原爆の日に考える 戦争を終わらせたのは原爆か 日米教師の認識の差

 ブログに、原爆関連で書いたことはないのだが、少し前に、中山京子氏の真珠湾攻撃をどう教えるかという、日米教師によるワークショップ報告に関する文章を書いたので、少し考えてみようと思った。(http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1705)
 もともとは真珠湾攻撃に関するワークショップだが、ヒロシマも話題になったそうだ。ヒロシマに関しては、当然だと思うが、日米の教師間の意見の相違が極めて大きかった。アメリカ人の教師は、戦争を終わらせたのが原爆投下であり、もし投下しなかったら、本土決戦になって、もっと悲惨な状況になっただろうというわけだ。残念ながら、日本人教師は、原爆の悲惨さを訴えるというレベルに留まったのかも知れない。

 しかし、原爆投下が、日本政府に対して、戦争終了の最後の決意をさせたというのは、歴史的には正しくないことは、既に明らかになっている。日程的な確認をしておくと、7月26日がポツダム宣言の発表。連合軍がポツダム宣言による降伏を、日本に要求。8月6日、広島に原爆投下。8日、ソ連が日本に対して戦線布告。9日。ソ連軍の満州侵攻。長崎に原爆投下。10日、御前会議で、「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾決定、連合国に連絡。
 この日程でもわかるように、7月の段階で、降伏勧告されており、それは事実上避けられないことは、天皇も政府もはっきり自覚していた。それを無視したのは、「国体護持」が不明だったからであり、この段階で天皇・政府が拘っていたのは、「国体」だったのである。そして、原爆とソ連参戦とが重なった。どちらがショックであったかは、日本が降伏を引き延ばした理由が「国体護持」なのだから、ソ連参戦であったことは、否定しようがない。そもそも、原爆投下によって、市民の命が大量に失われて、戦意喪失などということは、当時の政府からすれば、考えられないことだ。なぜならば、3月の東京大空襲で、首都が絨毯爆撃され、東京市内の9割が焼け野原になってしまった段階でも、政府は降伏をしなかったわけだ。そして、延々と日本中が爆撃されていたときにもそうだ。だから、広島の原爆投下などは、その一連の大きな被害としか思わなかったろうし、そもそも、細かな状況などは、伝わってこなかったに違いない。とにかく、大きな損害だったという認識はあったろう。だが、市民の被害が大きいから、戦争を終了させるという意識があったら、3月段階で降伏していたのである。そして、6日早朝の原爆投下から、7日まで全く反応しておらず、明らかにソ連参戦で重たい腰をあげている。
 ソ連の参戦は、「国体護持」の可能性を著しく小さくする。ソ連は、天皇の処刑も強硬に主張するに違いない。日本政府は、そういう恐怖心をもったはずである。ソ連の宣戦布告と実際の参戦という事態には、直ちに反応して、傷口を広げないうちに、降伏して、国体護持を死守しようという方向転換を図ったというのが、歴史的事実の示すところだろう。実際に、降伏が遅れ、ソ連軍が日本本土に上陸してきたら、戦後占領政策は大きく変化し、実際に天皇の戦争責任が問われていた可能性が高い。
 バートランド・ラッセルは、アメリカが原爆投下したのは、日本の降伏は目前になったが、ソ連の参戦の日程(ヤルタ会談等で約束していた。)も近づき、アメリカ主体の占領政策を実施するために、アメリカの行為によって日本が降伏したという事実をつくるために、あえて原爆投下したのだ、と説明していたことがある。これが、冷静な見方だろう。アメリカ人の人種差別的感覚も影響したかどうかは、私には断言できない。5月の段階でドイツは、完全に敗北しており、アメリカの原爆が実験によって完成したのが7月だから、当時投下対象は日本しかなかった。
 
 日米の歴史教育のための共同作業は、大いに賛成だし、両者の意見の相違はたくさんあるだろうが、それを突き合わせる作業は必要だろう。アメリカにとって、真珠湾であれば、日本にとって最大の課題は原爆投下である。その認識は、日米で完全にずれている。反しているというより、ずれている。従って、ずれている以上、それぞれの主張そのものを点検する必要がある。
・日本が降伏した理由。原爆投下か、そうでないか。
・原爆投下は、戦争だから許される行為か、戦争であっても許されない行為だったか。(化学兵器禁止条約)
・多くの市民を巻き込んで、甚大な被害をもたらしたことに、日米の政府はどのような対応をしたのか。特に、アメリカ政府が戦後継続的に行っている被爆者の健康調査をどう扱うべきか。(現在はデータは秘密だと思われる。)
・真珠湾への受け取りは、日米で全く異なっていたはずであり、現在でもそうだろう。
 
 ここからは、中山京子氏の『教育』文章についてとりあげたときに、自分に宿題とした『真珠湾を語る 歴史・記憶・教育』(東京大学出版会)を読んだので、そのごく簡単な感想をつけくわえたい。
 真珠湾をどう教えるかということを、日米の教師が共同のワークショップを行って、その後授業実践をするという試みの報告である。資金は、アメリカ側から出ているので、テーマ設定等アメリカの主導であることは仕方ないと思われる。読んで、一番強く感じたことは、日本側の教師たちが、どのような「歴史認識をもって」参加していることが、見えてこないのだ。ほんの少しだけ見えた部分は、新自由主義史観とか修正主義史観と言われるような立場が、あったかに書かれているが、それもよくわからない。日米にはずいぶんと認識の相違があり、そうした多様性に触れられたことがよかったと、多くの人が書いているのだが、日本側が示した認識については、ほとんど説明がない。ハワイで行われているので、記念館や、まだ生存している人がいるのでそのインタビューなどに関する「感想」「発見」は書かれてはいる。
 しかし、真珠湾といえば、アメリカ側にとっては、扱いやすい題材であるが、日本人がアメリカ人と接する際には、極めて微妙な要素にあふれている。当時、どの程度の人が、アメリカとの戦争などを望んでいたか。そもそも、アメリカと戦争して勝つと思った人は、よほどの軍国主義者だけだろう。長く続く日中戦争に倦んでいた人たちが多かった一方、国家総動員体制が進んでおり、否応なく、戦争に巻き込まれていった、そうした状況。また、政治を行っていた人たちが、なぜ、勝ち目のないアメリカとの戦争を回避できなかったのか。真珠湾攻撃に勝利したというニュースに沸き立った国民が、その後どのように、戦争にかかわっていったのか、そうした複雑な状況に対して、相手に解説できるだけの歴史認識をもたなければ、単にアメリカ的な見方に翻弄される可能性が高かったろうし、事実そうなっているように感じた。こうした取り組みを行った人の苦労は、十分に理解できるが、この報告書については、日本側の教師の事前準備が不足していたように思われるのが残念だ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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