マイナンバーの紐つけ議論が出ている。きっかけは、10万円の給付金支給で、マインバーカードを使用したところ、大混乱に陥ったことだった。それで、ひとつの銀行口座を紐つけしようという議論がでて、そのうち、金融機関の口座全部を紐つけしようという案もでている。普通であれば、10万円給付で、書類よりもマイナンバーカードを使うほうが手間がかかり、遅れてしまい、そしてとりやめざるをえなくなったという事態が生じれば、どこに問題があるのかを徹底的に究明して、そこを改善しようということになるのではないか。ところが、そんなことはあまりやった雰囲気がなく、直ぐに口座紐つけという案が出てくる。こういうのを「場当たり的対応」というのではないか。あるいは、ナオミ・クライン流に、「ショック療法」で、都合のいい悪巧みを、混乱を利用して実行しようということなのか。 “マイナンバーを弄ぶな” の続きを読む
投稿者: wakei
教育学を考える11 授業 斉藤喜博1
一斉授業そのものは決して避けることができないものではないが、とりあえず、多人数の子どもが同一教室に存在するというのは、国民教育制度では避けることができない。寺子屋のような個別指導方式も可能だから、一斉授業以外の教授方式もありうるが、私は優れた一斉授業こそが、最も効果的な授業であると確信している。しかし、それには教師の側に高度な技術、知識、情熱が必要である。また、高度な技術には達していなくても、高度な一斉授業を可能にするという目的で活動しているのが、TOSSである。TOSSはあとで考察するとして、今回は、最も優れた一斉授業の実践者であったと、私が考える斉藤喜博、次に安井俊夫の実践を考える。 “教育学を考える11 授業 斉藤喜博1” の続きを読む
教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ
これからは、教育の内容的なことを少しずつ考えていきたい。まず初めに「授業」について何回か。
授業について考えるとき、必ずやり玉にあがるのが、「一斉授業」だ。教師による一方通行の授業で、学習者の関心や理解度にかまわず、ただ知識を伝達するだけの授業。これを変えることが、授業改革の第一歩だというように非難される。もちろん、無味乾燥で、成果のあがらない一斉授業がたくさんあることは事実である。しかし、だから個別授業やグループ授業に変えれば、問題が解決するというわけではない。一斉授業は、必然的に生まれる方法だからだ。
昔でも今でも「王」やその子どもの教育は、個別教育である。もっとも優れた専門家であると思われる人から、家庭教師のように教わる。アレキサンダー大王の教師がアリストテレスであったことは、有名な歴史的事実である。今の日本でも、天皇への教育は、個人教授である。一緒に付き従って聞く者がいたとしても、正式に教わる者は天皇だけである。しかし、それは王や天皇だから可能なのであって、それが最も良い教育方法であるとしても、「国民教育制度」で実施できないことは疑いない。王の個人教授は、莫大な税金を使っているから可能なのである。一般の教育では、対費用効果を考えれば、教師一人に対して多数の生徒がいて、多数の生徒の親がその費用を負担する以外は、実現不可能である。費用が税金で賄われるシステムであったとしても、それは変わらない。だから、「学校」という場では、教師の数よりも、学生・生徒の数が断然多いのは、古今東西同じなのである。 “教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ” の続きを読む
教育学を考える9 多様性の保障とはどういう形なのか
「教育の自由」の概念は、到達点ではなく、出発点であると前回書いた。その問題を今回は扱う。『教育』の7月号に、森岡次郎氏の「『多様な学び』の『多様性』をめぐって」という論文が掲載されている。とても啓発される文章で、今回考えたい問題にフィットしている。
森岡氏は、若いころ専門学校で、教職のための授業をしていたとき、学生たちの意識を講義に集中させることは、ほとんどできなかったという経験を書いている。毎回プリントを作成し、具体的な内容を盛り込みつつ、彼らに関心をもってもらうよう努力したが、ほとんどの学生は興味を示さなかったのだが、ごくわずか、2,3名は毎回授業を熱心に聴き、レポートも優れていたという。結局「ほんの数人でも、この授業から何かを学んでくれる人がいれば良い。すべての学生にとって有意義な授業などできないのだから」と開き直ったそうだ。
同じクラスで哲学の授業を担当している教員と情報交換したところ、その教員も同じ悩みを抱えていたのだが、話を進めていくうちに、それぞれの授業で熱心な学生が、違う人であることがわかったという。また、別の事例として、森岡氏の学生時代の経験。氏にとって最もつまらない授業は数学で、教員は、授業中ほとんど黒板を向いて、数式を書き続けている。ときどき説明するのだが、小さい声でぼつぼつ言うので、聞き取れない。試験も難しい。氏は、現在のように授業評価システムがあれば、多くの学生から低評価を受けたろう、そして、その授業にはまったくホスピタリティがないと感じていたそうだ。しかし、あの授業が大学の講義のなかで一番面白い、最も知的に興奮する、と熱っぽく語る学生がいたので、不思議に感じたと書いている。 “教育学を考える9 多様性の保障とはどういう形なのか” の続きを読む
パトカーによる追跡はやめるべき 京都の事故で思う
毎日新聞(2020.6.21)によると、京都で、パトカーに追跡されたワゴン車が、交差点でタクシーにぶつかり、ぶつけられたタクシーが、はずみで交差点近くにいた自転車にぶつかった、という事故を報道している。私はずっと以前から、こうした事故が起きると、パトカーの追跡はやめるべきであると、ブログに書いてきた。アメリカでは、こうしたパトカーによる追跡が行われ、結局捕まえたというような報道が、映像とともに流される。まさか、日本でも負けないぞ、と警察が意気込んでいるわけではないだろうが、日本とアメリカは、道路事情が異なるので、日本でのパトカーによる追跡は非常に危険で、無関係な人を巻き込む可能性が非常に高いのだ。 “パトカーによる追跡はやめるべき 京都の事故で思う” の続きを読む
law & order 飲酒運転と植物人間へのレイプ
Law & Orderをみていると、日本とまったく法意識が逆ではないかと思うことがある。シリーズ8には、そう感じる例がふたつ続いた。
3人がひき逃げ事故にあって死亡した。犯人が捕まるのだが、犯人とその弁護士は、飲酒運転をしていたので、意識がなく、無実であると主張する。そして、飲酒の事実を認められれば、無罪が確定するかのようにドラマは進行する。たまたま担当した判事が、飲酒運転撲滅を強く意識しており、この裁判をそれに活用しようとする。しかし、検察としては、ここで法の矛盾に突き当たる。犯人は、飛行機で飲酒をして、そのまま運転し、ひき逃げをするのだが、検察は、飛行機内で世話をしたCAに聴取する。15杯くらい飲み、ぐでんぐでんに酔っていたことがわかる。検察は、それでは無罪になるというので、それを隠そうとする。判事とも険悪になったりするわけだ。最終的には、3人も轢いて殺してしまったことへの反省の気持ちを引き出し、取引をするのだが、このドラマをみて、日本人ならそもそも納得できないものを感じるだろう。
日本なら、飲酒運転で事故を起こせば、それだけで有罪だし、まして意識がないほど泥酔して、3人もひき逃げしたら、かなりの重罪になるはずである。酔っていたので意識がなく、故意ではないから無罪だ、などと思う人間はまずいないといえる。しかし、アメリカでは、無罪なのだろうか。まさか、法の規定を無視したドラマを作るはずもないのだから、なんとも不可思議だ。 “law & order 飲酒運転と植物人間へのレイプ” の続きを読む
『教育』を読む 2020.7月号 ナショナリズム・歴史・教育1
『教育』の7月号の特集は、「ナショナリズムと歴史と教育と」「もう一つの教育を求めて」というふたつの特集からなっている。今回は、前者の佐藤和夫「ナショナリズムを乗り越えるつながりの形成のために」を検討する。優れた論考だと思うが、出だしの素材のきり方に疑問を感じる。(従って前半のみの検討)
特集がナショナリズム、歴史、そして教育であり、佐藤論文もナショナリズムを乗り越えることを模索している。そしてまず、佐藤氏は、津久井やまゆり園で多数を殺傷した植松聖を俎上に乗せる。しかし、植松聖の起こした悲惨な事件は、ナショナリズムと関係しているのだろうか。
教育を生涯に渡る意味で使うなら別だが、ここで主要に問題になっている学校教育に関していえば、植松は決して、学校において虐げられたり、あるいは劣等感に苛まれたりしたような状況ではなかった。また、家庭においても一人っ子だった彼は、教師である父と漫画家である母に愛情豊かに育てられたと言われている。昔の彼を知る者は、とても優しかった印象をもっている。そして、父と同じように教師になるために、大学の免許取得できる課程に進んでいる。ここまでは、とりわけ問題行動も見られず、もし、初志貫徹して、教員採用試験を受ければ、大量採用時代だから合格して、普通の人生を歩んでいた可能性もある。(尤もその前に刺青に関心をもち、自分でもいれてしまったので不可能になっている。) “『教育』を読む 2020.7月号 ナショナリズム・歴史・教育1” の続きを読む
教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに
社会が発展すれば、様々な領域で多様性が展開する。戦後、日本人の人気スポーツは相撲と野球だったが、今や「国民的スポーツ」などというものが想定できないほどに、様々なスポーツが人気を誇っている。音楽も「歌謡曲」などと呼ばれたジャンルは、今や多くのジャンルに分化している。アルコール類も日本酒(それもほぼ一升瓶だった)とビールくらいだったが、今やワイン、ウィスキー、カクテル、サワー等々様々なアルコール類がスーパーマーケットに並んでいる。同じ種類でも、入れ物も多様な好みにあわせている。
そうした発展のなかで、教育に対する志向が多様でないはずがない。私自身は、結論的には単純素朴に、多様な教育を最大限可能にするのが「教育の自由」であり、それは積極的な意味があると考えている。しかし、残念ながら、そう考える人は、決して多くないし、専門家ほど制限的な発想をするように思われる。 “教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに” の続きを読む
教育学を考える7 教師の自由と立場性1
教育の自由にとって、教師が教える際の自由は、極めて重要かつ困難な問題である。日本における最大の論点のひとつである教科書検定をとってもわかる。教科書検定は、戦後一貫して問題であり続けているが、当初と現在とでは、問題の表れ方がかなり異なっている。
まず、学習指導要領が法的拘束力をもつと文部省に宣言され、そして、教科書検定が永久化・強化され、それに対して家永三郎氏が、教科書検定は検閲にあたり違憲であるとして、教科書訴訟を提起した。その訴訟は、30年続いたが、その最終盤から様相が変わってきた。適切な区分かどうかについては議論があるが、左翼が中心であった家永訴訟から、その後、検定に関わる文科省との軋轢は、むしろ右翼から提起されるようになり、昨年から今年始めの検定結果については、右派教科書が検定不合格となって、教科書検定への批判が右派から巻き起こっている。 “教育学を考える7 教師の自由と立場性1” の続きを読む
Law & Order どちらが殺したのか
第8シリーズ第4回は、非常に難しい、しかし興味深いテーマだった。
誕生日のプレゼントを贈るために、友人に安く売ってくれるように頼み、ニューヨークの夜の暗い場所で待ち合わせる。妻は夫と一緒にそこにいくのだが、嫌がり早く帰ろうというが、夫は、約束なので車から出ると、待ち伏せていたのは、「殺人をしてみたい」という若者で、いきなり車内にいた妻を撃って逃走する。夫は急いで病院に運ぶが、頭部を撃たれていて重体だ。車内には小さい女の子が乗っていて、帰宅したあと、両親が喧嘩していたと警察に告げる。誤解した警察は夫を逮捕するが、直ぐに誤認だったことがわかり、捜査の結果、若者3人の仕業だったことがわかる。最終的に、そのなかの一人が、殺人そのものに興味があって、撃ったことを突き止める。
助かることを期待していた夫に、脳死状態になったので、臓器提供をしてほしいという要請があり、夫はそれに応じる。
裁判が進行するなか、検察が、妻のカルテをみて奇妙なことに気づく。死亡時刻、死亡診断書を書いた医師、そして、臓器摘出の時間があいまいだった。そして、臓器摘出した時点では、まだ妻は生きていたのではないかと判断する。そして、それがやがて被告側にわかってしまうと、殺人罪を問えなくなるので、漏れる前に、司法取引に持ち込もうとするのだが、何かおかしいと感じた弁護士が、取引を拒否する。そして、証拠提出をせまり、検察が隠していたことを突き止め、殺人罪が成立しないことを主張する。 “Law & Order どちらが殺したのか” の続きを読む