いじめでの教師懲戒が再び問題になっているが(2) 親の対応

 前回は、学校での検証作業こそ大事であり、それを実行するための条件について書いた。今回は、親に関して書く。
 天童市の事例に限らず、いじめによる大きな被害があったとき、「学校がもっと真剣に対応してくれれば、こんなことにはならなかった」と被害者の家族は述べる。天童市の事例でも、そのような発言がしばしば紹介されている。このように発言することは、間違いではないし、確かに、学校がもっと真剣に対応すれば、悲劇はもっと減るだろう。しかし、悲劇を避ける手段を、最も確実にとりうるのは、親なのである。このことは間違いない。
ハンナ・アレントの場合
 20世紀後半の最も偉大な政治哲学者であるハンナ・アレントは、ユダヤ人であるために、学校で日常的な差別にあっていた。当時のユダヤ人差別は、今のいじめより、はるかに酷いものだった。そのとき、アレントの母親は、学校に適切な対応を求め、それが実質的にとられない限り、娘を学校に行かせないという対応をとった。そのために、学校は真剣な対応をとらざるをえなくなり、アレントは再び通学できるようになったのであるが、このときの母親のとった行動が、アレントが教育問題について考える基本になっている。「リトルロックについて考える」という短い文章のなかで、「子どもはまず何よりも家族と家庭に属する存在である」と書いている。 “いじめでの教師懲戒が再び問題になっているが(2) 親の対応” の続きを読む

いじめでの教師懲戒がふたたび懸案になっているが、必要なのは当事者たちによる真摯な検証だ

 昨年の12月に、「いじめ防止対策推進法」の改正案として、いじめの疑いを把握しながら放置した場合、その教師を懲戒処分にするという提案がなされ、多くの反対によって、とりあえず提案としては取り下げられた形になっているが、ふたたび、懲戒規定を設けるべきであるという動きがあると報道されている。この問題について、以前にも書いたが、新しい動きということで、再度検討したい。新たな動きといっても、論点そのものはそれほど変わっていないだろう。

 懲戒処分の推進を主張しているひと達(「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」)が、高く評価する懲戒事例がある。
 いじめを受けて大怪我をした中学一年の男子を病院に連れて行く教師に対して、顧問が「階段で転んだことにしろ」と隠蔽の指示をしたという。被害生徒自身がそれを聞いていたので、自分もそのように病院で述べ、全治1カ月との診断だった。ところが、副顧問が、学校側に「いじめによるけがだった。教諭から虚偽の説明を指示された」と報告したために、顧問の指示はすぐにばれてしまい、大会への出場を禁じたが、顧問はこれを無視して出場させた。加害者たちは、以前にも下級生に対するいじめや暴力をしていたことが判明していた。この顧問の教諭が停職6カ月の処分を受けたということである。 “いじめでの教師懲戒がふたたび懸案になっているが、必要なのは当事者たちによる真摯な検証だ” の続きを読む

表現の不自由展その後中止を考える1

 日本における「報道の自由」の国際ランクが落ちて久しい。実は民主党政権のときには、かなり上位だったようだが、安倍政権になって、韓国よりも下位になっている。日本人のあるひとたちは、韓国を下にみているが、実は、韓国のほうが上である領域はけっこうあるのだ。とくに、民主主義の度合いについては、かならずしも日本のほうが上ではないのである。とくに、大手のメディアがほとんど安倍政権への忖度報道になっていることで、国民の目に重要なことが伝達されていないことが多くなっている。報道の自由や表現の自由は、民主主義社会の根幹である。民主主義の社会でない場合には、こうした自由は、踏みにじられるのが普通であり、歴史的には、そうした不自由な時代のほうが長いし、また、民主主義社会ということになっていても、絶えず、報道や表現への介入はある。必ずしも「国家組織」ではなく、私的団体が圧力をかける場合もある。日本は、民主主義といっても、このふたつの自由は、かなり危うい状況になる。
 その象徴が、2019年の愛知トリエンナーレにおいて「表現の不自由展その後」が開催されたが、わずか3日で中止となったことだろう。この時期、私は日本にいなかったので、詳細を知らなかったのだが、帰国後このことを知り、多少調べてみた。とくに、伊東乾氏が、JBpressに何度か寄稿しているのを読み、考えさせられた。伊東氏の趣旨は、この展示の責任者の準備不足と認識の甘さが、このような事態をもたらしたというものである。とくに、事前に、何を展示するか公表せず、また、当然予想されるはずの反対行動に対する対応を準備しなかったことに、短時日に敗北してしまった原因を帰している。後で検討しよう。 “表現の不自由展その後中止を考える1” の続きを読む

安倍内閣の外交音痴

 日韓の対立がますます激化しているが、日本政府の予想を超えて、韓国が、日韓軍事情報包括保護協定を破棄する決定をして、日本政府は衝撃を受けていると報道されている。佐藤正久外務副大臣は、BSフジの番組で、「愚かだ。間違った判断だ。安全保障環境を考えればありえない。」と韓国を厳しく批判したそうだ。(時事通信2019.8.22)
 しかし、韓国による徴用工判決以来の安倍内閣のやり方をみていると、まるで生徒会のようだと感じる者は少なくないのではないか。安倍首相は、外交が得意だと自分たちでは宣伝しているが、私の見る限り、外交が最も苦手な首相である。内閣としても、外交は極めてお粗末というべきだろう。 “安倍内閣の外交音痴” の続きを読む

『教育』2019.9を読む 学校の「縛り」2

 自分で考えたことを否定され、決まったことに従うことを強制された事例がいくつも掲載されている。まず、角谷実氏の「私はロボット、何も考えられない」。題名からして、憂鬱になる。初任者研修のための指導略案つくりの話である。「スイミー」をやることになっていて、「文と絵をもとにスイミーが考えたこと、一人になった寂しさ、そして深海の底で出会ったすばらしい世界をみて元気を取りもどしていくスイミーの気持ちを考えていこう」として、子どもたちから、いろいろと引き出すことを目指す指導案を、長い時間をかけて準備していた。そして授業をして、子どもたちは活発に意見をいう。そして、その日の放課後、指導教員の講義。
 「今日の授業のねらいはなんだったの?大きな魚が出てきた場面しかやっていなかったけど、どうしてあの場面で区切ったのかな。教育課程はみている?」
 そこで、4月に配布された教育課程をだすようにいわれ、見てみると、教育課程には、単元、時数、1時間1時間の授業の流れ、目標が事細かに書いてある。教科書会社の指導編を書き写したものだと、角谷氏。
 「今日の授業はどこに書いてあるの?」
 「・・・ないです。自分で考えました。」
 「そうだよね。公教育なんだから、先生らしさじゃなくて、教育課程どおりにやらないといけないよ。日本全国どこの学校にいっても同じ教育にならないといけません。」 “『教育』2019.9を読む 学校の「縛り」2” の続きを読む

『教育』2019.9を読む 学校での「縛り」

 『教育』9月号は、この読書ノートを始めてから、最も読みごたえのある特集であり、興味深い文章が並んでいる。特集はふたつあり「縛られる学校、自らを縛る教師たち」と「誰もが何かのマイノリティ」で、前者には、8人が、後者には、6人が執筆している。「縛り」は、「とびら」の文章にあるように、現在の学校を蝕んでいる大きな要因のひとつであり、しかも、それは、教育行政によってもたらされるものだけではなく、教師自身、学校自身がみずから作り出している悪弊なのである。私が、このブログの「学校教育から何を削るか」のシリーズで、慣習的なことがらをいくつかあげたが、これも、「縛り」に関係している。教育は、子どもたちの千差万別の能力や個性を発達させる行為なのだから、最大限の柔軟性が必要である。柔軟性がなければ、子どものなかにある宝を見いだすことができないし、また、みんなが認めているような宝をもっている子どもがいても、その能力を更に伸ばすことができないだろう。みんな、もっているものだけではなく、伸ばし方も違うのだから、形式主義が支配したら、教育はそれだけ効果を失ってしまうのである。そんなことは、誰だってわかっていそうなものだが、実は、ほとんどの教師たちは、形式に囚われている。 “『教育』2019.9を読む 学校での「縛り」” の続きを読む

バイロイトでパルジファルを鑑賞

 8月5日、バイロイトでパルジファルを鑑賞してきた。私自身は、ワーグナー党ではないので、好んでワーグナーを聴くわけではないが、なんといっても、オペラ好きではあるので、一生に一度はバイロイトにいきたいと思っていた。今回別の用でドイツにいき、バイエルンに滞在していたので、バイロイトのチケットを申し込んだところ、とれたのはラッキーだった。演目としては、あまり聴いたことがなく、親しまれているとは言い難いパルジファルだったが、ワーグナーが唯一、バイロイト劇場の音響を前提に書いたオペラなので、よかった。
 しかし、粗筋などの解説を読んでも、パルジファルというオペラは、どうもよくわからない。しかも、ワーグナーが書いた台本のように演出が行われることは、最近はほとんどないようで、特にバイロイトは、荒唐無稽ともいいたいほど、妙な演出となっている。音楽や演奏よりも演出が話題になる傾向は決していいとは思わないが、あまりに原作とはかけ離れた演出をされると、話題にせざるをえなくなり、演出家の術策にはまってしまうということだろうか。 “バイロイトでパルジファルを鑑賞” の続きを読む

ドイツビールを堪能してきたが

 約二週間のドイツ旅行(一泊だけオランダ)から帰国して数日たつが、どうもまだエンジンがかからない。ドイツに着く前は猛暑だったらしいが、直ぐに涼しくなり、大半はエアコンのないホテルだったが、なんとか過ごせた。日本はとにかく暑い。エアコン設備が完備しているだけに、つけていない空間とエアコンのきいた部屋との温度差、湿度差が大きく、どうしても活動的でなくなるようだ。
 今度ドイツにいったら、とにかくビールを堪能しようと思っていたが、その思い通り、毎日ビールを飲みまくった。今日は急肝日にしようといいつつ、完全に無視してしまった。とにかく、ドイツのビールはおいしい。どこで、どんな種類のビールを飲んでもおいしい。日本にもおいしいビールはあるが、率直にいって、ドイツのビールにはかなわないと思う。
 数年前のことだが、サントリーのプレミエをドイツにもっていって、ドイツ人に飲んでもらって、感想を聞き出すというドキュメント番組があった。試飲したドイツ人たちは、みんなおいしいといっていたが、私には、お世辞のように思われた。私自身、日本で飲むのはプレミエだが、ドイツで飲んだビールははるかにおいしいと思った。何故なのか。 “ドイツビールを堪能してきたが” の続きを読む

今日は日航ジャンボ機事故の日だが

 34年前の今日、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した。その年は、私が大学に就職した年で、初めての講義などの準備で忙しかったせいか、細目は憶えていないのだが、とにかく大事故だったし、有名人が多く犠牲になったり、また、生存者がいたりということで、ずっと話題になっていた。しかし、肝心の事故原因については、当時から既に公表されたことについては、多くの疑問があり、しかも、今日まできちんと明らかにされたことがない。事故当日から既に、さまざまな疑問が投げかけられ、政府も、日航も、またボーイング社も、まともな調査とその公表をしたとは、考えられていない。 “今日は日航ジャンボ機事故の日だが” の続きを読む

ドイツの自転車道事情

Der Tagesspiegel(2019.7.20)が、ベルリンの自転車道問題を扱っている。(Mit dem Rad gegen die Wand 自転車で壁に)日本でも、自転車はかなり問題になっている。日本では、どこを走るのか、歩道になったり、車道になったり時代によって変わってしまう。また、歩道がないときに、右側通行なのか左側通行なのか。これも時代によって変化したと思う。私は、自転車には乗らなくなったが、車を運転しているときには、自転車にはかなり気をつかう。逆に歩行者として、危ない目にあったこともある。歩道を歩いていたら、角になっているところを、猛スピードで走ってきた自転車に危うくぶつかりそうになった。ぶつかったら大怪我をしていたろう。最近では、自転車とぶつかっての死亡事故もある。 
 肝心の法律が変わるというのは、本当に問題だ。一番気をつけてルールを学んだときの感覚が、ルールが変わっても引きずられるからだ。 “ドイツの自転車道事情” の続きを読む