本日最終講義

 今日は、大学での最後の活動である「最終講義」をやってきた。通常の授業の枠とは別に、特別の「最終講義」というのは、どういう習慣であるのかわからないが、多くの定年退職する大学教師は、これを行うようだ。私が強く意識している歴史的最終講義は、矢内原忠雄のものだ。矢内原は、軍部批判をした論文が非難されて、東大教授を辞任せざるをえなくなるわけだが、受け持っている講義が結局、途中で停止されることになる。その最後の講義が、「最終講義」と言われていて、多くのひとたちに語り継がれている。多くの慣習的な最終講義は、こうした普段の講義の最後ではなく、特別のテーマで行う。
 数日前に書いたが、「大学の教育活動でめざしたこと」という題で行った。
 いろいろあるが、大学の講義で目指したことは、とにかく、学生に勉強させることだった。 “本日最終講義” の続きを読む

「結婚しなくていい」ヤジ、野党の対応は稚拙ではないか?

 1月22日の国会代表質問で、選択的夫婦別姓の導入を認めるべきだという質問に対して、「だったら結婚しなくていい」というヤジが飛んだとされる。それに対して、「結婚の自由を否定する憲法違反の言論だ」「謝罪せよ」など強い非難が出されており、ヤジの主をめぐっても、自民党と野党の攻防が続いている。杉田水脈議員だという声が多いが、本人は無言を貫いている。自民党の森山国対委員長は「不規則発言自体がよくないと思うので、そういうことがないように(党内に)しっかり伝達する」と述べ、個別の発言はたださない意向だということだ。不規則発言がよくないのなら、安倍首相にそのように諫言すべきであろうと思うが、この問題はいろいろと考えさせる。
 まず最初に私の立場であるが、「選択的夫婦別姓」の導入に賛成である。ただし、結婚するときに、新しい姓をつくって、その姓になることも認めるべきだと思うので、100%「選択的夫婦別姓」がいいとは思っていない。ただし、新しい姓まで認めないなら、別姓もだめだなどとはまったく思っていないから、そのことには賛成である。
 そのことを踏まえて、このヤジをどう思うか。もちろん、感心しないが、しかし、この発言が「憲法違反」だとは思わないし、そういう発言をすることに対して「謝罪」をしなければならないとも思わない。 “「結婚しなくていい」ヤジ、野党の対応は稚拙ではないか?” の続きを読む

満員電車にベビーカー 思いやりだけでは済まない

 ものまねタレントの「みかん」のブログ発で、満員電車にベビーカーで乗ることの問題が話題になっている。私は、ものまねなどにはまったく興味がないので、みかんというタレントは知らなかったが、とりあえず彼女のブログや、紹介ブログ、そして、5チャンネルでのやりとりなどを見てみた。こうした話題は度々議論されるところだし、日本のラッシュアワーは、とにかく解決不可欠の問題なので、取り上げてみた。
 まず、最初のみかんブログを読むと、他でも多数紹介されているが、普段は車での移動だが、その日は仕方なく電車で移動せざるをえなかったということだ。ベビーカーとキャリーバッグをひいて、朝の通勤客で混み合う電車に乗ったが、ある駅で下りた男性が、「邪魔なんだようっ!」と捨てぜりふをはかれて泣きそうになった。電車移動はしたくないと思ったというような内容だ。「乗っちゃいけないの?!」という題がつけられている。
 大きく話題になったのは、その後、志らくがMCをしている「グッとラック!」で取り上げ、論争になったからのようだ。その番組自体を見ておらず、紹介記事で知っただけだが、だいたいの筋はわかった。志らくは、「男性こそ邪魔だ」というような発言をしたようだ。 “満員電車にベビーカー 思いやりだけでは済まない” の続きを読む

大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか

 最後の授業を終わり、あとは、「最終講義」を残すのみとなった。今回は、「最終講義」で話す柱となる内容を考えるために書いてみる。考えながらなので、とりとめない書き方になる。
 題名は「**大学の教育活動でめざしたこと」ということで、私は専門が教育学なので、教育活動自体が、専門の実践という側面をもっている。「最終講義」には定型はないのだろうが、多くは、自分がやってきた研究活動の総括などをする。私の狭義の専門領域はヨーロッパの学校制度だが、やはり、基本は「教育とは何か」にある。教育という行為には、必ず価値的な対象がある。そして、具体的な対象は、ある領域の知識であったり、あるいは技能・技術であったりする。しかし、単に専門領域の知識を与えることを意図して、教育活動をしている大学の教師はあまりいないはずである。やはり、知識を獲得するとともに、あるいは知識を獲得することによって、より、高いレベルの知的能力の獲得を目指しているはずである。私の「最終講義」は、その目指してきた知的能力とは何か、それをどのような方法で目指したのか、その結果はどうだったのかという点に焦点を当てて考えることを意図して行う。 “大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか” の続きを読む

入試の出題ミスの対応について

  人間のやることには、必ずミスがありうる。入試問題の作成も例外ではない。センター試験などは、かなりの期間をかけて、何重にもチェックをしているようだが、それでも出題ミスがある。そうした場合、報道を見る限り、ほとんどの場合、その問題は全員に点を与えるという措置がとられるようだ。しかし、それは、正しい対応なのだろうか。もちろん、それ以外の対応は、ほとんど大きなクレームが寄せられるだろうから、クレームのない方法として、全員加点以外ないということは、私にもわかる。しかし、それでも納得できないものがある。
 こういうことがあった。あまり知られていない試験だが、小学校教員免許の認定試験というのがある。小学校免許を取得するコースは、あまり大学に設置されていないので、とらずに卒業してしまったひとたちが、社会に出たあと、やはり小学校の教師になりたいという人のために、一発試験で、合格者に二種免許をあたえる試験である。
 当時、私はこの試験を受験する学生と一緒に、勉強会をしていたのだが、ある学生が受験した科目に、出題ミスがあった。 “入試の出題ミスの対応について” の続きを読む

本日で大学の教育活動終了

 思いもかけず、定年が一年延び、今年の3月で定年退職することになっているが、授業としては今日最後の授業をしてきた。最後は、「国際社会論」で、インターネットの国際社会に与えた影響について扱った。あまりにたくさん教えるべき内容があり、やはり時間が足りなくなってしまったが、学生諸君も日々活用しているツールだから、いろいろと考えてくれるだろう。
 最後に、AIが職業をなくしていく、というよく言われることに対して、どう対応していけばいいのか、ということを強調して終わった。これは、教育研究者としては、とても大事なことで、いろいろな機会にいってきた。
 AIが職業を半分くらいなくしてしまうということは、半分くらいの人々がその仕事を奪われるということだ。また、職業がなくならなくても、仕事の有り様がすっかり変わってしまうということも起きうる。そういうときには、新しい事態に対応できる能力や資質か不可欠となる。今後の教育としても、そうした新しいことへの対応力の育成がとても重要になるわけだ。しかし、そんな能力や資質はどうやって教育することが可能なのだろうか。
 私の考えはこうだ。 “本日で大学の教育活動終了” の続きを読む

芸術に対する公的補助

 「芸術に公金、広がる波紋=市劇場専属の舞踊団―首長交代で一時存続危機・新潟」という時事通信の記事がでている。(2020.1.19)公共劇場の専属舞踊団Noismへの補助金の打ち切りが検討されているというものだ。一端打ち切りの方向になったようだが、条件付きの活動の継続7が決まっている。それは当面のことで、今後はどうなるかわからない。
 Noismは、2004年に公共劇場「りゅーとぴあ」の専属舞踊団とてり、13人のダンサーを抱え、生活費と練習場所が保障されている。前市長の意向だったようだが、市長が変わることで、状況が変わったということだ。日本ではよくあることで、私が所属している市民オケにおいても、まったく規模が違うが、市長交代で状況変化が起きるという経験をしている。
 地域貢献をすることで、22年8月までの継続が決まったということだが、おそらく、継続はかなり難しいのではないだろうか。記事には、次のような説明が付されている。
 「公共劇場の専属芸術集団は欧米では一般的だが、日本では「多大な予算が掛かる」と敬遠され、ほとんど例がない。
 新潟国際情報大の越智敏夫教授(政治学)は「文化事業は価値を数字で測りにくく、予算削減の対象になりやすい。一回やめると復活は難しい」と話し、行政による文化・芸術活動の支援の難しさを訴えた。」
 芸術活動に対する公的補助の問題は、愛知トリエンナーレでも大きな対立を生んだが、非常に難しい論点を多く含んでいる。
 まず、欧米では、公共劇場に専属芸術集団が属しているのが一般的だと書かれているが、私はそうは思わない。 “芸術に対する公的補助” の続きを読む

『教育』2020.2号を読む 東京賢治シュタイナー学校の取り組み

 2月号の第二特集は、「『みんなの学校』は誰のもの?」という、テーマとしては、かなり刺激的なテーマだ。しかし、ざっと読んだ限りでは、このテーマそのものを掘り下げた文章は、あるのだろうかという印象だ。そもそも「みんなの学校」という概念自体、そうとう検討の余地ありではなかろうか。学校は本当に「みんなの」ものなのか。公立学校は、少なくとも、何かの要素で制限するということはあってはならないわけだから、「みんなの」という形容は、とりあえず納得できるが、私立学校は、特別な教育理念があってもいいわけだから、その理念にどうしても納得できない人は、排除されることになるだろう。明確なキリスト教の学校に、絶対にキリスト教的な要素は容認できないという人を受け入れる義務はないように思われる。というより、もともとそういう志願者はいないだろうし、そうした人を含んだ「みんなの学校」とは考えていないだろう。このような検討は、この特集ではしていないが、私は、かなり重要な事項であるように思われる。 “『教育』2020.2号を読む 東京賢治シュタイナー学校の取り組み” の続きを読む

弘中・高野弁護士への懲戒請求はおかしい

 ゴーン氏逃亡に関連して、弁護人を務めていた弘中弁護士と高野弁護士に対する懲戒請求が都民からだされたと報道されている。しかし、これはいくらなんでも、おかしな話だ。弁護士は、被告人の弁護を引き受ける人であって、被告人の監視をする人ではない。保釈条件が、弁護士からだされたから、それが守られなかったのは条件をだした弁護士の責任であり、懲戒に値するという理由のようだ。
 しかし、基本的に証拠固めが終わったら、保釈するのが、「当然」なのであって、その保釈を認めようとしない検察が批判されるべきなのである。なかなか認めないから、条件を弁護士の側からだしただけであって、しかも、その条件を守らなかったわけではないだろう。ゴーン氏が家を出た映像は、監視カメラに写っていたのだから、監視カメラはきちんとつけていて、条件を守っていたことになる。監視カメラを外してしまって、そのために外出がわからなかったというのならば、外した人間に責任があるだろうが。 “弘中・高野弁護士への懲戒請求はおかしい” の続きを読む

ドイツの高齢者事故

 1月16日付けのHamburger Moregenpost に84歳の女性が、子ども連れの36歳の妊婦を、車の運転ミスによる怪我をさせたという記事が出ている。幸い死亡事故ではなかったようだ。交差点を妊婦が渡ろうとしているところを、老婦人が間違って轢いてしまったという。乳母車が無残に飛ばされている写真がでている。運転していた老婦人は、警察に逮捕されたが、薬を服用していて、運転できる状態ではなかったと書かれている。車は押収され、捜査が続いて行われるということだ。
 ドイツでは、高齢者の事故はどうなっているのか。まだ充分にはわからないが、高齢者が交通事故に巻き込まれて死傷するのは、当然被害者として事故にあうのが最も多く、交通事故の被害者は子どもと高齢者が圧倒的に多いようである。当然のことだろう。2015年の事故犠牲者総数の21.1%が高齢者で、そのうち29.6%が死亡している。人身障害にいたる交通事故21万件のうち、5人に一人は18~24歳、13人に一人が65~74歳、13人に1人が75歳以上ということだ。ということは、まだまだ高齢者よりは、若者が多いということになる。 “ドイツの高齢者事故” の続きを読む