安倍内閣の外交音痴

 日韓の対立がますます激化しているが、日本政府の予想を超えて、韓国が、日韓軍事情報包括保護協定を破棄する決定をして、日本政府は衝撃を受けていると報道されている。佐藤正久外務副大臣は、BSフジの番組で、「愚かだ。間違った判断だ。安全保障環境を考えればありえない。」と韓国を厳しく批判したそうだ。(時事通信2019.8.22)
 しかし、韓国による徴用工判決以来の安倍内閣のやり方をみていると、まるで生徒会のようだと感じる者は少なくないのではないか。安倍首相は、外交が得意だと自分たちでは宣伝しているが、私の見る限り、外交が最も苦手な首相である。内閣としても、外交は極めてお粗末というべきだろう。 “安倍内閣の外交音痴” の続きを読む

『教育』2019.9を読む 学校の「縛り」2

 自分で考えたことを否定され、決まったことに従うことを強制された事例がいくつも掲載されている。まず、角谷実氏の「私はロボット、何も考えられない」。題名からして、憂鬱になる。初任者研修のための指導略案つくりの話である。「スイミー」をやることになっていて、「文と絵をもとにスイミーが考えたこと、一人になった寂しさ、そして深海の底で出会ったすばらしい世界をみて元気を取りもどしていくスイミーの気持ちを考えていこう」として、子どもたちから、いろいろと引き出すことを目指す指導案を、長い時間をかけて準備していた。そして授業をして、子どもたちは活発に意見をいう。そして、その日の放課後、指導教員の講義。
 「今日の授業のねらいはなんだったの?大きな魚が出てきた場面しかやっていなかったけど、どうしてあの場面で区切ったのかな。教育課程はみている?」
 そこで、4月に配布された教育課程をだすようにいわれ、見てみると、教育課程には、単元、時数、1時間1時間の授業の流れ、目標が事細かに書いてある。教科書会社の指導編を書き写したものだと、角谷氏。
 「今日の授業はどこに書いてあるの?」
 「・・・ないです。自分で考えました。」
 「そうだよね。公教育なんだから、先生らしさじゃなくて、教育課程どおりにやらないといけないよ。日本全国どこの学校にいっても同じ教育にならないといけません。」 “『教育』2019.9を読む 学校の「縛り」2” の続きを読む

『教育』2019.9を読む 学校での「縛り」

 『教育』9月号は、この読書ノートを始めてから、最も読みごたえのある特集であり、興味深い文章が並んでいる。特集はふたつあり「縛られる学校、自らを縛る教師たち」と「誰もが何かのマイノリティ」で、前者には、8人が、後者には、6人が執筆している。「縛り」は、「とびら」の文章にあるように、現在の学校を蝕んでいる大きな要因のひとつであり、しかも、それは、教育行政によってもたらされるものだけではなく、教師自身、学校自身がみずから作り出している悪弊なのである。私が、このブログの「学校教育から何を削るか」のシリーズで、慣習的なことがらをいくつかあげたが、これも、「縛り」に関係している。教育は、子どもたちの千差万別の能力や個性を発達させる行為なのだから、最大限の柔軟性が必要である。柔軟性がなければ、子どものなかにある宝を見いだすことができないし、また、みんなが認めているような宝をもっている子どもがいても、その能力を更に伸ばすことができないだろう。みんな、もっているものだけではなく、伸ばし方も違うのだから、形式主義が支配したら、教育はそれだけ効果を失ってしまうのである。そんなことは、誰だってわかっていそうなものだが、実は、ほとんどの教師たちは、形式に囚われている。 “『教育』2019.9を読む 学校での「縛り」” の続きを読む

バイロイトでパルジファルを鑑賞

 8月5日、バイロイトでパルジファルを鑑賞してきた。私自身は、ワーグナー党ではないので、好んでワーグナーを聴くわけではないが、なんといっても、オペラ好きではあるので、一生に一度はバイロイトにいきたいと思っていた。今回別の用でドイツにいき、バイエルンに滞在していたので、バイロイトのチケットを申し込んだところ、とれたのはラッキーだった。演目としては、あまり聴いたことがなく、親しまれているとは言い難いパルジファルだったが、ワーグナーが唯一、バイロイト劇場の音響を前提に書いたオペラなので、よかった。
 しかし、粗筋などの解説を読んでも、パルジファルというオペラは、どうもよくわからない。しかも、ワーグナーが書いた台本のように演出が行われることは、最近はほとんどないようで、特にバイロイトは、荒唐無稽ともいいたいほど、妙な演出となっている。音楽や演奏よりも演出が話題になる傾向は決していいとは思わないが、あまりに原作とはかけ離れた演出をされると、話題にせざるをえなくなり、演出家の術策にはまってしまうということだろうか。 “バイロイトでパルジファルを鑑賞” の続きを読む

ドイツビールを堪能してきたが

 約二週間のドイツ旅行(一泊だけオランダ)から帰国して数日たつが、どうもまだエンジンがかからない。ドイツに着く前は猛暑だったらしいが、直ぐに涼しくなり、大半はエアコンのないホテルだったが、なんとか過ごせた。日本はとにかく暑い。エアコン設備が完備しているだけに、つけていない空間とエアコンのきいた部屋との温度差、湿度差が大きく、どうしても活動的でなくなるようだ。
 今度ドイツにいったら、とにかくビールを堪能しようと思っていたが、その思い通り、毎日ビールを飲みまくった。今日は急肝日にしようといいつつ、完全に無視してしまった。とにかく、ドイツのビールはおいしい。どこで、どんな種類のビールを飲んでもおいしい。日本にもおいしいビールはあるが、率直にいって、ドイツのビールにはかなわないと思う。
 数年前のことだが、サントリーのプレミエをドイツにもっていって、ドイツ人に飲んでもらって、感想を聞き出すというドキュメント番組があった。試飲したドイツ人たちは、みんなおいしいといっていたが、私には、お世辞のように思われた。私自身、日本で飲むのはプレミエだが、ドイツで飲んだビールははるかにおいしいと思った。何故なのか。 “ドイツビールを堪能してきたが” の続きを読む

今日は日航ジャンボ機事故の日だが

 34年前の今日、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した。その年は、私が大学に就職した年で、初めての講義などの準備で忙しかったせいか、細目は憶えていないのだが、とにかく大事故だったし、有名人が多く犠牲になったり、また、生存者がいたりということで、ずっと話題になっていた。しかし、肝心の事故原因については、当時から既に公表されたことについては、多くの疑問があり、しかも、今日まできちんと明らかにされたことがない。事故当日から既に、さまざまな疑問が投げかけられ、政府も、日航も、またボーイング社も、まともな調査とその公表をしたとは、考えられていない。 “今日は日航ジャンボ機事故の日だが” の続きを読む

ドイツの自転車道事情

Der Tagesspiegel(2019.7.20)が、ベルリンの自転車道問題を扱っている。(Mit dem Rad gegen die Wand 自転車で壁に)日本でも、自転車はかなり問題になっている。日本では、どこを走るのか、歩道になったり、車道になったり時代によって変わってしまう。また、歩道がないときに、右側通行なのか左側通行なのか。これも時代によって変化したと思う。私は、自転車には乗らなくなったが、車を運転しているときには、自転車にはかなり気をつかう。逆に歩行者として、危ない目にあったこともある。歩道を歩いていたら、角になっているところを、猛スピードで走ってきた自転車に危うくぶつかりそうになった。ぶつかったら大怪我をしていたろう。最近では、自転車とぶつかっての死亡事故もある。 
 肝心の法律が変わるというのは、本当に問題だ。一番気をつけてルールを学んだときの感覚が、ルールが変わっても引きずられるからだ。 “ドイツの自転車道事情” の続きを読む

未来の教育研究13 創造性

 未来の教育の必須アイテムのようなものが「創造性」である。未来の教育を論ずるときには、必ず出てくる。しかし、創造性の意味は、誰にでもわかるものだが、どのようにして教育すれば、創造性を育成することができるのか、これをしっかりと書いている書物、あるいは提言は、私の不勉強もあるだろうが、まだ見たことがない。そもそも、創造性を教育というシステムのなかで育成できるものなのか、教育は、常識的には既存の文化を教えるものだから、創造性を教えることとは無縁なのである。しかし、知識基盤社会を生き抜くためには、創造性が不可欠であるとされる。そのことは間違いないだろう。キャッチアップ時代にはずっと上昇傾向できた日本経済も、キャッチアップした段階以降は、その勢いを明らかに失っている。近年は科学研究の勢いも失っており、将来はノーベル賞はとれなくなるとも言われている。 
 こうした状況は打破しなければならないだろう。 “未来の教育研究13 創造性” の続きを読む

『教育』2019.8を読む アクティブ・ラーニング

アクティブ・ラーニングが意識された
きっかけ 「教育のコトバ」という特集2で、新しい教育用語の解説をしている。最初が二宮衆一氏執筆の「アクティブ・ラーニング」である。今では学校全体に広まっている用語だと思われるが、当初は大学の教員の間で問題となった。二宮氏は最初のきっかけが、2008年の中教審答申「学士課程教育の構築にむけて」の紹介であるとするが、この答申では、授業方法の改善で、討論を導入することが書かれているだけで、アクティブ・ラーニングという言葉が使われていたわけでもない。
 日本の大学関係者に、アクティブ・ラーニングという言葉が使われたかどうかは、別として、アクティブ・ラーニングをしなければならないという人たちを多数生んだのは、2010年にNHKで放映された、ハーバード大学のサンデル教授による「白熱教室」の放映だった。実は、NHKは、ずっと前に、「エリートはこうしてつくられる」というハードード大学の教育環境全体を紹介したNHK特集のなかで、同じような授業を紹介していた。もっとも、それは極めて短い断片的なものだったから、特に話題になることはなかったのだろう。サンデル教授の白熱教室は、学期全体の講義をそのまま放映したものであり、(もっとも編集されていたと思われる。)DVDも発売され、you-tubeで見ることもできる。1000人もいる学生たちが、活発に討論する姿に、日本の大学教師たちは、驚いたのだった。もっとも、私はこの授業のDVDを購入し、じっくりみて、感心はしたが、私自身、ずっと大教室での討論を重視する講義をやってきたので、ショックを受けたわけではない。私の講義は、大学の教室の関係で、最大でも400名しか入らないし、学生も多くはないから、多いときで350名程度だったが、けっこう活発な討論をしていた。このことは、以下紹介する。 “『教育』2019.8を読む アクティブ・ラーニング” の続きを読む

未来の教育研究12 思考力-日本にも優れた実践がある

 考えるとはどういうことなのだろうか。心理学や哲学的に考えことの定義は難しいとしても、教育の場面では、それほど難しいとはいえない。
 発見とは、未知のことについては、新しく見つけることが発見であるが、教育実践の食めんでは、子どもたちがまだ知らないことについて、助けを借りても自分の力で、見つけたとすれば、それは子どもにとっては、発見であり、そうした手法を中心に学ぶやり方を「発見学習」という。だから、「考える」についても、既存の知識では対応できない課題を、自分の力で考えて解決の方法を見いだしたとしたら、それは、そのプロセスにおいて、考えたといえる。しかし、問題なのは、教師が出す「課題」が、本当に既存の知識で対応できないかどうかなのである。実は、教師は考えてみようという課題をだしていても、子どもは、既存の知識で簡単に答えをだしてしまうことが、少なくない。特に算数の授業でみる「考えてみよう」のほとんどはそのパターンである。数学は、未知の問題を解くときには、考えなければならないが、そうでないときには、既知の方法を駆使して解く操作的活動となる。だから、算数などで、考える作業は、新しい単元に入るとくくらいにしか、有効に機能しない。既に手法を学んだあとに、考えさせるためには、教師がかなり創意工夫して、既知の知識では解くことかできない要素を取り組むことが必要である。 “未来の教育研究12 思考力-日本にも優れた実践がある” の続きを読む