科学技術立国と博士課程問題

 科学技術立国としての日本の地位が低下していることが、しきりに言われるようになっている。あちこちで記事がでるが、本日(5日)に「「科学技術立国」生き残れるか テコ入れ急務の博士活用政策」と題する、かなり長文の論説がでた。
全体として、博士課程の充実と、博士たちの処遇の改善が、必要であるとするもので、現在の政策では、どんどん日本の地位が低下し続けると警鐘をならしている。
 全体としての主張に異論はないが、しかし、多少粗雑で、領域を区別しない議論には、違和感を感じてしまう。博士といっても、分野によって、その重みが違うし、また、取得する大学院によっても、実はかなりのレベルの差がある。それに、日本社会では、博士号をもっていることが就職の条件になっているところは、極めて少なく、理系の大学くらいではないだろうか。大学といっても、文系の場合、博士号取得を条件にしているところは、極めて少ないと思われる。実際に、文系の場合だが、博士号をもっていない優秀な研究者はたくさんいるし、博士号をもっていても、あまり高い能力を感じない研究者もいる。

 
 この文章で、最も疑問に思ったのは、理系と文系とを、きちんと区別して議論していない点である。私は、文系に関しては、博士号の取得を重視するような政策は、不要であると思っているし、逆にマイナス面があると思っている。そして、特に私学の文系の大学院は、本当に大学院としての機能を果たしていると思えないところも、少なくないと感じるのである。本記事に、戦後の大学院の教員と院生の推移を示す数字が書かれていたが、要するに、院生はかなり増えたが教員はあまり増えていないという。それは、確かに事実だ。最近の研究系の国立大学では、そうではないと思うが、大学に大学院が設置されたときに、大学院だけの教員が配属されるのではなく、学部も大学院も両方担当するのが普通である。だから、大学院ができると、それまでの学部のための授業に加えて、大学院の授業が増えるだけなのだ。もちろん、多少教員の定員が増えることはあっても、増えた院生に該当する分の教員増員が実現することはほとんどないと思われる。だから、多くの場合、大学院が設置されると、教員の負担は確実に増えるのである。
 しかも、大学院部分はほとんど赤字である。教員の増員はしないとしても、受け持ち授業は増えるし(それだけ当然給与が増えるから、人件費コストが上昇する)、研究費や設備、図書など、大学院設置、運用に関して、かなりの費用がかかる。しかし、通常院生数は少ないから、収入はあまり増えない。そこで赤字になるわけだ。
 では、何故設置するのか。もちろん、優れた教育効果をあげて、優れた人材を送り出している私学の大学院もあるだろうが、私には少ないとしか思えないし、また、博士論文の認定も甘く、それほど優れた業績があげられているようにもみえないところが、少なくない。にもかかわらず、設置するのは、経営側にも、また多くの教員にも、大学院を設置することによって、大学の格があがると思っているからなのだろう。そして、学部の応募も増えると。しかし、私が赴任していたところでは、大学設置が応募を増やしたには、とうてい思えなかった。もっとも、修士課程の履修を必要とする資格にかかわる学科は、必要だから設置していたが、その場合には、院生数も比較的多く、ぎりぎり採算ラインだったかも知れない。
 
 読者の多くは知らないかも知れないが、現在の大学は、その主たる目的によって、区分されている。研究大学とか、教育を主に行う大学、実技系等である。私が所属していた大学は、教育目的の大学であって、研究によって勝負するような構えにはなっていなかった。私自身は、教師になろうと思っている学生に、教師としての力を身につけさせるべく、日々努力していて、もちろん、研究もしていたが、主な注力先は、学生指導だった。だから、当初は関わっていたが、途中から大学院を担当することから降りてしまった。そのことによって、私自身も、また、ゼミの学生も不便になったことはない。私も何人か大学院に進学させたが、研究を目的とする大学の大学院で学ぶのがよいと考え、皆そうした大学院に送り出した。
 つまり、多くの私学の大学院は、実際にはあるべき水準では、あまり機能していないし、むしろ負担になっていることが多い。そして、そもそも、文系の博士論文や博士課程の院生、担当教員が、「科学技術立国」に貢献する要素は、極めて少ないと思う。だから、乱暴な言い方になるが、そういう大学院は、なくてもよいのではないかと思うのである。
 
 しかし、理系の大学院は、文系とはかなり違う。だが、記事の、博士課程にいかず、修士で就職してしまう院生が「多くなっている」というのは、事実ではないと思う。私が学生、院生だったときから、理系は修士までいく学生が非常に多かったが、博士にはいかず就職する者がほとんどだった。博士にいくと、民間企業にはいけない、しかし、オーバードクターが多く、大学に就職することは困難だったので、そもそも博士にいくつもりはなく、修士に進学する学生が多かったということだ。そういう意味では、この構造は50年近くもかわらずにきたといえるのだろう。
 この間に、以前は日本では博士号をとるのが、非常に難しく、留学生が博士号をとるために日本にきたのに、とれないまま帰るのはつらい、という不満がたくさんでて、博士号取得の条件が緩くなったという変化はあった。博士号の名称も変化したわけだ。(以前は領域によって、**博士だったが、今では学術博士に統一され、括弧内に領域をいれるようになっている。)
 そして、一時期は、博士課程を新設すると、実際にどの程度博士を生んでいるかを、文科省が調査し、博士号取得がなかったり、極端に少ないと、指導が入ったようだ。それで、認定水準を下げた大学が少なくなかったと言われている。こんなことは、本末転倒としかいいようがない。
 
 こうしているうちに、日本人の論文数が減少し、科学技術の面でも、リードできる分野が減って、衰退が叫ばれるようになった。誰もが打開の必要を感じているが、特別な処方箋があるとは思えない。あるとしても、かなりに年月が結果を生むためにはかかるだろう。
 
 私からみると、文科省がとってきた大学政策が、かなり間違ったものだったといわざるをえない。科学技術庁と文部省が合体して、文科省になり、文科省が大学にいろいろと口出しをするようになって、教育研究条件が悪化した面が多い。とにかく教員に課せられる「雑務」が膨大に増えた。例えば、シラバスだ。以前の大学教育は、確かにいいかげんなところがあったと思うが、今は、毎時間の授業の内容を、半年前に文書で提出して、進学年度に学生に印刷されて配布される。そして、15回必ず授業をしなければならず、試験やレポートについても、細々とした作業が求められる。入試、教育等の「ポリシー」を制定して、公表するとか、授業評価等、授業そのものの準備より、その外形を整えるための作業が、授業準備を圧迫するほどに多くなっている。これが、大きな大学で、学生から博士の院生までいるような大学では、私が背負っていた事務量など比較にならないくらい大きいのではないだろうか。それでは、研究に力をいれること自体が、かなり阻害されてしまう。
 そして、研究費は、外部資金をとってこなければならない。理系は、とくに膨大な研究のための費用がかかるから、かなりの資金が必要だ。そのための事務作業もまた膨大になる。使い方に多少の変更をすると、不正支出と認定されてしまう危険すらある。研究というのは、予定通りにいくものではないから、とってきた資金を、計画を提出したときとは、違うように使いたいことがおきるのごく自然なことだ。研究費の不正使用などとニュースで騒がれる事例も、よくみると、私的に使ったわけではなく、費目の変更に過ぎないことが多い。
 やはり、研究には、多少ルーズさを認める必要があり、すべて枠にはめた作業しか認めないなら、自由な研究など進展しないだろう。
 
 しかし、外部資金を豊富にとってこられる大学や研究室は、まだよい。資金があるから、院生やポスドクが研究を進めることができる。しかし、外部資金をなかなか獲得できず、予算も年々削られている地方の国立大学は、ほんとうに研究を進めることが難しくなっているという。文系なら、なんとかなる部分もあるが、理系は資金がなければ、致命的である。
 研究の世界に限らず、どんな分野でも、裾野が広いことが、人材が育ち、成果がでる条件である。わずかな人しか取り組んでいないのに、突然天才が現れて、世紀の発見や発明がなされる、などということは、滅多にしかおきない。やはり、多数の人が、切磋琢磨することによって、少しずつ成果がでてくるものなのだ。そういう意味で、重点的な大学にだけ資金を豊富に提供して、多くの大学を貧しい状況におくことは、極めてまずい政策である。
 少なくとも、国立大学は、どこでもそれなりの研究ができるだけの資金や設備があり、また、不足分を補えるように、大学間協力が自由に行なわれ、更に、社会が求める科学技術に寄与するために、産業界との協力もしやすいような環境つくりが必要なのではなかろうか。
 
 そして、最も重要なことは、大学のポスト、それも任期制でないポストを確実に増やすことだろう。特に国立大学では、文系ではなく、理系のポストを増やすべきである。研究者にとって、切実なことは、ポストを失う心配がなく、長期的な視野で研究を継続できることである。そうした研究から、やはり、優れた研究成果が生まれる可能性が高い。研究機材などは、大学や研究所で協力して融通し合うことはできる。しかし、実際に研究を行なうのは人であって、人が安心して課題に取り組める体制をつくることが、最も大事であることは、すべての研究者が認めるだろう。
 任期を区切って、短期的な視野しかもたせず、次のポストを探しながら研究をしても、思うような成果が生まれるはずがないのだ。
 文科省がとってきた政策は、間違っていたのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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