マイノリティ支援とカミングアウト (SOGI)

 LGBTや同性婚の主張に関して、大方同意できても、なんとなく細部で同意できない部分があることが多い。そのことは、これまで何度か書いてきたが、今回、かなり同意できる主張にであった。神谷悠一「「誰」から「何」へ 性的マイノリティ支援制度の課題と発展可能性」『マイノリティ支援の葛藤』明石書店所収)である。
 性的マイノリティ支援が進んだとしても、その目的に限定されている支援制度である場合、カミングアウト(自分が対象者であることを明示する)が必要となり、そのカミングアウト自体が不利をもたらすことが少なくない。だから、カミングアウトをためらって、結果として支援を受けられないことがある。そこをどう克服するかという問題について書かれている。

 
 この点は、性的マイノリティに限らず、かなり多くの差別対策、支援に共通することだと思う。同和問題などは、カミングアウトそのものが、大きな議論や対立の原因となった。そして、カミングアウトの葛藤を描いた』破戒』(島崎藤村)のような名作もある。しかし、『破戒』自体も、部落解放運動をしている人たちの間で、評価は大きく分かれている。部落解放運動が、かなり激しい対立を生んだ原因のひとつが、カミングアウトと自覚を軸にした運動が大きな力をもったことにあると思われる。
 差別が、人の意識から生まれる以上、差に対する意識が消えることが、完全な差別解消には必要な段階だろう。そういう意味で、カミングアウトせずに支援を受けられるシステムは、差別解消のために、非常に有効に機能するに違いない。
 
 しかし、カミングアウトなしのマイノリティ支援というのは、可能なのだろうか。適切な対象に支援しているのか、はっきりしないではないかという疑問が生じる。しかし、工夫が必要だが、可能である。カミングアウトではないが、例えば駅にエレベーター設置義務を課しているのは、当然車椅子の使用者でも、電車を利用できるようにするためだ。車椅子はカミングアウトしなくても、自明であるが、手続き不要という点では、カミングアウトしなくても支援を受けられるのと、同じように考えることができる。この場合、重要なことは、設置義務の理由が障害者支援であるとしても、一般人も利用可能なことだ。こうした障害者支援での「合理的配慮」(障害があっても、健常者と同じ利用が可能になる配慮)は、一般的にカミングアウトが必要な支援形態よりは、ずっと支援としての範囲が広くなる。そのために支援に対する一般の支持は、大変容易になっている。
 聴覚障害者が大学の講義を受けるときに、これまではノートテイクを他の学生がやっていた。しかし、音声認識ソフトがもっと発達して、講義をリアルタイムで、コンピューターが文字化し、それをパソコンやタブレット、スマホで見られるようなシステムができれば、特定の学生用にサービスする必要はなく、健常者の学生も支援を受けられる。一回の講義では理解できない場合もあるのだから、こうしたシステムは、聴覚障害者だけではなく、広範囲な援助となる。ノートテイクよりも、こうした音声認識ソフトの活用のほうが、圧倒的に優れている。
 
 神谷氏があげている事例は、慶弔休暇の取得である。誰が対象の慶や弔いなのかを明示しなければ、休暇をとれないから、カミングアウトが必要になるというわけだ。神谷氏は、カミングアウトなしに、慶弔休暇を取得できるシステムは不可能だろうか、と問題提起しているのだが、私が読む限り、改善案が書かれていない。
 私の考えでは、実現は容易ではないが、理論的には簡単である。そもそも職場を休むのに、「理由」をつける必要はないという考えが広まればよい。つまり、有給休暇を実質的に、十分に取れることだ。日本の法律では、取得可能日数と、理由は不問ということが決まっているが、理由を聞かれたり、十分に取得できない場合が少なくない。
 その代わり、日本では、理由をつけて休暇がとれるシステムを拡大している。その典型が祝日である。おそらく、日本は、国民の祝日(休日)が非常に多い国ではないか。私が子どもの頃は、もっとずっと少なかったが、日本人は働きすぎだという国際的な批判があって、国民の祝日を増やしたわけだ。もちろん、祝日であれば、企業がなんといおうと、堂々と休める。しかし、休みたくない人もいるだろうし、違う日に休みたい人もいるだろう。祝日が増えることはよいことのように思っている人もいるだろうが、国家によって、強制的に休まされるわけで、決して、望ましい状態ではないのである。休みたいときに、それぞれの理由で、干渉されることなく、休暇が取れることが望ましい状態なのである。
 しかし、この点は、必ずしもコンセンサスが容易でないかも知れない。慶弔休暇という制度があれば、そこで休んだからといって、有給休暇が減らされることはない。有給休暇ではなく、慶弔休暇として休んだほうが有利だ。こういう意識の人も多いに違いない。カミングアウトの必要がない人にとっては、そうだろう。つまり、国民の後半な意識変革が必要である。
 そして意識変革だけではなく、様々な壁がある。聴覚障害のための音声認識は、ソフトの開発と向上が必要であるし、エレベーターの設置には費用がかかる。結果としては運賃に反映される。
 ただ、どのような壁があり、それをどう乗りこえるかは、具体的な案がなければ考えようがない。神谷氏の文章に、必要性は主張されているが、具体的提案がほとんどないのは残念だった。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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