感を共有しようとしている。
親との関係は、たくさん出てくるが、「いつか思い出話をしよう 保護者たちとつながりながら」という章は、そこに焦点をあてている。教室で問題を起こしている子どもの親は、保護者会などにでても、小さくなっているのが普通だし、できるだけそうした個人的なことには触れない雰囲気が強まっているという。しかし、原田先生は、相談にきた母親と、つっこんだ話をしたあと、保護者会で、発言してほしいと要請する。内容も確認し、そのフォローも約束する。
そして当日、自分の子どもが騒いでいること、相談所や担任と連絡をとって、努力していると語り、原田先生は、努力していることに頭が下がる、クラスが騒然としているのは、自分の責任である、それなのに、一緒に努力すると言っていただけて大変光栄で、心強く感じると答える。そして、いつでも授業を見に来てほしいこと、なんでも気づいたことを知らせてほしいこと、ともに探って当事者としてやっていこうと提案する。そして、電話や連絡ノートなど、頻繁に連絡を取り合うようにしている。
問題を起こしている子どもの親は、学校からは、子どもと同じように、注意を受ける存在である。しかし、注意をすることからは、信頼関係は生まれないし、底にある行動の原因も明らかにならない。親との「共感」こそが、解決への一歩となるわけだ。
こうして、一緒に努力してくれる親を次第に増やしている。もちろん、子どもたちの荒れはすぐには収まらず、胃薬とのど飴を常備していたというが、それだけ苦労したクラスであるからこそ、長く、交流が続いている。
個人情報をやかましく言われるようになって以来、問題行動を起こす子どもがいても、学級全体と問題を認識して取り組んだり、保護者たちを当事者として取り込むという活動は、回避する傾向が強くなっている。しかし、そうした子どもたちの多くは、家庭でストレスを抱えており、親たちの協力なしには、解決しないことが多いのである。原田先生のように、プライパシーの壁を超えることが必要なのだが、それには、信頼関係を構築していく資質と能力が必要となる。また、壁を乗り越えようとする努力のなかで、資質と能力が形成されるともいえる。
原田先生は、ほぼ毎日学級通信を発行していたという。そして、そこには、子どもたちの様子を報告している。しかし、そういう実践をプライバシーの侵害として忌避する傾向が、強まっている。しかし、ハンナ・アレントが指摘しているように、プライバシーとは、「奪われる」という意味から来ているのであって、共に生活する者の間では、協働するに必要なことがらは、共有できなければ、協働は成立しないことも、忘れてはならない。
・子どもたちの知的意欲を引き出すために、かなり高度な課題をだしている。
高学年だけかも知れないが、学級討論を重視し、「総合」の時間を活用して、かなり高度な議論をしている。いくつか書かれているテーマを列挙してよう。
・集団的自衛権行使容認
・FIFAワールドカップをめぐるドクロバはなぜ英雄なのか、オシムとジェコとミシモビッチの民族問題
・ブラジル大敗後の暴動
・後藤健二さん殺害
・容貌障害
・大川小学校を残すべきか
・LGBT
・アパルトヘイト
他にもたくさんある。
記憶術の広告に、「一日15分やるだけで記憶力があがり、テストの点が大幅にアップする」という文句がある。みな食い入るようにみている、そして、「どうかな」と問いかけると、「やってみたい」というので、聞くと半数はやってみたいと手をあげた。首を傾げている子どももいる。それで、やってみたいと思うのは、どんなところかと書かせる。「だまされそうになった」という声もあがるが、「関西弁のカエル」「秘密という言葉が何だろうと知りたくなる」「漫画で誘導している」そして、疑問も出てくる。「写真と名前つきの体験談があるけど、うそかも」「90万人以上が成功っていうが、80万人が参加って、矛盾」「具体的に何をするか書いてない」「値段も書いてない」「無料プレゼントで住所を書くようになっているけど、あとで広告が送られてくるんじゃないか」
こうして、次第に、広告のもっている裏の意味を子どもたち自身がつかんでいく。
こういうやり取りや、社会問題なども、臆せず討論の材料にしているのである。
中学生の教育実習にいく前に、学生たちは、難しいところまで踏み込んでいいのでしょうか、などと質問をすることがある。そういうとき、ちゃんと調べて、わかりやすく説明すれば、どんなに深く、踏み込んでもいいと、答えることにしていた。そもそも、そういう質問自体が、自分があまり深く理解していないので、教えることが可能かという不安の現れである場合が多いので、深く教えられるくらいに、ちゃんと勉強していけ、という意味で答えるのだが、そのとき、社会の問題については、中学生でも、小学生でも、適切な説明や議論をすれば、深く理解できるものなのだ、ということも伝える。この原田実践は、それを如実に証明してくれている。
子どもたちの議論を見ると、本当に鋭い問題意識をもっていることがわかる。それは、原田先生が教えているというより、子どもたち自身が興味をもって調べていて、疑問などを率直に出し合って、議論していることによって、獲得できているものだ。
水準の高い教育とは、こういうことだろうし、教師はそうしたレベルを目指す必要があるということだ。
・子どもたちから、ごく自然にたくさんのことを学び、教えてもらっている。
まったく白けているという感じの6年生をもったとき、原田先生自身がコミュニケーションを子どもととることが困難だったが、そのなかでも、みなに無視され、いつも一人であるある子どもと、最初は冗談のようなやりとりをする中で、次第に、話が大きくなり、そのうち、戦争の悲劇など、強い問題意識をもっていることが、次第にわかってくる。そういうような例が、ここにはたくさん書かれている。それは、教師たるもの、「教える存在」だという意識に固執することはまったくない、子どもたち自身の姿を理解しようという姿勢から出ている。
そして、教師は常に学び続けなければならないが、学んでいる人間は、知らないことを恥と思わないし、ひとに教えてもらうことに対して、恐れない。教師は、教える存在だから、子どもたちから学ぶなどということは、教師として失格だと考えている者がいたら、それこそ教師として失格である。原田先生の学びは、子どもを理解したいという欲求によるものだ。