『教育』2020.4号を読む 宿題をどう考える

 『教育』4月号の第二特集が「たかが宿題 されど宿題」となっている。宿題は、教師にとって非常に悩ましい対象だろう。宿題などださなくても、子どもたちみんなが必要な家庭学習をきちんとやって、学力が確実についていけば、理想的だ。しかし、現実はそれにはほど遠いのだから、宿題をださなければならない気になるし、また、家で勉強するように、たくさん宿題だしてくださいという親もいるだろう。そうすると、子どもにとっては重荷になるわけだから、「何故宿題だすの」という疑問もだされて、それに答えなければならないし、また、だして来ればそのチェックも必要だ。ださない子どもには、催促もしなければならないだろう。子どもにとって重荷であるように、教師にだって重荷であることに変わりはない。
 この特集の最初に、編集部の書いた文章が掲載されており、そこには、「させられる教育という言い方に収斂しない、学習としての宿題について問い返してみたい。」と書かれている。しかし、興味深いことに、最初に書かれている丸山啓史氏の「宿題のどこが問題か」と杉原里美氏の「家庭を巻き込む親子参加型宿題-家庭教育の推進を背景に」のふたつが、宿題に極めて否定的な立場から書かれており、そのあとの5つの文章は、宿題に疑問をもちながらも、積極的な意味の模索も感じられる。丸山氏は、大学の教師であり、杉原氏は、朝日新聞の記者である。そのあとは、教師、親、地域活動家である。
 教師がある程度宿題に積極的で、研究者とジャーナリストが専ら否定的というのは、雑誌の企画の趣旨が徹底していないのか、気になる。「学習としての宿題を問い返す」ということの意味が、まだ不鮮明なのだろうか。
 今回は、まず最初の二人の文章について、考えてみたい。
 丸山氏は、題名からすでに宿題の問題性を指摘することに焦点を当てている。
 日本では、宿題に関する議論はほとんど起きていないとしたあと、米国では、宿題についての研究が活発になされていて、宿題が子どもの学力を伸ばしているか不明、親が教師の役割を代行して、「脅し」や「ほうび」などという望ましくないことをせざるをえなくなり、家族関係を壊してしまう、学校でも、宿題をやらないと罰を受けたり、スポーツに参加することを認められなかったりなどの弊害、そして、健康上の問題を発生させるということで、米国では宿題に否定的になっていると紹介している。
 その次に、宿題の問題性を3点にわたって説明する。
 第一に、「子どもの自由時間が奪われる」こと。ベネッセの調査によると、2016年には、小学校教師の95%が宿題を毎日だしているのだそうだ。そして、一週間の学習時間が、学校と学校外をあわせて43時間になっており、大人の過重労働に相当するという主張だ。そして、日本でも「学習制限法」が必要だという山下雅彦氏の主張を引用する。
 この説明については、別のところで頻繁にいわれる事情と、大分異なっているような気がする。つまり、日本の子どもは、家庭学習の時間が少ないという調査結果である。公文の調査では、小学生の平均が30分である。私には、あまり学習過多のようには見えない。日本の子どもが、宿題に追われて自由時間が削られているというのが実態なのか、それとも、家庭での学習が不足しているのが事実なのか。この検討はきちんとなされるべきだろう。高学年になって、塾にいくようになると、学校外の学習時間が多くなるだろうが、それは、家庭学習ではない。家庭学習と塾での学習とでは、教育的には、かなり相違があると思う。
 さて、丸山氏は、第二に、「家庭の多様性になじまない」ことをあげている。母親が家庭の主婦であるか、あるいは共働きか、母子家庭で母親はダブルワークをしているか、などで、宿題をする環境がまったく異なる。子どもの宿題をみてあげることができない環境にある家庭では、特に、近年親が一緒に宿題を手伝ってあげること、あるいは、採点することなどが求められることが増えているので、対応できない家庭が少なくないというわけである。
 そして、第三の「子どもの多様性になじまない」も同様だろう。子どもの学力や興味、家庭環境など様々であるのに、一律の宿題は酷ではないかという。
 こうした点を考えると、放課後教師が宿題をみてあげるというような緩和策もあるが、宿題をなくす試みがあってもいいのではないかというのが、丸山氏の結論になっている。1960年代には、宿題をなくす試みなどがあったから、それを復活させようというわけだろうか。
 杉原里美氏の文は、「親子参加型」の宿題の弊害を指摘するものだ。教育基本法の改訂で、家庭が教育の第一義的責任をもつことが規定されたことから、宿題への関与が様々なレベルで要求されるようになっているという事実を多数あげている。宿題の採点、親子の触れ合い(ハグ、褒めあう、手をつないで歩く、背中を洗いあう、その日の幸せを語り合う等)、給食を実施しない日を設けて、お弁当にする、二分の一成人式で親に手紙を書く、朝食調べ等々である。「早寝早起き朝御飯」国民運動を文科省が推進しているのだそうだ。
 他方、教師からみると、家庭で行うべき「しつけ」が学校に押しつけられているという不満もあると、杉原氏は指摘している。そして、今年の4月から、「キャリア・パスポート」事業が始まることを批判している。氏も結論は、宿題の再考である。正直、小学生に対する「キャリア・パスポート」事業など、まったく馬鹿げているとしかいいようがないと思う。そもそも、現在ある職業の半分がなくなるかも知れないという時代に、「なりたい職業」を一生懸命意識させてどうするのか。
 杉原氏が指摘する事例は、私からみても、「余計なお世話」で、今、私の子どもが小学校に通っていて、そうした宿題がでたとしても、積極的に協力などしないだろう。ハグしたり、手をつないで歩く、などということを、学校から指示されて実行するものではない。保護者会に出かけていって、疑問を述べ、趣旨の説明を受ける程度のことはするだろう。そして、そんなことを「宿題」としてだすより、もっと生産的な学習をするような宿題を創造的に考えてほしい、などと言うかも知れない。
 ただし、だから、「宿題は不要」という考えには、私はたたない。というのは、学習のもっとも効果的な方法は、「自学・自習」だからである。学校というシステムは、どうしても「復習」中心の指導をしがちであるが、大事なことは、むしろ「予習」の重視なのである。予習の課題をだして、それをほとんどの子どもがやってくるような指導ができれば、その学級集団の学力はかなり向上するはずである。そういう実践の実例として、安井俊男さんの授業がある。私がまだ大学院生で、生活のために塾をやっていたとき、となりの学区の中学に安井先生がいた。そこの生徒たちも来ていたので話を聞くと、ふたりの先生が社会を教えていて、どちらの先生がつくったテストでも、安井先生の受け持っているクラスの平均がかならず10点くらい高いのだと聞かされた。その後、安井先生の実践記録をたくさん読み、また、授業のビデオなどを見るようになって、その秘訣がわかった。安井先生は、教科書の重要事項を調べさせるワークシートを予習の段階として宿題に出し、授業では、説明もあるが、討論主体の授業をする。そして、生徒たちは、かなりつっこんだ質問に対しても、多様な意見をだしている。それは、予習プリントをしているから、通常は、授業で習うことを、予め自学によって頭に入れてしまうのだ。もちろん、そうさせるのは、討論主体の授業が、非常に面白いからであり、そして、そのことによって、学力が高くなっている実感があるからだ。
 宿題といっても、いろいろな形があるはずだ。復習テストをだして、親が採点せよ、というのもあるだろうし、新出漢字を*回書いてくるとか、あるいは、逆に調べ物をさせる、さらに、なんでもいいから学習するなど、実に多様な宿題がありうる。ハグなどという生活面での宿題も、実際に行われているのだろう。
 私は、宿題一般を否定するのは、もちろん誤りだと思う。どういう内容、どういう形態の宿題が、学力向上に本当に役立つのか、それを吟味して、家庭や子どもの状況に応じた形でだすのがいいだろうと思う。
 親の関わりに関しても、原則的に否定する必要はない。親が子どもの学習に、無関心であるよりも、関心をもって、必要な援助をするほうが、子どもの学習がはかどり、学力が向上することは、否定できないのではないだろうか。
 具体的な宿題の形態が、親・教師の立場から書かれている文章が続くので、より具体的には、その文章で検討したい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です