研究者になりたい学生への対応 神戸大学の処分から

 神戸大学のハラスメントによる懲戒処分の記事が複数あった。しかし、内容が多少異なり、かつ、複数の教師が対象になっているので、正確な事実関係がわからないが、不正確でも、そういうことが、もしあったのなら、という仮定でも十分に考える必要がある。
 
 まず、「「神戸大准教授、複数の学生に「お前みたいな成績悪いやつが」…別の准教授は職務放棄発言」」という読売新聞の記事だ。
 この記事では、ゼミに所属していた学生に、「私の能力では博士課程修了まで指導はできない」といって、学生が志望の変更を余儀なくされたとし、また、この学生に、「他の学生の成績を見せた」としている。この教師は4カ月の停職処分になったという。しかし、別の記事では、事実関係が異なって書かれている。

 「大学院研究生らの能力否定 ハラスメントで神戸大准教授処分」
という神戸新聞の記事だが、ここでは、「合格者の能力を否定した」として、「 私のところで研究するには能力が足りない」といったとされている。停職処分4カ月は共通しているので、同じ教師のことだろう。だが、前者の記事では、自分の能力がたりないといい、後者の記事では、学生の能力か足りないといったことになっており、まったく事実が違う。正確なところはわからないが停職4カ月になるのだから、自分の指導能力のことではなく、相手の研究能力の不足をいったというのが、事実なのではないかと推測される。
 
 この教師は、博士課程の担当者なのだろうから、自分は博士課程修了までは指導する能力がないと、学生に言うのは、いかにも不自然だ。もし、本当にそう思っているならば、博士課程の担当者にならないはずである。担当者になっている以上、自分には指導能力があると思っているのだろう。だから、学生に対して述べたのだろうと思う。
 もうひとつ、前者の記事では、ゼミの学生に対してだが、後者では、合格者に対してという違いもある。合格者に対して、そのように述べるとしたら、私としても、肯定できないと感じる。合格したということは、その潜在的能力はあると、大学院として認めたことなのだから。
 
 さて、学生が大学にいって、研究者になりたいと相談にきたとき、どうすべきか、という問題は、なかなか難しい。私が学生だったときには、教師に相談にもいかないし、また、教師が、私たち学生に、能力がないから研究者にはなれない、などということも、考えられなかった。逆に、私が勤めていた大学では、研究者になりたいという学生は、ほとんどいなかったし、実際に私のゼミで、学生のほうから、研究者になりたいので、大学院に進学したいと相談してきた者もいない。そもそも研究者になどなれないと、はなから決めつけていた学生がほとんどだ。もちろん、大学院に進学した学生はいるし、大学の教師になっている者もわずかだがいる。そういう人たちには、私のほうから勧めたケースが多い。
 そういう状況で、私は教師をしていたので、正直、研究者になりたいと、ゼミの学生が言ってきたどうしようか、と日頃から考えていたことは確かだ。否定的なことを言わねばならないと思っていたが、それをどういうか、きつく言って諦めさせるのか、あるいはやんわりと再考させるのか、で考えあぐねていたのであって、それはぜ挑戦しなさい、といえる場合は、あまりないだろうという状況認識だった。
 
 私の場合、積極的に行きたいのだが、と相談を受けたことがないのだから、こうしたハラスメントは、なかったと一応認識しているが、神戸大学のような位置だと、教師として迷うことが多いのではないかと思う。研究者として、りっぱにやっていける資質をもった学生もいるだろうが、伸び悩んで、結局針路変更を余儀なくされると思われる学生も多いに違いない。現在の高等教育政策のなかで、大学にポストを得て、更に研究者として、いきいきと研究生活をしていけるようになるのは、能力だけではなく、かなりの運がなければならないことは、研究者の多くが認めているだろう。
 私自身、なかなかポストを得られなかったのだが、私の専門領域の研究職ポストの募集は、3~4年にひとつ程度だった。だから、専門の違う領域で応募することが多かった。同じ研究室の人たちも、ほとんど就職には大変な苦労をしたものだ。
 他方、私が大学教師になって、10年くらいたったときに、臨床心理学ブームがおき、文科省が臨床心理学科の設立を容認したので、臨床心理の専門家は引く手あまたな状況になって、奪い合いが行なわれたほどだ。しかし、一巡して、ポストが埋まってしまうと、やはり、厳しい状況が生まれたのである。
 
 本人の努力だけでポストをえることが難しい以上、能力だけではなく、本人の楽観的な感性、と諦めない強い意思力も必要である。運良くポストをえられる者が少ない以上、研究者を育てる立場にいる者にとっては、甘いことは学生にいえないし、安易な気持ちで進むことに対して、警鐘をならしておく必要もある。また、極端にいえば、能力を評価しない旨言われて、ぎゃふんとなってしまうようでは、運に見放されてしまう時期を乗りこえられるのか、という不安もある。
 ただ、「君には研究者になる能力がない」と断定的にいうことは、やはり、教師として間違っている。もっと適切な指摘の仕方があるはずだ。研究者だから、自分の領域の研究をやりたいという若手がいることは、それだけで非常にうれしいはずである。しかし、前途に困難が待ち受けているから、安易に勧めるのも無責任になってしまう。そういうことを率直に語って、本人に決めさせればいいのだ。
 
 もうひとつの処分である「お前みたいな成績悪いやつが研究を楽しめるわけがない」などと暴言を学生に向かっていったというのは、論外というべきだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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