チェリビダッケのリハーサル3

 チェリビダッケは、映像などを見れば見るほど不思議な人物に思えてくる。そういう意味では、カルロス・クライバーと双璧だろう。クライバーは、父親の反対を押し切ってまで、指揮者になったのに、指揮することを拒むような指揮者になっていった。小沢征爾は、クライバーのことを、「彼は、いつも、予定された演奏会を、どうやったらキャンセルできるか、その理由を探していた」と述べている。本当にささいなことで、キャンセルしている。ベルリンフィルを初めて指揮することになっていたときに、「新世界交響曲」の楽譜を、新しく買ってほしいと事務局に注文を出し、新しい楽譜に、自分の注意書きを転記してほしいのだと言い添えた。ところが、事務局では、その要求に応えるには時間がかかりそうだということで、いつも使っている楽譜(パート譜のこと)にある書き込みをきれいに消し去って、とりあえずきれいな状態にしていた。ところが、早めにやってきたクライバーは、そのパート譜を見たとたんに、新しくないではないかと憤って、そのまま帰ってしまったというのである。予定通り、演奏旅行から帰って、練習会場にやってきたメンバーを待っていたのは、指揮者がいない状況だった。そうした事態を引き起こした事務員は、カラヤンに、このような対応で間違っていたかと質問したところ、カラヤンは、まったく問題なかったはずだ、パート譜はきれいになっているし、と答えたそうだ。次にクライバーが指揮することになったときには、この事務員を、クライバーから目につかないところに退避させたという。
 チェリビダッケは、他の指揮者を褒めたことはほとんどないようだが、クライバーは高く評価していた。しかし、クライバーが、チェリビダッケに対して、匿名で批判したことは、よく知られている。チェリビダッケがあまりにいろいろな指揮者の悪口をいうものだから、天国にいるトスカニーニからの手紙と称して、「天国の指揮者仲間では、カラヤンはとても人気があり、ここにやってきたらいろいろと語り合いたいといっている」というような内容だった。偶然、私は、その文章が掲載されたドイツのシュピーゲル誌をもっている。
 チェリビダッケの変人ぶりはやはり際立っていると思う。もちろん、ドキュメンタリー映像を見ると、子どものころから際立って優秀で、家でちっとも勉強せず、宿題もやらないので困った親が、教師に相談したところ、「いや彼は、宿題はちゃっとやっていますよ。学校でやってしまって、みんなに教えています」とのことだった。しかし、父親と将来について衝突し、勘当同様で家を飛び出して、ベルリンでその後長い学生生活を送ることになる。その後、ミュンヘン・フィルの指揮者として、国際的な名声を博していたときに、オケとともにルーマニアに演奏旅行するまで、帰国もしなかったようだ。30代で突然ベルリンフィルの指揮者になる直前まで学生だったのだから、いかにも長い学生生活だった。チェリビダッケは、自分の信念を曲げて生きることは、自立する以前から非妥協的に拒否していた。そして、共に協同作業を始めても、直ぐに自分の理想とまわりとのギャップが大きくなり、衝突を繰り返す。様々なオーケストラに客演するが、正式な常任指揮者になったのは、最晩年のミュンヘン・フィルのみだ。そして、客演指揮者として長く関係を保ったのが、スウェーデン放送交響楽団と、南ドイツ放送交響楽団のふたつだが、放送交響楽団であることが興味深い。日本でもそうだが、放送局の専属オケは、財政的に安定しているために、チェリビダッケの過酷な練習時間の要求を受け入れる余裕があったということだろう。
 ベルリン時代は、おそらく非常に短い時間のリハーサルで制約されるなか、すべてが初めての経験だから、猛烈な勉強をしながらの活動だったはずであるのに、何故その後、破格の練習時間を要求するような指揮者になったのか。そこは、ふたつのドキュメンタリー映像をみてもわからなかった。そういう要求があるからだろう、ウィーン、シカゴ、ニューヨーク、アムステルダムなどの、世界のトップクラスのオーケストラには、客演したことは、ほとんどないに違いない。
 ベルリンを去った後、特に顕著になったといえるが、実は、父親との決裂で、苦難の自立生活を自ら選択した時期から、彼は、ルサンチマンとして生き続けたのではないか。そして、指揮者としては、カラヤンへの対抗意識を前提にしないと説明できないことが多々ある。レコーディングの拒否。(カラヤンは、レコードで金儲けをすることが大事だ、との批判)効率的な練習。(練習は自分の要求する音が出るまでやる必要がある。因みに、ベルリンフィルがチェリビダッケではなく、カラヤンを選んだひとつの理由は、練習の合理性だったという。)ベルリンフィルやウーンフィルなどの超一流しか相手にしないこと。(俺は、どんなオケでもしっかりと鍛えて、ベルリンフィルに負けない演奏を実現している。)音楽的美のみを追求しているのではなく、「真実」を体験しているのだという自負。
 彼のリハーサルにおける饒舌も、こうしたルサンチマンの表れであるように思われる。
 インタビューで、饒舌に哲学的な議論を行っているが、しかし、それはあくまでも「思考」であって、音楽の実践ではない。チェリビダッケは、音楽に何を求めたのだろう。
 チェリビダッケのたくさん発売されているCDやDVDをみても、実は、マーラーが全くないことに気づく。これは現代の指揮者としては、かなり珍しい。戦前ナチ党員だから、ユダヤ人のマーラーは演奏したくないのではないか、などと、かつて揶揄されたカラヤンですら、マーラーのCDを5曲作成している。(4、5、6、9番の交響曲き大地の歌)オーケストラが充分に演奏する技術ができるのを待っていたのだ、とカラヤンは、マーラーや新ウィーン学派の演奏したことについて説明している。
 かつてピアニストは、ショパン弾きとベートーヴェン弾きに分類される時代があった。今はそうした分類は意味がなさないものになっているが、指揮者におけるマーラー指揮者とブルックナー指揮者は、かなり明確に分かれている。片方しか演奏しないという指揮者は少ないが、(チェリビダッケはその一人)明らかに、マーラーが得意とされる指揮者は、ブルックナーの名演がほぼない。ブルックナー指揮者は、マーラーの名演がない。
 マーラー指揮者の代表として、ワルター、バーンスタイン、アバドをあげておこう。いずれもマーラーに関しては、ベストと評価される録音があるが、ブルックナーは数が少なく、かつあまり高く評価されていない。ブルックナー指揮者は、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、ギュンター・ヴァント、バレンボイムだろうか。同様に、マーラーの評価の高い演奏はない。(フルトヴェングラーには、フィッシャー・ディスカウとの「さすらう若人の歌」の名演があるが、ディスカウに触発されたものであり、「はじめてマーラーのよさがわかったが、マーラーはワルターに任せる」と語ったとされる。)
 それぞれの全集をつくっている指揮者はたくさんいるが、マーラーもブルックナーも両方の全集を作っている指揮者は、かなり少ない。私の思いつく限りでは、ハイティンクとインバルくらいである。そして、それなりの評価を得ているが、ベストチョイスとして選択する人は、あまりいないだろう。マーラーとブルックナーは、人生が重なる同時期の作曲家であり、共にワーグナー派であったが、音楽の質はかなり違う。そして、指揮者に対して、異なる「資質」を要求するような気がするのである。あるいは、逆に指揮者の資質によって、一方を求めるのかも知れない。
 マーラーは人生の様々な場面を、人間の美醜あわせて描いた。人生に対する肯定感が強い。ブルックナーは、最後の交響曲を神に捧げたことでわかるように、求道的な作曲家である。人生とは何か、真実とは何かと問う哲学的な姿勢と、救済を求める姿勢が、チェリビダッケの資質と合致している。そして、ルサンチマンとして生きざるをえなかったチェリビダッケの神への救済を求める生き方が、ひたすらのようにブルックナーに向けられたのではないかと感じる。
 いろいろとチェリビダッケについて考えてみたし、これからもたまに残りのCDやDVDを視聴するだろうが、何故、正規の録音をしなかったのか、その理由はよくわからないままだ。当初は、不完全な録音の拒否だったようだが、後年にあると、演奏とは、指揮者・オーケストラ・観客が一体になってつくる、その場限りのものだから、録音して再生すると、それは音楽ではない、というような説明をしている。しかし、それならば、何故、放送は許したのか。双方は、視聴者個人が視聴するものだし、また、録音・録画して繰り返し再生される。チェリビダッケ自身の説明と矛盾するのだ。
 もしかしたら、ライブ録音の発売をほとんど認めなかったカラヤンへの、これも対抗の一種だったのだろうか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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