読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む

 第二次世界大戦はどのような戦争だったのか。いまだに続いている論争である。歴史学的に事実を積み重ねれば、あまり疑いようのない歴史認識が形成されると思うのだが、運動や実践に関わっていると、ともすると、自分と同じ傾向の書物しか読まない、あるいは、自分に都合のいい事実のみ取り上げ、そうでないものは無視する。そうした傾向は、残念なから、まだまだみられる、あるいはますます強くなっている。私はできるだけ、自分と異なる立場の書物を読むことにしているのだが、この本もそうした種類のものである。
 著者の基本的な目的は、ポツダム史観、あるいは東京裁判史観と呼ばれるものを否定したいということにある。深田氏のような立場の人は多数いるわけだが、彼らの理解によれば、東京裁判史観とは、第二次世界大戦は、ファシズムと民主主義の闘いであり、ファシズム側が侵略戦争をしかけ、民主主義側がそれを防ぐ正義の戦争を闘って勝利したと解している。東京裁判は、勝者が敗者を裁くものであり、勝者が自分たちを民主主義、正義の立場にたち、相手が悪、つまりファシズムであったと規定するのは、ある意味当然であろう。日本がサンフランシスコ条約を受け入れたことは、この東京裁判の判決を受け入れたことを意味しており、国際社会における「建前」としては、それを「国家が否定」することは、サンフランシスコ条約を破棄することに等しい。ヒトラーがベルサイユ条約を破棄することを意味する再軍備やラインラント進駐などを実行したことは、歴史的事実であるが、日本政府がこれまで、サンフランシスコ条約を破棄する行為に出たことはない。しかし、政治家そして、保守的思想家からは、東京裁判史観を批判する見解は絶えずだされている。
 ところで、政治的立場を離れて、第二次世界大戦、とくに日本が関わった戦争を、東京裁判史観なるもので自分の見解を組み立てている歴史学者を、私は知らない。東京裁判史観なるものは、あくまでも戦争の事後処理のために、戦争責任を負う人たちを裁くための論理である。従って、当然極めて限定された論理的な枠組みを採用する。それと、実際に起きた戦争全体をどのように見るかは、別問題であろう。保守的な思想家たちが、東京裁判史観なるものに、批判の焦点をあて、それを単純に間違いだとすると、自己の論理が、まったく国際社会から孤立するものになってしまうのである。まっとうな論者であれば、そうした落とし穴には、ひっかからないはずである。
 「第二次世界大戦が民主主義対ファシズムの闘いであった」という論理を否定するとどうなるのか。それは、民族解放戦争であったから、解放側と抑圧側の闘いであり、日本はアジアの解放のために闘ったのだと主張する。「大東亜戦争肯定論」を顕した林房雄氏に代表される。これを補強するためにもちだされるのが、深田氏が、丹念に追った大東亜会議である。既に、日本の敗戦が濃厚だった時期に、日本に協力的だったアジアの政治指導者が日本に集まり、大東亜共栄圏の建設のために協議をした会議である。しかし、この論理を単純に進めれば、直ぐに事実によって破綻する。この会議に集まった人ですら、心から日本に協力していたわけではないし、また、多少とも日本に協力的だった彼らが、その後の国家建設で皆が指導的役割を果たせたわけではない。それぞれの日本の占領地域で、戦後、日本軍に敵対する勢力は少なくなかった。例えば、当初フランスに抵抗していたベトナムの人たちは、日本占領下になると、すぐに対日闘争に移行しているのである。日本軍が戦後撤収しきれていないときに、現地の日本兵に対して、裁判を行ったのは、現地に成立した政府であり、決して、旧植民地帝国ばかりではなかったのである。日本軍は、アジアの解放のために闘っているなどと、本気で考えている人は、当時の軍人たちにだっていなかったろうし、まともに歴史を検証すれば、そのような論理が成立するはずがないのである。
 ただし、複雑な戦争の諸側面の中で、植民地支配を受けていた国に、日本が攻め込んだことによって、支配国を追い出し、結果として、民族独立に寄与したという側面があったことまで否定することはできないだろう。また、日本側でも、また、植民地となっていた人々のあいだでも、そういう意識をもっていた人たちがいたことも事実だろう。戦後、現地に残って、その地域の独立戦争に参加した日本人がいたことも知られている。しかし、全体として、それは極めて例外的であって、占領地域において、むしろ、日本が新たな民族の支配者として振る舞ったことは、否定しようがない。
 ファシズム対民主主義という一元的な性質でもなく、また、大東亜共栄圏を目的として民族解放戦争でもなければ、いかなる戦争だったのか。私が理解している限りでは、第二次大戦は、複数の対決軸をもった戦争であったと理解する立場が主流である。
 第一の側面は、帝国主義国家間の戦争である。ドイツと英仏、日本とアメリカの戦争は、この対立であろう。
 第二の側面は、帝国主義国家による、新たな支配地の獲得、つまり、侵略戦争である。日本の中国戦線やドイツのソ連を中心とした東方戦略、イタリアのエチオピア侵攻が当てはまる。
 帝国主義国家といっても、先進国は民主主義を標榜する余裕があったが、後発(日本、ドイツ)は、権利を抑圧しつつ、国民を動員するしかなかったから、全体主義国家となっていた。従って、第三に、民主主義対ファシズムという側面は確実にあった。
 第四に、植民地にとっては、民族解放闘争として活用可能な側面をもっていた。ホーチミン、ガンジーなどは確実に戦争で植民地帝国が争い、弱体化することを好機として、民族独立闘争を闘った。
 さて、深田氏の著作は、こうした複雑な第二次大戦を分析するものではなく、日本と協力して、民族独立を勝ち取ろうとしてた人たちが集まった大東亜会議の推移を見ることで、確かに、日本は東南アジアの民族解放を大東亜共栄圏の実現という形で模索したのだ、との立場を証明しようとしている。しかし、それは成功しているとは思えない。しかし、そうした会議が開かれたことは、興味深いし、また、描かれた各国の指導者のさまざまな思惑が分析されている。次に具体的に、会議の模様を簡単に追っていこう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です