東京外国語大学が、入試科目として数学を必修にいれたら、案の定受験者数が激減したという。
「東京外大の入試「数学2科目」必須化という大英断!前期の志願者数は前年比74%に減少のインパクト
前年比74%というのは、私は意外に多かったように思った。もっと減るのではないかと。早稲田の政経学部でも同様のことが起きたが、実は、私の所属していた大学でも、過去にそうしたことがあった。確かに大学での勉学に、数学が必要な領域だったので、受験科目として数学を必修にしたら、74%どころか、半減に近かったように思う。その学部は、新設間もない時期で、おそらく教員たちは学生指導に意欲的で、数学が必要であることは、教員全体のコンセンサスだったに違いない。しかし、他学部の教員は大丈夫なのか、絶対に受験生が相当減るはずだという危惧が支配した。案の定の結果だったから、すぐに数学必修は撤回されてしまった。理事会からの強い要望もあったようだ。私学にとっては、受験生と入学者の確保は、絶対的存立条件だから、いかに適切な方針でも、受験生に敬遠されることが確実なことは、なかなか実施できない。大きなジレンマだ。ja
他方、この問題を個別大学の経営上のことだけではなく、日本社会全体の問題として考える必要もあるだろう。日本人の理科嫌い、特に女性の理系志向の少なさが問題になっているが、様々な理由のなかで、小学校教師の理科、数学苦手が見のがすことができない。私は私立大学で教師を育てる仕事をしていたが、彼らのほとんどは、入試科目として、数学も理科もとっていない。つまり、高一くらいで、理数系の学習をやめてしまうわけだ。もちろん、苦手であり、受験科目にないから、その後はほとんど勉強しない。大学では、教科教育に関する単位が必要だから、一応勉強するが、長年の苦手意識か改善されて、理科や数学が好きになるなどということは、あまり考えられない。こうして、彼らが教師になれば、数学・理科大好きの子どもを育てることは、なかなか難しいことになる。(この点の改善方策については、何度か書いているので、ここでは触れない。)
こういう状況だけではなく、いろいろな分野で同様のことが起きているに違いない。
もちろん、基礎的な理数系の知識、理解力は、それを使う職業には必要だが、多くの分野には必要ではない、というのであれば、別のやり方があるだろうが、私は、現在の科学技術の発達した、しかも、ITが生活のなかに浸透している社会、そして、環境問題、食料問題等、自然科学や数学の基礎的理解は、いかなる人にとっても必要であると思うし、特に、大学を卒業して仕事をするときには、不可欠である。私自身、こういう部分の知識があればもっと違う対応がとれるのに、という場面がしばしばあるので、そういう反省も踏まえてのことなのだが。
では、どうすればよいのか。
私は、大学に進学するためには、すべての受験生が、基本的な教科の基礎的学力(五教科)を身につけていることを条件にするべきだと思う。そうすることで、少なくとも大学教育を受けた者の基礎学力を保障することの改善が可能になる。ヨーロッパ型のかなり厳格な卒業資格試験か、アメリカ流のSATのように、比較的基礎的で、活用する大学が合格基準を決められるようになるかの余地はあるが、高校時代、ほとんど理数を勉強せずに、大学に進学する学生をなくすことは、社会全体を活性化する上で有効だと思う。
そうすることによって専門領域として、特に数学を使う学科や学部が、より高度な数学を受験科目として課しても、受験生の減少は緩和できるのではないだろうか。つまり、安心して、受験科目に指定できる。
現在の大学での教育課程では、特に文系学部では、数学をまったくとらなくても、すべての単位を履修できるし、また、数学的な手法がまったく使われない科目が多数である場合も少なくない。むしろ、私立の文系学部では、途中で数学が必須とされることのほうが、珍しいのではないだろうか。大学教員の研究水準の問題もあり、大学の教育意識を変えていくことも、当然伴わなければならない。
そして、近年は、学力試験を受けずに、他の要素を評価されて入学することができる余地が広くなっている。学力試験を受けずに入学する大学生が、半数近くになっていることは、やはり、日本社会の発展のためには、マイナスではないかと思うのである。学力競争が必要だというのではない。高校で習得するべき基礎的な学力は、きちんと習得したという条件を、すべての受験生に課すことで、受験科目だけ勉強するようなシステムを脱却すべきなのである。
オリンピックに出場するためには、オリンピック標準記録をクリアしなければ、その国の定数内に入っていても、出場できない。そのような基準だ。しかし、特別に高くなくてもよい。
しかし、そんなことをしたら、私立大学は経営が成り立たなくなるという批判が起きそうだ。大学にいくことを諦めてしまう学生が多くでる。
それでいいのではないだろうか。学力試験をまったく受けずに大学に入って、大学の勉強をこなせない学生も少なくない。そういう学生は、まずは社会にでて、そのなかでやはりより高度な知識や理解力が必要で、大学で学ぶ必要があると感じたときに、再度入学できるような道筋を太くすべきなのだ。そのほうが、ずっと本人のためにも、大学のためにもよい。日本のサラリーマンの質が低下して、国際競争にたちうちできなくなっているという議論があるが、その点と絡めて、次の機会にあらためて、この点を考えたい。