チェリビダッケのリハーサル2

 「チェリビダッケのリハーサル1」を書いてから、いくつかチェリビダッケの演奏を聴いてみた。
 チェリビダッケはレコーディングをまったく許さなかったという点で、他に存在しない指揮者だった。レコーディングが嫌いな指揮者は、カルロス・クライバーなど他にもいる。しかし、クライバーは、CDでは12枚分の正規録音を残しているし、映像は、正規に許可したものもいくつかある。ただし、死後、自分のライブ録音を市販することを、厳格に禁じる遺言を残していたらしい。だから、私の知るかぎり、死後表れたライブ録音の製品化は、皆無ではないが、極めてわずかだ。「ばらの騎士」「椿姫」「ボツェック」などだろう。しかし、これらは、ファンから真っ先に望まれている音源とはいえないところが、不思議だ。クライバーファンが望んでいるのは、おそらく、バイロイトでの「トリスタンとイゾルデ」、ミラノでの「オテロ」と「ボエーム」などだろう。もちろん、いずれも鮮明な録音で残れされているはずである。とにかく、クライバーは生前は僅かだが、正規のレコーディングを残した。(しかし、晩年は演奏そのものをしなくなったし、セッション録音は、かなり早い時期からしないようになって、発売されるものはほとんどがライブ録音になった。)しかし、死後、録音されているライブを絶対に発売しないように禁止した。
 チェリビダッケは、生前、セッション録音を残すことは、まったくなかったが、放送用の録音は許し、放送もされた。ファンたちは、放送を録音して、繰り返し聴いていたようだ。しかし、チェリビダッケ自身の意図は、私は知らないのだが、チェリビダッケの死後、家族が、ライブ録音の発売を許可し、かなり多くのCDとDVDが市販されている。チェリビダッケ嫌いの私ですから、CDボックス4箱と、DVDボックス1つを所有している。
 かなり高齢まで現役を続けた指揮者は、途中で芸風が変わることは珍しいことではない。オットー・クレンペラーなどは、変わった最右翼だろう。マーラーの『復活』(交響曲2番)の最短記録と最長記録は、共にクレンペラーの演奏だそうだから、その変わりようがわかる。なにしろ、同じ交響曲なのに、40分も演奏時間が違う。それに対して、カラヤンやトスカニーニは、それほど大きな芸風の変化がない。カラヤンはなんども同一曲のレコーディングを繰り返したが、それは音楽的な考えが変化したからではなく、録音技術が進歩したからである。何か新しい録音技術が発明されるたびに、自分の主なレパートリーを再録音した。モノラル→ステレオ→デジタル→映像という具合である。
 おそらくチェリビダッケは、若いころと晩年の相違がもっとも大きな指揮者ではないだろうか。若いころの録音は、少ないが、前回のベルリン・フィルとの再開コンサートのリハーサルビデオには、何度も出てくるし、youtubeにいくつかある。そして、ベルリンを去って、ドイツやスウェーデンのオーケストラを指揮していた時代のものも、僅かながら映像をyoutubeで見ることができるし、先の死後発売のものにもいくつか収録されている。
 スウェーデンのオーケストラとの共演、ミケランジェリのピアノで、ベートーヴェンの「皇帝」の映像を見ることができる。これは、極めて普通のベートーヴェンだ。普通のベートーヴェンというのは、決してネガティブな評価ではなく、非常にポジティブな評価である。ベートーヴェンは、テンポや表情に独特な味付けなどはせずに、楽譜の通りに、渾身の力をこめて演奏するのが、もっともベートーヴェンらしくなるものだ。そういう意味で、チェリビダッケの指揮は、極めてまっとうで、むしろ、ミケランジェリが時々過剰なテンポの揺れをもたらす。しかし、この演奏では、チェリビダッケはピアノにきちんとあわせてついていく。おそらく、同じくらいの時期のドイツの南西ドイツ放送交響楽団(クライバーのこうもりのリハーラサルをしているオケ)とのリヒャルト・シュトラウス「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」も同様。
 しかし、明らかに晩年のミュンヘン・フィルとの演奏では、チェリビダッケの最大の特徴である遅いテンポが、ほとんどの曲で支配的になる。前回紹介したミュンヘン・フィルとのリハーサルには、ときどきインタビューが挟まっているのだが、そこで、チェリビダッケは作曲家について話す場面がある。最初は、バッハとモーツァルトとブルックナーが、何度演奏しても、新たな発見がある作曲家だが、他の作曲家は、5、6回演奏すれば、すべてが分かってしまうと語っている。そして、また別のときに、そこにハイドンが加わって、その4人が真の天才だったと語っているのだ。チェリビダッケにとっては、ベートーヴェンは、5、6回演奏すると、すべてが分かってしまう作曲家ということになるらしい。
 この4人の名前を頭にいれて、彼の演奏を聴くと、なるほどと思うのだ。
 モーツァルトのト短調(40番)の交響曲は、晩年のミュンヘンとの演奏なのに、テンポはちょっと遅めで、ワルターやベームと大差ない。ハイドンの「オックスフォード」も遅めではあるが、ハイドンらしい闊達さが感じられる。しかし、ベートーヴェンやチャイコフスキーなどは、本当に望んで演奏しているのかと疑問に思えてくる。たとえば、ベートーヴェンの「田園交響曲」。この曲のテンポは、指揮者によってかなり違うものだ。もっとも優れた演奏として、昔から典型的なものとして認められているワルターのは、楽譜に指定されている、「田舎についた爽快な気分」ぴったりの、うきうきしながら田園風景を歩いていくようなテンポだ。それに対して、速めで有名なカラヤンやクライバーは、まるで、スポーツカーで田舎にきて、さっそうと飛ばして通りすぎていく感じといわれる。それに対して、チェリビダッケの遅さは、まるで爽快な気分とはかけ離れている。何か憂鬱なことが身の回りで起こって、とぼとぼと田舎道を、景色も見ずに歩いていくという風情なのだ。「田園交響曲」の魅力を引き出しているとは、私には思えない。
 チャイコフスキーになると、嫌いなのかと思ってしまう。「ロメオとジュリエット」を聴いたが、この曲のもっとも魅力的な部分は、愛の主題が再現されるところで、弦楽合奏が陶酔的に愛のメロディーを歌いあげるところだが、この部分では、金管楽器ががんがんがなりたてるので、弦楽器の愛の主題がほとんどかき消されてしまう。チェリビダッケは、楽器間のバランスを精妙にとるという評価が定着しているのだが、この部分の楽器バランスは、まったく音楽を破壊しているようで、他には聴いたことがないものだ。ロメオとジュリエットは、ふたりの愛が、家の抗争でつぶされるという話だから、それを具現化したのだ、といえないことはないが、音楽的には、ここでは愛が盛り上がっている場面であることは間違いない。チャイコフスキーの5番と6番の交響曲の演奏にしても、私には、なにかいやいややっているような気がしてくるのだ。オーケストラでの演奏は、楽譜を一つ一つ構築して、関係性を創っていく作業だから、必然的にテンポは遅くなると語っているのだが、少なくとも、チャイコフスキーの遅い演奏を聴いていると、違うのではないかと思わざるをえない。そこをもう少し掘り下げてみたい。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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