神戸教師間いじめの起訴 「寛大」には疑問

 神戸新聞2020.3.122に、「教員間暴行の加害教員4人、なぜ起訴されなかった? 兵庫県警内でも意見割れる」という記事が載っている。昨年の教育界での事件として話題となった、教師が教師に継続的ないじめ行為をしていた事件で、警察内で扱いに関して意見が分かれ、「起訴猶予」を求める「寛大」という処分意見が付されて、送検されたようだ。刑事罰を課すべきであるという世間の意見が強かったが、「物的証拠が乏しい上に4人の加害の意識は薄く、2人は職を失った」というのが、その判断の根拠とされる。
 被害教員は、100項目にわたるハラスメント行為を訴えたが、加害教員は、「ふざけ合いの延長だった」と犯意を否定し、「動画以外の明らかな物的証拠がない」と立証の難しさをあげたとする。より厳しい措置を求める捜査員もいた。
 これに対して、逆といえる処分もあった。一般的に公務員が犯罪の疑いをもたれたとき、刑事処分が決定されるまでは、「推定無罪」が適用されて、実際の仕事を解かれることはあっても、正式な処分はくだされない。しかし、この事件では、処分を待たずに、懲戒処分がくだされている。それに対して、弁護士から不当であるとの申し入れもあった。
 つまり、司法レベルでは、多くの世間の目で見ると、「甘い」処分になりそうであるが、雇用現場では、通常の処分よりも、重い処分が早々にくだされている。このふたつの異例の扱いをどう見るか。
 それから気になるのは、このような事態を引き起こした場合、情報としてどのように事後的に活用されるのかという点がある。数年前のことだが、埼玉県の中学校で、ある臨時講師が部活の顧問としても評価され、教室での授業ぶりも人気があるので、保護者がどのような先生なのか、インターネットで調べたところ、かなり遠い県で、わいせつの疑いで免職になっていたことがわかり、騒ぎになって失職した事例がある。このとき、こうした不祥事を知らずに、再雇用してしまうことの是非が問題となった。神戸の当事者たちも、近隣では名前も知られているだろうが、遠い地域で、時間がたてば、わからない可能性がある。他方、一度不祥事を起こしたら、二度と同じ仕事には就けないようにすべきなのかも、議論の分かれるところだろう。
 さて、以上の点をどう考えるか。
 まず、「起訴すべきか」どうか、また警察の判断の妥当性について。
 私自身は、「厳重、起訴を求める」という意見をあげるべきだったと思う。
 「ふざけ合いの延長」という認識が、妥当とは思われない。「ふざけ合い」というのは、双方にふざける意識があったということだろうが、この事例では、報道されている限りでは、被害者は新人であり、当初から教師内の「スクールカースト」のようななかでの弱い立場であった。したがって「ふざけ合い」という、平等な関係での行為というニュアンスからは遠い気がする。「延長」だとしても、当初は「お互いに」ふざけあっていた関係がなければ成立しないが、この事例では、当初から被害者は、被害意識をもっていたと思われるし、何度もやめてほしいといっていたはずである。
 「動画以外のあきらかな物的証拠がない」というのも変だ。「動画は明らかな物的証拠」として認められているのではないか。他に、同僚や生徒の証言なども、多数あったはずである。検察は、物的証拠がひとつもなく、状況証拠だけで、重大犯罪を起訴することがある。
 さらに、「加害の意識が薄い」という点。聴取を進めるほど、被害教員と加害教員の意識のずれが明らかになったとされるが、それは、犯罪においては当たり前のことだろう。むしろ、加害者と被害者の認識が一致することなどありうるのだろうか。「ふざけ合いの延長」という意識のずれは、「相手もふざけあいとして許容している」対「これはいじめだからやめてくれ」という意識のずれのことだろう。こういうずれがあることが、「どまどい」の要因となり、犯意の否定になるのか、私には理解不能だ。認識のずれこそが、「犯意」の証拠なのではないだろうか。
 次に、刑事処分を待たずに、懲戒処分をした点についてはどうか。 
 これは処分をどのように考えるかによるのではないかと思われる。職務とはあまり関係なく、学校外で犯罪を行ったということであれば、有罪となって初めて懲戒処分がなされるべきであると思うが、この事件で問われているのは、あくまでも学校内で起きた、教師としてのあり方に、大きな疑義をいだかせる事態である。どう考えても、教師にあるまでき行為であるし、「いじめをしてはいけない」と子どもたちに教える立場、しかも、その担当者が、他の教師を執拗にいじめていたというのでは、子どもや保護者の信頼は完全に喪失してしまうから、教壇にたたせるわけにはいかないだろう。これは、刑事罰の結果とは無関係に判断すべきである。教師としての信用失墜行為そのものだから、厳格な処分がなされるべきだろうと考える。
 最後の問題は、この教師たちが再び教壇に立つことは決してあってはならないとして、そのための情報共有をする、採用試験そのものの受験資格がない、あるいは臨時講師への応募資格も認めないようにすべきなのか。
 私自身は、どんな人間も、やり直す機会を与えられるべきだと考えるので、(死刑容認論とは矛盾する面があるが、それは別に論じたい)当人が、本当に反省し、再度学習して、脱皮できるならば、やり直してよいと思うので、最低限、受験機会、応募機会を奪う必要はないと思われる。懲戒免職でも、法的には2年経てば、欠格条項は外されることになっている。しかし、教師は、一般公務員とは違って、やはり、人間性が問われる部分が大きい。上の埼玉の事例のように、「知らずに」採用することではなく、承知の上で、厳しい選考を通ることが求められるのは、仕方ない。
 日本は、戦争に敗れたとき、教師たちの多くは、深刻な状況に陥った。教師たちは、教え子に戦場にいって、闘ってこいと煽ったものが少なくなかったからである。そして、多くの若者が戦死した。程度の差はあるだろうが、真剣に反省して、新しい社会の担い手になろうと努力した教師も少なくなかったはずである。もちろん、それは偽善だという批判もある。しかし、やはり、人が変わるという可能性を認めなければ、教育という行為自体が成立しないのではなかろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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