教育学について考える2 自由と参加

 文科省が正式に、9月入学の見送りを決めたようだ。その流れは決まっていたようなものなので、特に驚かないが、日本教育学会の提言に対して感じたことと、同じような感じをもったことが、かつて一度あった。それは、学校選択制度に関することだった。
 私は、これまで何度か書いたように、1980年代にいじめによる自殺が多発したときに、教育制度として、このような悲劇をなくすことはできなくても、少なくするようなことは考えられないのかと考えて、学校選択制度に行き着いた。学校でのいじめに耐えられず、しかも、教職員がきちんと対応してくれないときには、容易に転校できるシステムであれば、自殺などしなくてすむし、また、学校を自由に選ぶことができれば、いじめ対策をきちんとしていない学校ではなく、何か問題には真剣に取り組んでいる学校を選べるわけだ。言いかげんにしていると、生徒が集まらないから、学校も真剣に取り組むだろうと考えたわけである。
 では、そういうシステムをもっている国はないのかと探したところ、オランダがまさしくそういう国だった。そこで、オランダの教育を調べることになったのだが、オランダでは、もちろんいじめは珍しくないが、いじめによって自殺するなどということは、まず起きないと、誰もがいう。家庭で親子が話し合う雰囲気が、日本よりはずっと強いということもあるが、やはり、学校を選んで入るために、信頼関係が強く、学校不信は極めて稀だ。不信感をもったら、他の学校に移ることになる。 “教育学について考える2 自由と参加” の続きを読む

スウェーデンのコロナ対策 高齢者の孤独

 6月4日の時事通信の記事には、以下のように書かれている。

「新型コロナウイルスへの対応でロックダウン(都市封鎖)を行わない独自路線を進んでいるスウェーデン政府の疫学者アンデシュ・テグネル博士は3日、地元ラジオのインタビューで「われわれの取った行動には明らかに改善すべき点がある」と述べ、反省の念を示した。地元メディアが報じた。」

 ただし、この記事では反省を示しており、これから新しく対策をとるならば、今の政策と、欧米がとっている政策の中間だろうと述べているだけで、具体的な反省点や代替の方法を示しているわけではない。中間というのは、日本のような強制力のない自粛要請だろうか。
 スウェーデンのロックダウンをしない対策は、集団免疫を目指していると説明されている。それは事実なのだろうが、更に日本ではあまり紹介されていない理由がある。それは、隔離政策は、高齢者に致命的な打撃を与えるから避けるべきだというものだ。 “スウェーデンのコロナ対策 高齢者の孤独” の続きを読む

道徳教育ノート 二人の弟子

 文科省の道徳教材の中学を見ていったら、とても気乗りがしないような教材が並んでいる。いかにも「道徳教材」というきれいごとの文章で、こんな教材で教えたら、間違いなく特定の道徳的価値観の押しつけになってしまう。そう思いつつ読み進めていって、「二人の弟子」という教材は、なんとか取り組む意欲が湧きそうなので、今回はこの「二人の弟子」を扱う。
 道徳教材には、歴史的な題材が少なくないが、多くが、時代やその背景を無視した文章になっている。おそらく、作者はいるのだろうが、それを教科書編集者が書き換えてしまうのだろう。道徳は時代的限定を受けない、普遍的な価値を教えるのだ、という立場もあるだろうが、時代が変われば道徳的価値が変化することも明らかなのだから、私自身は、やはり、教材である以上、その時代背景や事実を無視することは間違っていると思う。 “道徳教育ノート 二人の弟子” の続きを読む

無駄に気づいて改めよう 学校での起立して回答

 新型コロナウィルスは、様々な側面でこれまでの生活に対する反省を迫っている。今日6月2日のMSNに「飲食店関係者がコロナ禍で気づいた「無駄だった慣習」の数々」という文章が掲載されていて、なかなか面白い。BGMや、子連れNGルール(居酒屋)、全員での声だしなどがあがっている。BGMは、マスクをするようになると、声が届きにくくなり、うるさいと感じるようになった。居酒屋の子連れがだめというのは、常識的だが、テイクアウト方式がでてくると、家族で買いに来るので、断りにくくなったし、客を選べる状況ではない。全員の声だし(「いらっしゃいませー」とみなで大声をだす)は、そもそも大声での話は感染リスクだから、やめたのだが、客には喜ばれているという。 “無駄に気づいて改めよう 学校での起立して回答” の続きを読む

Law & Order 黒人の暴動

 主にニューヨークの犯罪を扱ったドラマだから、当然黒人問題が様々な観点から関わっている。そのなかで、現在起きているアメリカの騒動を考える上で、Law & Order の第4シリーズ19回目を紹介したい。こちらの暴動は、今起きている状況より、ずっとおとなしいが。
 二人の黒人の少年がバスケットのボールでドリブルをしながら、ハーレムの歩道を歩いている。後ろから知り合いと思われる黒人少年が走ってきて、ボールを奪い、しばらく進んであと、後方に大きく投げる。とられた一人が、ボールを追いかけ、車道に走り出て、丁度走ってきた車に轢かれて死亡する。轢いたのは、ユダヤ人のバーガーだったが、その場は逃げてしまう。そして、数時間後に弁護士を伴って自首する。
 ドラマをみている者は、たぶん防ぎようがない事故だったろうということと、逃げたのは何故という疑問をもつ。ベーガーは「ハーレムで黒人を轢いて、無事にいられるか?」と逆に刑事たちに問いかける。不可抗力の事故だったので、自分から警察にやってきたのだという。検事も起訴すべき事案ではないと考えるが、そのままに不起訴にするのもどうかと、大陪審(起訴すべきかどうかを、市民の審議にかける場)にかける。結果は不起訴となる。 “Law & Order 黒人の暴動” の続きを読む

Law & Order 死刑をめぐって

 アメリカは、日本とともに、先進国として死刑制度を残している例外的な国である。もっとも、多くの州は廃止しており、制度的に許容している場合でも、実際の死刑判決がほとんどでていないというところも多い。Law & Order は、ニューヨークを舞台としているが、1995年にパタキ知事によって再導入された。Law & Order は、第6シリーズにあたり、このシリーズでは死刑の話題がしばしば登場する。そして、実際に死刑判決がでるのが第3回で、死刑執行がなされるのが最後の第23回である。
 ある死体が発見されるが、それは潜入捜査官クロフトだった。死刑が再導入された時期だったので、警官が殺害されたとあって、刑事たちは必ず犯人を捕まえると意気込み、検察は最初の死刑適用事例にしようと考える。結局、犯人は、表は社会的地位が高く裕福な公認会計士のサンディグであり、家族と幸せな生活を営んでいるが、裏では、麻薬王の一人の手下で、公認会計士としての地位を利用して、資金洗浄に協力していた。それをクロフトに嗅ぎつかれて殺害したのだった。 “Law & Order 死刑をめぐって” の続きを読む

教育学について考える1

 9月入学問題での推移は、いろいろと考えさせるものがあるが、ひとつの驚きは、日本教育学会が、いわば迷っていた文科省や自民党に先駆けて、改革の反対を表明し、それに官庁と政府与党が追随したという成り行きである。これまで日本教育学会は、政府や文科省のやり方に批判的な声明を出すことが多かったが、今回は二重に逆になっている。与党や文科省に先立って見解をだしたこと、そして、双方が一致したことである。
 もうひとつ疑問であるのは、自粛要請がでていて、ほとんど外出できない状態で、学会の委員会は、どうやって意見集約をしたのだろうかということだ。政治家や官僚は「出勤」しているから、通常よりは不便かも知れないが、会議ができる。しかし、職場が違う研究者は、直接あって議論はできない。もちろん、オンライン会議がかなり普及してきたから、オンラインの会議をやったのだろう。それはよい。しかし、それだけインターネットを活用して会議をするのならば、学会所属メンバーに対して、意見を求めることだってできたはずである。もちろん、学会のメンバーである私に、そうした意見聴取はまったくなかった。学会事務局は、会員のメールアドレスを管理しているのだから、メールによるアンケートをするなり、あるいは、学会ホームページにアンケートページ、あるいは意見を書き込めるようにするなど(もちろんそのアナウンスは必要であるが)、いくらでも方法はあったはずである。簡単なアンケートでもよいのだ。厚労省は line を使って、健康状態の確認をしていた。最低限、学会のホームページに、意見があるものは申し出るようにとの措置はとれたはずである。

9月入学の実施はしない方向だが

 日本教育学会、文科省、自民党と立て続けに、9月入学の慎重論が出され、ほぼ実施されない方向が明確になったようだ。私は、橋下氏とはかなり考えが違うが、「断念だ」という思いは同じである。結局、ここに、日本社会で政治的、学問的リーダーシップを発揮している人たちの、思い切りの悪さ、現状改革への熱意のなさがよく表れている。私自身は、ずっと以前から、何度も9月入学にすべきであるという論を提起してきた。最初に書いたきっかけは、東大が9月入学計画を発表したことだった。すぐに同意した。しかし、そのときには、現実的に無理だろうと思っていた。というのは、9月入学に切り換えるのは、よほど大きな社会的契機がないと無理だからである。今回の新型コロナウィルスは、それこそ数十年に一度くるかどうかの、社会変革のきっかけとなるはずである。1990年代にヨーロッパに海外研修にいって、そこで生活してきた経験から、9月入学のほうがずっと合理的であると感じていたから、今回は絶好のチャンスであると考えたわけである。そして、充分に考えた末の結論でもあった。
 しかし、日本教育学会にしても、文科省にしても、自民党にしても、それぞれの立場で教育のあり方に、最も責任のある立場であるにもかかわらず、いかにもおざなりの検討しかせず、結局のところ、変えたら起きるだろうマイナスを強調して、4月入学や、3カ月休校だったマイナスの克服には、目をつぶってしまったのである。何度か書いたので、重複になる部分もあるが、これがおそらく当面最後なので、彼らの思考様式の問題を中心に考察しておきたい。 “9月入学の実施はしない方向だが” の続きを読む

東北大学で押印廃止 大学に無駄はたくさんある

 「東北大、学内手続の押印廃止へ 年8万時間の作業削減」という記事が掲載されている。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/東北大、学内手続きの押印廃止へ-年8万時間の作業削減/ar-BB14Jsjk?ocid=spartandhp)
 大学というところは、極めて非能率的な組織である。会議は月1で組まれているから、かなりの重大事件が発生しても、解決には2、3カ月かかる。通常はもっとかかり、改革をやろうと思えば、小さな改革でも2年くらいかかるのが普通である。教育機関は、あまり重大かつ緊急な問題は起きないから、それでとくに不便でもないという時代が続いた。しかし、少子化による全入時代に突入して以降、これまでのやり方を漫然とこなしているだけでは、大学としての存立そのものが危うくなりかねない状況になってきて、多くの大学は、大学独自の対応を進めていると思う。今回のコロナ問題で、こうした大学の非能率性は、かつてよりはずっと明確に浮き彫りになっている。会議にオンライン要素を取り入れていれば、以前だって問題対応能力はずっと高かった。私自身、なんどかそういう提案をしたことがあるのだが、必ず「会議は対面でやらなければだめだ」などという声が出て、実現しなかったのである。オンラインは、別にzoomのような会議システムを使う必要もなく、メーリングリストでも充分に機能する。いろいろなやり方があるのだ。オンライン会議も方法として採用されていれば、緊急事態が起きたときに、会議の日程が先でも、緊急会議を行うことができるわけだ。だから、解決が速やかになる。
 不幸中の幸いというか、コロナ問題で、ほとんどの大学がオンライン授業に踏み出し、会議のオンライン化を進めたようだ。これを単に、コロナ対策としてではなく、大学の作業の効率化として、日常的にシステム化すべきであろう。会議が対面でしか行えないと、緊急事態に関しては、解決を遅らせるか、あるいは、通常の手続を省略して、誰かに委任するかのどちらかしかない。対面以外のシステムを可能にしておけば、全員のコンセンサスを形成しつつ、速やかに対応することが可能になるのである。こうした認識が必要であろう。
 ついでに、私自身が経験した非能率的なことについて対応策を書いておこう。予め断っておくが、あくまでも能率の問題であって、正・不正の問題ではない “東北大学で押印廃止 大学に無駄はたくさんある” の続きを読む

民主主義を維持するコスト 京都アニメ放火犯の治療

 重度の火傷を負った京都アニメ放火犯を懸命に治療し、取り調べに耐えられる状況になったというニュースを知って、憂鬱な気分になった人も少なくないだろう。この容疑者、というより、現場で負傷していた現行犯なのだから、犯人であることが間違いないのだが、彼には確実な運命がまっていた。
 ひとつは、治療しなければ確実に死ぬということ。90%以上の激しい火傷は、まず助からないとされる。治療が成功したことも、かなり奇跡的であり、治療にあたった医療チームの高い技術と熱意があってのことである。
 もうひとつは、裁判にかけられれば、これまでの判例からみて、ほぼ確実に死刑になるだろうということだ。最高の医療を施さなければ確実に死ぬ犯罪者を、高額な税金と医療資源を使って治療し、裁判にかけて死刑にする。検察からすれば、動機を解明する必要があるということなのだろう。 “民主主義を維持するコスト 京都アニメ放火犯の治療” の続きを読む