森ゆうこ議員の質問が事前に漏れたということで、騒動になったが、普段から、国会でのやり取りというのは、不思議だと思っている人間として、考えてみた。まだ事実関係が正確には把握できていないので、事実認識については、誤りがあるかも知れないが、原則的考え方としては、影響はない。
森議員が、質問通告が遅れたために、官僚たちが深夜残業を強いられた一方、高橋洋一氏のツイートが、質問内容を事前に知っていたことを示すとして、森議員周辺が守秘義務違反があったのではないかと、官庁の対応を非難した。どうやら、高橋氏のツイートは、サンフランシスコ時間での表示だったので、実際には、国会のやり取りをみて書いたものらしいのだが、国会での質疑以前に書いたものと解釈されたということのようだ。ここらの事実関係は、私にはあまり興味がない。興味があるのは、そもそも、質問の事前通告とは何故やるのか、あるいは、やるとしたら、どのような形がよいのかという問題だ。
国会での質問は、議員が持ち時間のなかで、内閣に質問をするわけだが、担当大臣は、いくら知識をもっていたとしても、担当領域に関して、どんな質問をだされても直ちに答えられるというわけにはいかない。だから、充分な回答を得るためには、事前に質問を提出しておいて、回答を役人たちが準備するわけである。質問内容が詳しければ、それだけ回答も質問に正確に対応した適切な回答が寄せられるだろう。しかし、特に野党の場合には、大臣たちを回答できない状態に追い込むことも、ひとつの戦術であるので、あいまいな質問の文章にしたり、あるいは故意に隠したりして、大臣を困らせる作戦をとることもあるだろう。
国会の議論とは何のためか。こんなことは、あまりに自明なので、確認するのも無意味だろうが、国民のためになる政治・政策を実現するために、よりよい政策を練るための作業だろう。野党だからといって、大臣を困らせることに意味があるとは思えない。野党は優れた質問をすることによって、適切な回答を引き出すことが最大の目的でなければならない。
ところで、「質問」というのは、実は本当に難しいのだ。マルクスの『資本論』に「課題は、解決の条件とともに現われる」という言葉がある。これは、研究をしていると、実感することだ。研究は、明らかにすべき課題が設定されて、一定の方法に従って、資料を揃え、課題に対する回答を与えていく行為である。だから、課題が明確になっていないと、何をしなければいけないかがわからないから、適切な研究ができない。しかし、実際に、研究の終盤になって、回答が見えてきた段階で、改めてこの研究の課題は何だったのかが、分かってくるものなのだ。そこで初めて、適切な課題設定が可能になる。
逆にいえば、「質問」をみれば、その「質問」を作成した人が、全体像をどれだけ把握しているかがわかるのである。ある人の知的水準を測るためには、質問をしてその回答を見る方法が一般的だが、むしろ「質問」を組み立てさせるほうが、端的にわかるものなのだ。
国会での議論を、生産的なものにするためには、できるだけ適切な質問を提起しなければならない。質問は相手をやりこめるためのものではなく、国民のためになる政策を引き出すためのものである。どのような政策が国民のためにあるのかを、明確に意識していなければ、適切な質問を構成することはできない。そして、提起する質問によって、質問者の意図や政策能力がわかる。また、質問が適切であれば、回答を作成する側も非常にやりやすいことになる。また、適切な質問に対して、いいかげんな回答しかしなければ、政府の姿勢が不十分であることも、一層明確になる。
質問と回答の水準が向上していく循環を生みだすためには、質問を事前に公開するシステムにするのがよい。ヨーロッパではいくつかの国で採用されているらしい。関係者に提出すると同時に、ネットに公表する。ネットに公表すれば、質問提出の時間も明確になるから、遅れたら、そのことも国民にわかる。いいかげんな質問であれば、その質問者の評価が低下することになる。だから、国民に支持されるためには、よい質問を作成して、公表することが必要となる。
もちろん、疑問をもつ人もいるに違いない。国民は、そういう判断力をもっているのか、と。しかし、国民の判断力が、そうしたシステムの経過の中で向上することを信じなければ、民主主義は成立しないのではないだろうか。質問の事前公表、実際の国会の質疑応答、そして、議事録、これが揃うことで、その分野に関心のある人たちは、国会議論の全体像、ある政策の長所短所を正確に知ることができる。
最後に、森ゆうこ議員の質問が漏れたことであるが、質問公開原則からすれば、そもそも問題にならない。質問が事前に漏れたら困ることがあるのだろうか。