環境が変わらないと気付くのは難しいのだが

 宮崎園子という、元大手新聞社の記者だった人が、退社してフリーランス記者になって「よくわかった」ことを書いている記事が出た。(3月6日付け)
「新聞記者を辞めてよくわかった、新聞が読者の「知りたい」に応えられない理由」
 
 一読して残念な感じになる文章だった。新聞社の記者だったときには、よく分からなかった、あるいはあまり強く意識しなかったことを、フリーランスという立場で活動するようになって、実感としてわかるようになったことがいくつかあるという記事だ。
 地方議会の取材にいったときに、記者席に座ろうとしたら、記者クラブに入っていない記者は座れないのだ、と言われて、改めて記者クラブにいることによって、大きな情報アクセスの機会が保障されていたのだということ。記者クラブは特権だったと気付いた。

 新聞社時代には、子育てのために早めに退社しなければならないときに、「申し訳ありせん」という言葉をいつも発していたが、そういう気遣いが必要なくなり、子育てに必要なように時間が使えるようになってよかった。その逆として、会社にいるのは、お気楽なおっさんだらけだとわかった。
 そして、フリーランスになって、地域に根ざした生活が理解できるようになった。例えば、広島市の放課後児童クラブが有料化され、世帯によっては現行の5倍の費用がかかるようになるのに、「丁寧な報道はない」。
 最後に、「組織に属さない個人になったことで、堂々と女として生きていこうと思えるようになった」と結んでいる。
 
 共感をもって読む人もいるだろうが、私は、違和感をもったし、レビューも否定的なものが多かった。記者クラブが特権をもっており、それがメディアの報道を著しく歪めていることは、ずっと以前から指摘されていたことだ。しかし、この記者は、記者クラブを離れてから、少なくとも実感としては、その特権性に気づき、疑問をもつようになったように受け取れる。私は、大手メディアの記者は、その特権を享受しながらも、それが報道を歪めていることについては、それなりに自覚しているのだと思っていた。記者クラブへの批判が、目に入らないはずがないからである。
 児童クラブの有料化について「丁寧な報道がない」ことに、不満をもらしているが、誰に対してなのだろう。フリーランスになったとはいえ、自分も記者ではないのか。大手メディアが報道しなければ、自分が「丁寧な報道」をすればいいのではないだろうか。フリーランスだから、報道ができないというのであれば、組織に属さない個人になったことで、堂々と女として生きていこうと思えるようになったというのは、どういう意味なのだろうか。また、組織に属している個人は、女として生きていけないと思っているのだろうか。組織に属していても、女として堂々と生きている人はたくさんいると思うが、そういう人たちは、堂々と生きていないと解釈しているのだろうか。
 
 大手メディアの記者をしていたのだから、知的レベルの高い人であることは疑いない。ただ、ここでこの筆者を批判するのが目的で、この文章を書いているわけではない。ある種特権的な環境にいる人が、その特権性を自覚し、批判することの難しさについて考えてみたいのである。
 
 他人を批判がましく言っているが、私自身、同様の弱点があった。現在の日本の学校制度のなかで、私立の学校の多くは、非常に不利な条件に置かれている。また、私立の学校に通う生徒の多くは、「私立だからよい」と思って選んだわけではない。もちろん、私立中学を受験する人たちは、公立中学よりも私立中学のほうが、教育条件がよいと思って選択したのだろうし、その選択は合理的であるといわざるをえないのだが、高校や大学になると、私学を選択せざるをえなかったという人も多いのだ。
 だが、私学には不利な条件もあるが、そうしたなかで教職員や学生が努力をして、独自の魅力を形成している点も多々ある。そういう長所・短所を具体的に認識するようになったのは、私自身が私立大学に教師として勤めるようになってから、大分経ってからのことだった。それまでは、ずっと公立と国立の学校で大学院までを過ごしてきたからである。もちろん、教育学を専攻していたのだから、私立学校については知識として把握しているし、また、高校生のときも、また大学・大学院のときも、私学の人たちと交流があった。しかし、国立だとか、私立だとか、逆にあまり意識しなかったことによって、その違いをリアルには認識していなかった。
 赴任して、最初に違いを意識させられたのは、単純なことだった。それまで学生だった国立大学では、助手まで個室の研究室をもっていたのに、赴任先は、専修の教員、教授から助手までがひとつの大部屋にいたことだ。私が入った専修では、7人が一緒だった。もちろん、個人の書籍などほとんど持ち込むことはできず、各人2畳程度のスペースしかなかった。しかし、それを不満に思っていたわけではなく、むしろ、教員同士の日常的な交流があって、いい面も当時から感じてはいた。その後完全個室化されたが、教師のコミュニケーションは確実に減ったから、一長一短だと思う。ただし、国立の大学であれば、7人相部屋などということは、ありえないだろう。
 現在は、文科省の行政指導で、教員は個室を整備することを大学に求めており、その面積も基準がある。つまり、国立にも私立にも、最低基準を共通に決めて遵守させている。こうして、教育条件を、国立・私立を含む基準設定で、平等化していくことは、重要なことだ。教員だけではなく、学生にとっての基準も同様に保障していく必要がある。
 
 私立大学に勤めるようになって、最も強く感じるようになったのは、国立(公立)と私立の間で、学生が支払う納入金が、かくも違うのは不合理ではないか、ということだ。そう考えるひとは、私学関係者も含めて、おそらく少ないに違いない。私立学校は、独自の教育をするために、あえて設立し、その教育を受けたいと思う人が志望するのだから、誰にも開かれている前提の教育になっている国公立と違って、その私学の教育を支えるために必要な費用を、余分に払うのは当然であると、考えている人が多いだろう。しかし、実際に、私学と国公立で、まったく違う教育が行われているわけではないし、国立大学に行きたかったけど、不合格になったために、私学に進学せざるをえなかったという学生も多い。
 私のゼミには、そういう学生がたくさんいた。まず、国立の教員養成学部を受験、そして、私の大学の教育学部を受験、いずれも不合格になって、私の学部に入学して、教師を目指すという学生たちだ。そういう学生は、当初は不合格ショックを受けているが、志望動機は高いし、力はあるので、やがて、めきめきと実力をつけていく。しかし、学費が高いから、アルバイトを例外なくやっていて、学費や生活費を補っている。明らかに、その負担の度合いは、国立の学生より大きい。
 そうした不公平を強く感じるようになったのは、オランダの教育を研究し始めてからだ。オランダは、憲法で、公立と私立の学校の財政補助は平等であると明記しているのである。だから、義務教育では、公立も私立も無償だし、義務教育以上になっても、授業料に大きな相違がない。平等に国庫補助がなされるからだ。オランダは、非常に小さい国だが、国力は小さくない。農業製品では、世界第二位(時に三位)の輸出国だ。農業をやるには、非常にやせた土壌だが、高い技術力で高い生産力を実現している。そして、その技術を底辺で支えているのが、日本人からみると偏差値が低い(オランダでは偏差値などは活用されていないが)と思われている職業教育を実施している中等学校なのである。
 やはり、基本的な部分での平等と、当人の意思を尊重する自由が、社会の発展をもたらすのだと感じる。
 
 国公立と私立の基本的平等という考えは、多数意見とはいえないかもしれないが、私の確信となっている。そして、そのための理論構築に励んでいる。
 上記文章の筆者である宮崎氏には、組織でも女として堂々と生きられるようになるために必要なこと、記者クラブの特権性を廃止して、情報アクセスが平等になること、等の実現のために、文筆を奮ってほしい。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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