読書ノート『シン日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』松竹伸幸(文春新書)1

 ここ数日、共産党員の松竹伸幸氏が、『シン・日本共産党宣言』という著書を出版し、それにあわせて記者会見をしたことが話題になっている。その動きを知ったのは、実は昨日なのだが、記者会見は19日であり、この本の奥付の出版日は20日である。記者会見では、党首公選を主張し、実現したら自分も立候補すると表明したようだ。各種新聞に出ている。そして、21日に、共産党の赤旗が、「規約と綱領からの逸脱は明らか――松竹伸幸氏の一連の言動について」と題する赤旗編集局次長藤田健氏の反論を掲載した。
 そして、23日に、志井委員長の記者会見があって、藤田見解につきていると述べたという経緯である。
 党内事情はまったく知らないので、裏事情はわからないし、また興味はないが、以前から関心をもっていた党首公選制については、やはり、考察しておきたいと思って、本書を早速購入し、読んでみた。

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再論 学校教育から何を削るか16 入学試験2

 前回は、受験体制の弊害をみたが、今回は日本の受験制度の特徴と問題を整理しておこう。
 日本で行なわれている入学試験のありかたは、日本人にとってはあまりに見慣れた風景であるし、また生徒たちの日常を支配してきたので、これが普通なのだと思っている人が多い。しかし、世界を見渡せば、日本の入学試験制度は、かなり特異な部類に属する。尤も、日本の受験システムが、最も苛烈な競争試験だというわけではなく、世界には、日本よりもずっと受験生にとって過酷なものがある。シンガポールの選抜制度は、小学校の平常の授業から大学入試まで、敗者復活戦のほとんどない選抜システムであり、日本の比ではないといえる。しかし、戦前からの受験システムは、日本の教育の質そのものを規定するほど浸透している点で、やはり、独特であり、なくす必要があるのである。
 

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再論 学校教育から何を削るか15 入学試験1

 日本の教育が受験制度によって支配されてきたことは、改めて指摘するまでもないが、この受験制度こそが、日本の教育を歪めているだけではなく、日本社会にも大きなマイナス要素をもたらしていることに、改めて注目する必要がある。もちろん、教師の過重労働の大きな原因ともなっている。だから、入試制度を廃止することは、教師の過重労働の改善だけではなく、日本の教育全体、そして社会の改善に役に立つことなのである。
 尤も、現在の日本の学校においては、かつての受験地獄と言われた高校入試や大学入試の時代とは異なっている。高校も大学も数値的には全入の時代で、学校を選ばなければ必ず入学できる学校がある。現在でも苛烈な受験勉強が必要なのは、有名私立・国立中学を受験する小学生と、高偏差値の大学を受験する高校生という、一部の者になっている。そして、「浪人」は死語になったとも言われているほどだ。しかし、それにもかかわらず、受験戦争時代の感覚が教育行政や教育界に浸透しており、なんとか競争を維持、拡大しようという政策も相変わらず存在している。従って、入試制度そのものの廃止という主張は、ますます意味をもってきている。というのは、入試制度がある以上、教育の質を変えることは難しいからである。

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平安女学院でまた訴訟沙汰が

 京都の平安女学院で騒動が起きているという記事がいくつかあった。ひとつは、訴訟が起きていることを報じている。「理事長批判で解任「パワハラ放置は学校滅びる」 平安女学院中学・高校の教員4人提訴」(京都新聞1.19)
 平安女学院関連の訴訟というと、10数年前におきた滋賀県守山キャンパス撤退問題での訴訟をかなり調べたことがあるので、またか、という感じであった。理事長が同じ人なので、繋がっているともいえる。
 守山キャンパス問題とは、2000年に、平安女学院大学が、滋賀県守山キャンパスを開校、しかし、思ったように学生が集まらず、2005年に守山を撤退、高槻キャンパスに統合、在籍していた学生も移すという、少々乱暴な移転計画だったために、守山キャンパスで学ぶことができるという条件で入学したのだから、卒業するまで維持してほしいという要求の訴訟だった。しかし、学生側が敗訴している。(提訴したのは一人だけ)

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「タイパ」はZ世代の専売ではない

 「あなたも言ってない?「タイパ」重視のZ世代が嫌う、あの“おじさん常套句”」という記事があった。
 今の学生が、中高年おじさんの「自分の若いころは・・・・」という語りを時間の無駄だと思って嫌っているが、これは、若い世代、Z世代がタイパ意識が強くなっているからだ、という趣旨の文章である。非常にわかりにくい文章で、言いたいことが整理されていないが、面白いと思ったことがいくつかあった。
 
 「自分の若いころは・・・」という中高年の嘆きは、今に始まったことではなく、「近頃の若い者は・・・」というおじさんの愚痴は、エジプトの古代文書からも見つかったそうで、人類普遍の愚痴らしいから、Z世代と絡めるのは、適切とはいえない。タイパ意識も、Z世代特有のことではないはずである。
 「タイパ」とは、この文章で始めて知ったのだが、ストリーミングサービスなどで、ドラマを見るときに、倍速視聴をする若者が多く、若者は当然視しているが、おじさん世代は「そんなことでドラマをきちんと味わうことはできない」と批判が巻き起こり、論争になったのだそうだ。

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高齢者の運転免許試験について

 昨年も、高齢者ドライバーによる死亡事故がいくつか起きて、メディアによって大きく報道された。実際には、若者によるそうした事故のほうが多いそうだが、報道は高齢者事故に焦点をあてることになっているので、目立つようになっている。
 高齢者による大きな事故というと、池袋の事例がすぐに引き合いにだされるが、あの事故は、かなり特異な事例で、高齢者運転のより普通の問題を考えるのにはふさわしくない。なぜならば、池袋という交通量と歩行者の多いところ、しかも、たくさんの公共交通機関があり、もともと個人が車を運転することは比較的少ない地域で、90歳の超高齢者が運転していたという事例である。しかも、家族は免許証返納を強く勧め、本人もある程度その気になっていた。そして、エリート意識が大丈夫という気持ちを起こしていたことも十分考えられる。

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学校教育における演劇教育を考える2

 日本文化のなかで、演劇的芸術が弱体であれば、学校教育で演劇教育が重視されないのは必然的であろう。狂言や歌舞伎を学校教育のなかに、実際に演劇として行なうものとして取り入れることは、あまり賛同を得られそうにない。高校の演劇部ならありうるだろうが。そういう歴史があるにもかかわらず、何故演劇教育的要素を、義務教育段階で取り入れるべきなのだろうか。
 
 直接には関係ないことから始めよう。
 私が中学で英語をならい始めたころ、学習方法は文法的な内容と英語を読む(意味を理解する)ことが柱だった。もちろん音読はしたが、あまり重視されていなかった。単語試験などは頻繁にあったが、いずれも英単語が印刷されていて、その意味を書く。あるいは、日本語が書かれていて英単語を書くという方式だった。それが当たり前だったから、一生懸命スペルを、紙に書いて覚えたものだ。今から考えると、実に非能率的、というよりもむしろ害のある学習法をとらされていたと感じる。音声の学習は、非常に限られていたのだ。もっとも、それも仕方なかったともいえる。当時は、ネイティブの音声を聴くことができる器具がないに等しかったからだ。レコードはあったが、外国語の学習には、とても便利とはいいがたいものだ。後にカセットが出回るようになったが、けっこう高価だったし、既にならい始めの時期を過ぎていた。

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学校における演劇教育を考える1

 日本の教育のなかで最も劣っているのが演劇教育だ。演劇は、音楽とか美術などと違って、人によって趣味が異なる領域というよりは、国語教育の一環なので、だれにも必要なことだが、日本では、整ったカリキュラムになっていないし、学習指導要領でも重視されてもいない。
 その理由は何だろうか。それには、日本の文化のなかに、演劇が歴史的に根付いていないことと、その反映として学校教育で軽視されているというふたつの側面を見る必要がある。
 
 まず、日本には、国民的な演劇作品、演劇作家が存在しないという事情がある。イギリスなら、シェークスピア、ドイツならゲーテやシラー、フランスならモリエール、ボーンマルシェ等々、主な西洋の国には、たいてい国民作家と言われるひとたちが、国民に普及している演劇作品を残している。江戸時代の後期に、芝居小屋ができて、ある程度人気を博していたが、その時期に国民的劇作家が生まれたわけでもなく、また今日でも上演されている著名が演劇が書かれたわけでもない。その時期に今でも継承されているのは、落語だろう。

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河野太郎氏の二重国籍案

 河野太郎氏が、日本も二重国籍を認めるべきだと発言して、保守層からの非難が高まっているそうだ。解説記事は、「「二重国籍」騒動、河野太郎氏がブログで真意「議論する余地がある」」であり、
河野氏自身のブログでの釈明のような文章は以下である。
 河野氏の趣旨は、要するに二重国籍を認めている国があるのに、日本が認めないと不利になる人が出てくる、だから認めるべきであるが、国会議員など、国の要職に就く者には認めるべきではない、というものである。
 国籍問題は、国際関係が複雑に絡み合っていて、極めてやっかいな問題であるし、河野氏に対して「国賊」などという言葉が浴びせられることをみても、感情的な反発が起きやすい問題でもある。河野提案が実現すれば、国籍問題が解決するわけでは決してない。

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アバドのコンプリートをめぐって

(昨日書いてアップを忘れていた文です)
 数年前、ネット上の友人は、好きな指揮者としてフルトヴェングラー・ムラビンスキー・クライバーをあげた。それに対して、返答として、私はワルター・カラヤン・アバドをあげた。はっきりした好みの差だ。友人は、おそらく音楽を深く沈潜するような聴き方をするに違いない。音楽は単なる快楽ではなく、精神的な要素がある、と。しかし、私は、音楽に関しては、まったく快楽派なので、音楽は、楽しく美しいのがよいと思っている。そういうなかで、最もセンスのよい快楽派が上記3人だ。もっとも、ワルターもカラヤンもアバドも、単に音楽は美しければよい、と考えているわけではないと反論する人もいるかも知れないが、少なくともいわゆる「精神派」でないことはたしかだ。

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