提言を読み進めていくと、次第に気持ちが萎えていく。多くの人は、この提言をみて、いじめ対策への方向性を掴んだ気持ちになるのだろうか。根本的な感覚が違うという印象なのだ。
「3.学校、家庭、地域、全ての関係者が一丸となって、いじめに向き合う責 任のある体制を築く。
いじめを早期に発見し、いじめられている子を社会全体で守っていくためには、学校がいじめ対策の方針を定めて明らかにし、子ども一人一人と向き合うことのできるチームとしての責任のある体制を整えるとともに、学校・家庭・地域・関係機関の緊 密な連携体制を日頃から構築しておかなければなりません。」
何か提言をしたり、あるいは行政にかかわっているひとたちは、「一丸となって」とか「全体の協力」という言葉が好きだ。しかし、教職員が本当に「一丸となっている」「全体の協力」がきちんととれているような学校では、深刻ないじめなどは起きないのだ。教職員がグループ化していがみあったり、協力関係が壊れているときに、いじめが発生しやすく、また深刻化しやすい。そういう職場に、「一丸となれ」「全体で協力しろ」と外部から「提言」されても、そんな状況が改善されるはずもない。いがみあったり、協力関係が壊れるには、それなりの理由があるのだから、そこを是正しなければ、改善などされないのである。
では、こうした「一丸」「協力」のために、具体的になにを提言しているだろうか。
○養護教諭をふくめた相談体制の整備と実態把握のための調査の実施
○学校、教育委員会、家庭、地域社会、警察との連携協力体制の整備
○教育委員会による適正な学校・教職員の評価、研修の充実、養成段階からのスキルの育成、ノウハウの蓄積と共有
○スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカーの配備、弁護士、ICTの専門家、警察等の支援体制
○担任だけでなく負食うの教職員の目が行き届くように、人員配備の充実、教職員の多忙な実態の解消のための校務の効率化
○開かれた学校のためのコミュニティスクールの推進
以上である。
この提言の発想は、このようなことをやれば、一丸となって協力関係が構築できるというものだろう。このようなことが可能ならば、確かに悪いことではないし、いじめ解決に寄与するだろう。しかし、何故、一丸となれないのか、協力関係を築くことが難しいのか、そして、ここではまったく触れられていないが、いじめによる悲劇が起きたとき、なぜ隠蔽がなされるのか、等の分析はまったく存在しない。というより、分析の必要性を認識しているように読めないのである。私が知る限り、教育行政が積極的に、人間関係を壊している事例が存在する。
それは例えば、東京都では、ボーナスの一定部分を引き上げ、プールする。そして、教師の「評価」に基づいて、そのプールした資金から、優秀とされた教師にボーナスを大目に至急する。こういうことが行われている。都が独自に予算化した原資によってプラス分を増額するなら、まだ理解できる。本来支払われるべきボーナスを引いておいて、それをプラスする人と、マイナスされたままの人に区分けしているのである。これで、「一丸」となったり、「協力関係」を心底行える雰囲気を形成できるだろうか。常識的に考えて、疑心暗鬼が生じるか、あるいは、相互の無関心を装うかのどちらかだろう。おそらく、こうした政策を採用したひとたちは、教師たちは、「競争」すればよく、「協力」などは不要だと考えているのだろう。
上記の提言で、「教職員の多忙な実態の解消」が書かれている。当然のことだろう。しかし、そのために「校務の効率化」が主張されている。では、教職員が多忙なのは、非効率的に校務を処理しているからなのだろうか。もちろん、数十万人もいる公立小中学校の教師だから、みんながみな効率的に校務をこなしているわけではなく、非効率的な人も少なくないだろう。しかし、教師の多忙さは、校務の非効率的な実行によるものではなく、そもそも無駄な校務が多すぎるからである。しかも、上で提言されているようなことを実行すれば、ますます多忙になることは目に見えている。
教師の非効率的な仕事によるものとはいえない事例をひとつあげよう。
何人かの2年目を迎えた教師たちに集まってもらって、いろいろと話を聞いたことがある。そのなかで、通知表に関して、困ったことがないか聞いたところ、多くの教師たちがいっているのは、記述式の部分が非常に多くなっている。そして、それはすべて管理職のチェックを受けることになっている。非常に細かく注意を受けるのだが、困るのは、複数の管理職がそれぞれまったく違うこと、ときにまったく逆のことをいうことだ、というのだ。この場合、効率化はどのようにすることだろうか。
(1)管理職がチェックをすることをやめる
(2)通知表を年1回にする。
(3)記述式の部分を縮小する。(例えば、「特記事項」等、あれば書く)
おそらく、この提言を書いたひとたちは、教師の能力を高め、管理職のチェックにすぐ合格できるようにすればいいという感覚なのかも知れないが、そもそも管理職がまったく逆のことをいう場合、簡単に合格することは不可能だろう。
私の考えでは、強制的な管理職のチェックはやめ、教師がチェックを望んだ場合のみにする。(2)と(3)はそのまま実行する。こうすれば、教師の「多忙」は、この点に関しては解消に近づく。しかし、提言のひとたちに、このような解決策はないと思われる。これは、「効率化」ではないからだ。必要なのは校務の効率化ではなく、削減である。(もちろん、効率的に作業することは、必要であるが。)
「実態把握のための調査」はますます多忙にするだけだ。カウンセラー等の整備や人員配置の充実はおおいにやるべきだろう。コミュニティスクールの推進は、いじめ問題にはあまり関係がないように思われる。
そこで、検討しておきたい残されたことは、「教育委員会による適正な学校・教師の評価」である。これは、非常に重要である。しかし、問題は「何が適正」かという点だ。
もし、日常的な生活指導を観察して評価するということであれば、それはマイナスでしかないだろう。そもそも、いじめがあったとしても、それが適切な対応で解決すれば、それは表面には現われないものだ。まだ、それほど深刻ではないいじめであり、かつ、教師が認識し、対応できていれば、いちいち報告などする必要はないと、私は考える。報告すべきなのは、担任教師が、対応できない状況になったときである。そのようなときに、協力関係が教師間に形成されていれば、チームによって取り組みがなされるだろう。あるいは、それがなされたとしても、またなされずに、自殺や犯罪的ないじめになったりした場合には、表面化することになる。そのときに、「適正な評価」が問われる。
いじめ防止対策推進法の改正論議のなかで、教師の懲戒を盛り込むことが提起されたが、このことについては、何度か、このブログで書いた。責任を問うとしたら、校長だろう。(続く)