『教育』2020.4を読む 宿題を考える2

 研究者とジャーナリストの次に、小中の教師と保護者、塾の運営者の宿題論が続く。
 まず、中学教師の柳井良壽氏の「子どもの学びを励ます」は、朝授業のために教室に入ると、前の時間の教師だろうか、宿題を忘れた生徒を叱っている場面に出くわす。宿題を忘れたケン→明日やってきて、朝一番に提出すると約束→してこなかったので叱責という状況だった。そして、その教師は、「約束を守れない人は人から信頼されない」「友達がいなくなる」といって説教する。
 しかし、柳井先生は、このやりとりに違和感を感じているようだ。宿題を提出できない生徒はいつもいる、子どもの生活が忙しすぎる、自分の時間をもっていない。こういう状況で宿題などできない生徒がいても、仕方ないのではないか。
 宿題などださなくても、勉強してくる主体的学びができたらいいのに、と他の教師に語ると、そんなの理想だよと一蹴される。
 「ワークは何故ださなければいけないか」と質問したら、ある教師は「約束を守ること、計画的にものごとを進めることが大切だと教えるため」という答えが返ってきた。この回答には、確かに違和感を感じる。「約束を守ることが大切」であることは、何も宿題を手段にする必要はないし、むしろ、宿題をそういう目的でだすとしたら、かなり子どもたちには反感をもたれるに違いない。宿題は、それをすることによって、学習が進むことを目的とするべきであって、約束を守ることが大切であることを教えるには、それぞれの場面で行った約束を守るように、指導すればよい。計画的にものごとを進めることの大切さを教えるには、教師がだした宿題はあまり効果があるとも思えない。その計画は、教師が押しつけたものであって、「計画」はまず自分でたてたものこそ重要なはずである。教師が押しつけた計画を、計画的に進めることが大切というのは、あまりにも「部分的」でしかない。
 また、一人一人の適した宿題をだしていないという疑問も提起している。こうして、いくつかの疑問を柳井先生は提出しているのだが、新しい学習指導要領で「主体的に学習に取り組む態度」が評価の観点となり、宿題についての議論が始まっているとして、今後に期待する感じで文章を終えている。その点は少々物足りない。矢内先生自身が、どのように、自分のもっている疑問を解決するような宿題の出し方を工夫しているのかを、書いてほしかった。また、主体的に学習に取り組むことが、評価の観点になったからといって、それが宿題の問題を解決するとは、あまり思えない。
 次に小学校教師の角谷実氏の「やめどきいまだなし」という文が掲載されている。
 角谷先生は、毎日宿題をだすそうだ。それは、算数ドリル・漢字・音読からなっている。そして、提出された宿題は、その日のうちにチェックして返す。ただし、作文などは、家に持ちかえる。明確に書かれているわけではないが、こうしたやり方は保護者から歓迎されているということだろう。
 「私がいっても勉強しないので、宿題だしてガツンとやってください」という親の要求を紹介しているからである。
 そして、角谷先生は、宿題をだす理由として3つあげる。
・宿題をやる子どもとやらない子どもでは、テストの点数に開きがある。
・宿題をまったくださない教師がまわりにいない。
・家庭学習についてのスタンダードがだされている。(県の指針)
 このように見ていくと、角谷先生は、宿題をだすことについては、確信があるようだ。そして、「望ましい宿題とは、達成する目的があること」としているが、算数ドリルや漢字、音読が、達成する目的があるかどうかは、残念ながら明確に意識されているかはわからない。というより、疑問がだされる可能性が高い。計算ドリルや漢字などは、既にできている子どもと、まだの子どもがいるだろうが、個人にあうように、別々にだしているなら妥当だろうが、同じ内容の宿題であるとすると、「達成する目的」には、そわない場合も出てくるだろう。実際に、「書ける漢字も書かねばならない」という不満が、次の保護者の文章が書かれているからである。
 角谷先生の学校では、おそらく全校的に「自学ノート」という課題をだしている。つまり、指定された内容ではなく、自分で決めた学習をノートに書いて提出する。ノート一冊が終わると校長から表彰される仕組みだ。フィードバックがどの程度なされているかわからないが、きちんと担任がチェックして、コメントなどがなされるならば、非常によい課題といえるだろう。校長の表彰は、なくてもいいと思うが。
 私の娘も、ある学年で「自学ノート」の課題がだされ、それによって、学習意欲が出てきたように、私には思われる。担任の先生は、丁寧にフォローしていたようだ。しかし、翌年担任が変わって、そうした課題がだされなくなったが、何人かの子どもたちは、「自学ノート」を自主的に提出していたのだが、新しい担任は、まったくそれを放置してしまい、子どもたちの不満が大きくなったという経緯がある。フォローの重要さは、担任がしっかりと見ることであって、表彰ではないように思われる。もちろん、表彰を否定するつもりはないが。
 このように、宿題にはほぼ疑問がないように見える角谷先生も、最後には、最後に自問している。「宿題なんか誰が発明したんだ。」という子どもの声を紹介して、文章を締めくくっている。
 保護者である辻村有希氏の「何のための宿題なの」は、だす方でもやる方でもないから、注文が中心となっている。
 感じる問題として以下のことをあげている。
・量が多すぎる
・分かっていることも宿題にだす。(書ける漢字も書かねばならない。)
・先生に質問することが難しい。
・宿題をだすかどうかで、人格評価する教師がいる。(息子がそれで不登校になった。)
・宿題を学校でできない。
 これらの疑問は、次の高山陽介氏「子どもの課題を見つめながら」を読むと、教師・子ども・保護者の間のコミュニケーション不足によるという理解が妥当ということになる。塾の「わかでくらぶ」を運営している立場から、相談を受けることが多いが、仲介をすることも多いようで、そのなかで、情報がうまく伝わっていないことが、子どもや保護者の不満の原因になっていることが多いという。たとえば、今やっているところを音読する宿題がでたとしても、今やっているところが、どこか、子どもから親に伝わらなければ、子どもが適切なところを音読しているか判断がつかない。子どもが、ずっと同じところを音読しているのでおかしいと思ったら、そうした事情がわかったというのである。ところが、高山氏によれば、宿題について先生に相談してはいけないものと思い込んでいる親と子どもが多く、こうした情報ギャップに気づかないままということも少なくないのかも知れない。
 高山氏は、本当にできるようになりたいという気持ちをおこさせる宿題を望むとするが、この特集でこそ、それがどのような宿題なのかに関して切り込んでほしかった。残念ながら、その指向性を特集全体から感じることができなかった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です