サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素

 イギリス、ロイヤル・オペラの「サロメ」を視聴した。フィリップ・ジョルダン指揮、ナディア・ミヒャエルのサロメだ。「サロメ」は、リヒャルト・シュトラウスの最初のヒットオペラで、現在でもかなり刺激的な内容、上演が非常に困難なものだ。カラヤンの極めて優れた録音があるが、これは、ベーレンスという、ついにカラヤンが発見した(といっても、ある人がカラヤンに伝えたということのようだが)歌手の出現によって可能になったものだ。クライバーの場合には、「サロメ」はやらないのかと質問されたとき、サロメ歌手がいればやると、と答えたという。だが、ついにやっていない。

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泥縄だらけのオリンピック運営 なぜそうなるのか

 子どもから「泥縄ってどういう意味?」と質問されたら、「オリンピックの準備のことをみれば、実際の「泥縄」がどんなことかわかるよ、泥棒を捕まえてから縄をなうということで、事が起こってから対策をとり始める、つまり、遅いのでちゃんとした対応がとれないことだよ」と教えることができる。実にわかりやすい実例を提供してくれている。
 オリンピックについては、開催か中止かではなく、有観客か無観客かが問題なのだそうだが、それは、スポンサーになっている大手新聞のまき散らしていることだということはさておき、この観客対応についてもいえる。
 この春先までは、中止論が強く、おそらく閣僚のなかにも、中止を建言する大臣がいたとされるのは、この時期だろうと思うが、聖火リレー強行によって、菅首相の開催強行姿勢が鮮明になったとき、組織委員会は、開催したとしても無観客だろうという意識が強かったとされている。そして、世間の風向きも同じだと、私は感じていた。無観客か有観客かは、実に多くのことが変わってくる。まず販売済みのチケットをどうするか。無観客なら代金の返却が必要だが、有観客なら、販売分全員入場させるのか、部分的なのか。部分的なら、どうやって区分するのか。抽選なのか、再度希望を確認するのか、等々。実はまだこのことが正式には決まっていないのである。泥縄対策すらできない状況だ。

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選択的夫婦別姓最高裁判決2 今回の判決は反対意見に価値がある

 前回の2015年判決を踏まえて出された2021年6月23日の判決は、結論はまったく同じであるが、補足意見や反対意見がかなりの相違をみせ、新聞報道では、ほとんど紹介されていなかった反対意見が極めて充実している。興味のある人は、ぜひ最高裁のホームページで全文掲載されている判決の本文を読むべきだろうと思う。結論は、ほとんど門前払いのようなものだが、かなりの量を占める反対意見は、おそらく、選択的夫婦別姓支持者が強く共感するような内容になっている。2015年判決では、反対意見を書いたのは一人の裁判官だけだったが、今回は、3人いて、原告勝訴と同等の判断を示しているのである。最高裁も、社会の動きにあわせて、確実に変化しているのかも知れない。因みに15名の裁判官の中で、共通して在籍しているのは3名だけで、12名が入れ代わっている。最高裁の判事はほとんどが60代で、定年が70歳だから、6年の間に、多数が退職し、新しいメンバーになっているわけである。それが、とくに補足意見と反対意見に反映されたに違いない。

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夫婦別姓訴訟最高裁判決のおかしさ1(2015年判決)

 6月23日に選択的夫婦別姓が争われた訴訟の最高裁判決がだされた。原告の全面敗訴だったといえるが、直ぐにブログに書いたが、そのときは、まだ判決文がネット公開されていなかったので、報道のみによって書かざるをえなかった。その後数日して公開されたので、読んでみた。いろいろ考えるところがあるが、23日の判決は、主要な理由説明が実に短い。あとは、補足意見が大部分を占めている。したがって、2015年に出された判決をまず検討する必要があると思い、まず、2015年の判決を、ここで考察の対象とすることにした。
 興味深いことに、23日に出された判決の訴訟では、憲法に関しては、14条と24条の違反という訴えになっている。私は、そのことに疑問で、13条がもっと重要ではないかと考えているのだが、2015年判決の訴訟では、13条も入っている。しかし、私の考えている13条解釈とは異なるものだった。(その点については、次回詳しく書く。)
 具体的にみていこう。(判決文は最高裁のホームページに掲載されているものによった。)
 最高裁の判事は、常識的にみて、日本で、法律や社会の争いに関して、最も深い知見をもっているひとたちであると思われるのだが、この判決文を読む限り、その論理の不徹底やごまかしが、どうしても眼について仕方ないのである。こんなレベルなのか、と。

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Pepperの販売停止

 Pepperの製造が中止されたという報道がある。「ソフトバンクG、「ペッパー」製造停止=販売低迷、ロボット事業縮小」(時事通信2021.6.29)だ。理由は単純で、あまり売れ行きが芳しくないということだ。仕方ないかなと思う一方、やはり残念である。
 実は、私がまだ大学に勤務していたとき、私が学科長や学部長に働きかけて、Pepperを購入した。本当はNaoがほしかったのだが、あまりに高額なので、なんとか手が届くPepperで我慢したということもあったが、キャンパス内で最初の購入だったので、けっこう話題にはなった。もっとも、教員たちが、もっと関心をもって使ってくれるかと思ったのだが、そうでもなかったのは残念だ。

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都立高校の男女別枠定員問題について

 東京の都立普通高校のほとんどが、男女別に入学定員設定していることについて、都立高校教師の有志が、撤廃の署名を求め、また、弁護士らが撤廃を求める意見書を提出するという動きになっている。28日の毎日新聞に「「東京都立高の男女別定員は廃止を」弁護士有志らが意見書公表」という記事を掲載している。
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性別による合格ラインの差を生む東京都立高校の男女別定員制は、法の下の平等を定めた憲法や性別による教育上の差別を禁じた教育基本法に反するとして、弁護士の有志たちが28日に記者会見し、制度の廃止を求める意見書を公表した。

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天皇のオリンピック発言は、憲法にそったものだ

 あいかわらず、憲法学者の何人かから、24日の西村宮内庁長官を通して発せられた天皇の気持ちに対して、越権行為であるという意見が寄せられている。例えば、次のように報道されている。
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 今回の発言について、憲法学者からは厳しい見方も出ている。横田耕一・九州大名誉教授は「宮内庁長官が政治に絡む天皇の思いを公にするのは、問題で越権行為だ。『感染拡大を心配している』との発言は『こんな時に開催するのはけしからん』という意味を持ってくる。五輪に反対する人たちが天皇の意見として都合のいいように利用する状況が生まれかねない」と警鐘を鳴らした。
 百地章・国士舘大特任教授は「陛下の思いは、開催した場合に感染拡大が起きないようにしてほしいということだろう」と指摘。そのうえで、「仮にそういう趣旨の思いを感じ取っても、西村氏は公にするのは控えるべきだった」と語った。
 しかし、憲法学者としては、情けない発言である。憲法に則して、考えてみよう。厳密に、そして、条文に則して考えるために、天皇の章を全文確認しよう。

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教員採用試験の倍率低下 ずっと前から予想されたことだ

 教員採用試験の受験者が減っていることが、またまた報道されていた。数年続いている低下傾向に歯止めがかかっていないということだ。私は、20年近く前から、つまり、教員人気が高い時期から、やがて日本でも教師の人気が低下し、教員不足が生じることになるだろうと主張してきた。実際に、現場では、定年退職しても、希望する限りずっと教員として継続できる自治体が少なくない。つまり、教師不足は既に始まっているといえるのである。
 欧米では、ずっと前から教員不足は深刻な社会問題であった。もっとも、国よって多少の相違があり、私が1992年にオランダに行ったときには、まだ教師は人気の職業だったといえる。長女(小学校5年生)の担任は、採用2年目で、採用試験について教えてくれたが、そのときには、30倍以上だったという。日本と違って、採用は学校単位で行われるために、採用人数は1~3名程度であって、他で採用されなかったひとたちは、集中するから倍率が高いという事情はあるが、全体として、小学校の教師になるのはけっこう難しいといっていた。そして、書類選考で選抜されたあと、実際に子どもたちを前に、1時間の授業を行い、それを審査員たちが後ろでみている。そしてその後面接があるということだった。

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天皇のオリンピック発言

  天皇のオリンピック・パラリンピックによる感染拡大の危惧に関する発言が、大きな議論を呼んでいる。非常に興味深いことは、この発言が西村長官によって紹介された早い時期には、ヤフコメは、天皇の発言が、憲法で禁止されている政治的行為であるという前提で議論するコメントが多かったのだが、次第に、当然のことを語ったのであって、政治的発言とはいえないというコメントが多くなっていることだ。例えば、九州大学法学部の南野森氏は、昨日「宮内庁長官の発言に対しては、憲法学の立場からはノーと言わねばなりません。良い悪い・好き嫌いは別にして、現憲法では天皇に国政に関する権能はなく、国政に関する思いを明らかにすることは認められていません。宮内庁長官という、天皇に最も近い場所にいる公務員が、「拝察」という、あくまでも自身の考えにすぎないという体裁をとったとしても、その実質は同じです。これを長官の個人的な想像と理解する人は普通はいないでしょう。」と書いている。https://news.yahoo.co.jp/articles/6e6f550e9c783c729b9ee7f3388d33230c905e2d/comments
 他にも、天皇の政治的発言をかわすために、加藤官房長官は、西村長官の個人的意見と述べたことは正しいとするコメントも多数ある。しかし、日が改まって、今日(25日)になると、憲法で禁止された発言かどうかを問題としないコメントがほとんどになっている。つまり、天皇の発言は当然だという支持である。
 この天皇発言は、非常に難しい問題をいくつか含んでいるように思われるのである。

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『教育』2021年7月号を読む 人材育成は大学教育の役割ではないのか

 『教育』7月号は、第一特集が「大学はどこへ向かうのか」となっている。そして、最初に、基本命題を書いたような文章があるのだが、疑問が出てくる。それは後回しにして、まず書かれていることを箇条書きで整理しておきたい。
 
・21世紀の20年間は、内発的ではなく、外圧による大学改革の時代だった。
・国公立大学の法人化は、大学の自治を解体し、教育・研究の在り方を大きく変えた。
・産・官・学連携は当たり前のことになった。
・役にたつかどうかが、価値を決定し、学問の自由とは相いれない
・この状況をもっとも反映しているのは、教員養成の分野であるかもしれない。
・実務家教員の採用強制など、大学教育への直接的な介入はあとを絶たない。
・大学版学習指導要領である教職課程コアカリキュラムが自由を脅かしている
 
 内発的か外圧かというのは、いろいろな考えがあるかと思うが、決して、大学改革は外圧だけだったとは思わない。大学にとって、改革の必要性を最も強く感じさせたのは、とくに私学では、少子化による大学全入状況だった。端的に「大学冬の時代」と言われ、応募数が大きく減少すれば、存立そのものが危うくなるわけだから、大学もかなり一生懸命、改革に努力したはずである。私の勤務校でも、短大はつぶれてしまったし、専門学校もつぶれた。それらを4年制に吸収する形で改革を行ってきたわけだ。これは、純粋に内発的であったと断定はできないが、少なくとも外圧とはいえない。

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