『教育』を読むということで、今月号の特集テーマである「宿題」についての文章の検討をした。せっかくなので、私自身の考えや体験を書いてみたい。
宿題をだすことの意味は、いろいろあるのだろうが、大学でも宿題をだす教師はいるし、私自身、かつて、非常にきつい宿題をだしていたことがあった。また、定年まで、教科書を自分で作成して、それを事前に読むことは、日常的な授業での課題としていた。明確な宿題ではないが、似たようなものだったろう。ただし、提出などはもちろんないのだが。
かなりきつい宿題については、「最終講義」のなかで若干触れているが、再度紹介する。大学の一年生が主に受講する「生涯教育概論」という授業で、「自伝」を書かせていたことだ。年間の宿題として出し、主に夏休みなどに書くようにさせていた。秋になるとぼちぼちだしてくるので、今考えると、書く方もずいぶん大変だったろうが、読む自分もずいぶんと大変な作業をしていたことになる。間違いなく、これは全部読んだ。レポート用紙20枚が最低基準であり、それ以上いくら書いてもいいということにしていた。この宿題を最初の授業でだすと、当然驚きの声があがるのだが、実際に書き始めると、だんだん興味深くなるようで、40枚くらい書く学生もたくさんいた。
「生涯教育概論」という授業だったために、こうして宿題をだしていたのだが、大変な課題をやった満足感が学生にあったことは確かだ。しかし、こうした宿題が可能だったのには、いくつかの理由があり、その後大学の授業システムが変更になってからは、決してだすことができないものだった。可能だった理由とは、この授業が「必修科目」だったことと、通年制だったことだ。その後、学部改革で、新学科設立とともに、通年制の授業がセメスター制になり、かつ、5つあった必修の概論は、8つに再編成されて、なおかつ選択必修に変わってしまった。私は、概論としては、「教育学概論」を担当することになって、事実上の継続となったのだが、秋学期のみの授業で、かつ選択必修だったから、このような宿題は、その後一切ださなくなった。だせなくなったといったほうがいいかも知れない。もちろん、選択科目や選択必修科目であっても、宿題をだすことはできるが、かなり大変な宿題がでる授業であるとなれば、当然履修する人は極端に少なくなるだろう。あの大変な宿題をやりたいといって、履修する学生が多くいる選択科目の授業をもつ、ということは、非常にすごいことだろうが、私の知る範囲が少ないこともあるだろうが、そういう授業や教師は、まだ聞いたことがない。また、大きな課題は通年制だからこそ出せるものだ。
考えてみれば、小中学校の授業は、制度的には選択科目があったとしても、子どもたちの側からすれば、すべてが必修科目である。学習指導要領上は、外国語が必修科目であっても、実際の授業では、英語が必修になっている。従って、宿題をだすことが、それから逃れられないという状況で行われている。小学校や中学校の授業が選択制になることは、あまり考えられないから、大学と同じように考えることはできないが、宿題そのものをやってもやらなくてもいいというような設定は可能だろう。やらなくてもいいけど、やりたい人はやってきなさい、というような宿題をだしている教師は、どのくらいいるのだろうか。やりたくなる宿題を考えたいという教師は、たくさんいるだろう。それはどうしたら可能なのか。
それは、安井俊夫氏の実践が参考になるだろう。「『教育』2020.4を読む 宿題をどう考える」で書いたことだが、安井氏は、毎日ではないと思うが、新しい単元に入るときに、宿題を出す。それは、ワークシートで、教科書の重要事項を整理するような内容だ。普通の教師は、こういうワークシートを授業の本番で使うのだが、安井氏は、予習としてやらせる。教科書をしっかり読めば、簡単に空欄を埋められるものだから、宿題そのものには、困難な要素はない。だから、やりやすい。もし、これが、単なる宿題として出された強制的な予習なら、やってこない生徒もたくさんいるに違いない。あるは、やってこさせるために、様々な罰を設定するかも知れない。しかし、この宿題をやってくると、確実に、この単元の授業への参加が容易になり、それだけ授業を楽しく受けることができる。それを毎回の授業で実感しているから、宿題を多くの生徒がやってくるのだろう。安井氏の授業は、このワークシートで、生徒たちが基本的な知識を、既に教科書で確認していることを前提にして始める。安井氏が中学3年生に対して行った「10000万円札の謎」という授業は、実に見事なものだ。「貨幣とは何か」という問題を、実に興味深く中学生たちに考えさせている。
まず最初に、1万円札を生徒に見せて、「この1万円札は、本当に1万円の価値があるのか」と問いかける。もちろん、あるとする者も、ないとする者もいて、だいたい半分にわかれる。まず、価値がないという人に理由を尋ねる。そして、一通り意見がでたあと、「じゃあ、**、僕が授業を終わったとき、この1万円札を忘れて職員室に帰ってしまったとき、**に、あれ捨てておいて、といったら、**、捨てるかい?」と質問する。もちろん、捨てないという答えがでるに決まっているわけだ。「捨てないね」といって、価値ある派の意見を聞く。常識的には、1万円の物が買えるのだから、1万円の価値があると考えるのだが、ただの紙だという意見も否定できない。そこで、1万円札を作るのに、いくらかかるか。20円程度だと、ここは説明する。つまり、20円しかかからない費用で作った1万円札がなぜ、1万円のものが買える価値をもつのか。
そこで、日本が近代国家になっていく明治に、紙幣を作ったときの状況を説明していくわけだが、ここでも、安井氏の質問に、生徒たちは、活発な意見を述べる。そして、大人である私が、この授業の映像を見ていても、惹きつけられるのだ。生徒たちにとっては、本当に面白いと感じる授業に違いない。そして、その授業の楽しさは、多くが、安井先生のしっかりした授業準備、組み立て、そして、それを支える豊富な知識によるものだが、生徒たちが、予習の宿題で基本事項をしっかり押さえているからこそ、楽しさが一層大きくなっていることを、生徒自身が感じている。楽しく、深く学ぶ実感を与える授業と、それをより可能にする生徒側の予習のサイクルが続くことによって、しっかりした自立的な学習の姿勢が形成されている。
もちろん、もともと学習姿勢が形成されている優秀な生徒なら、ワークシートのような宿題を出さなくても、しっかり予習するだろう。しかし、生徒全体が可能であるとは考えられないから、やりやすくするための指針として、ワークシートを宿題にしている。やることの意味、目的がはっきりしているし、そのことによって授業が楽しく受けられることがわかっている。そうすると、その宿題をやるだけで、基本的な事項が記憶もされていくようになるのだ。
やはり、宿題の一番重要な点は、授業を充実させるために有功であることを、子どもたちに納得できることだろう。
『教育』の特集で気になったことがある。それは、家庭の状況は多様であり、親に協力を求めてもできない親がいることの強調である。確かに、それは考慮しなければならないことだろうが、だから、宿題を出すことは間違っているという一般論にはならない。不要で効果もない宿題は害だが、必要で効果的な宿題は、多いに出すべきだ。もちろん、適切な量の範囲で。もし、家庭で親が協力できない状況にあるならば、学校で残ってやっていくとか、友達と一緒にやるように工夫するとか、対応はいろいろあるだろう。学校の授業は、どうしても、教師に指導されるものだ。しかし、もっとも大事で有功な学習は、「自学」なのである。だから、どこかに、それを促進する要因が必要であり、宿題は、有効なひとつの方法となりうる。あるいは、そうしなければならない。そして、それは、一人一人の教師が、自分が行う授業との関連で生みだしていく必要がある。
そんな時間はない、とか、そういう自由は許されていない、ということはあるだろうが、そのことは、また宿題とは別の問題だろう。