感染者狩り 政治の反映と、モーニングショーの矛盾

 「感染者狩り」が話題になっている。感染者が出ると、その人の実名等を探り出して、ネットに公開し、様々な誹謗中傷を加える行為が、かなり横行しているというのだ。私自身は、その手のSNSをやっていないので、実際にそういう誹謗中傷をネットをみたことはないが、ニュースの画面には出てくるので、間違いないのだろう。今日の羽鳥モーニングショーでもこの問題を扱っていた。そして、前にも紹介された数値だと思うが、新型コロナウィルスに感染したのは、本人の責任だと思うという人の割合の各国比較がでていたが、日本はだんとつに多く、10%を越えており、アメリカは1%だというのだ。このことに関しては、前にも書いたが、多少この数値は割り引いて考える必要があると思う。そこらも踏まえて考えたことは以下の点である。
 感染者を出した店に、損害を与えるような行為、モーニングショーでは、店にコンクリートの塊を投げつけて、ガラスを派手に割ったり、あるいは、酷い電話をかけたり、誹謗中傷の投稿を繰り返すなどということは、「違法行為」であり、許されることではない。法的に取り締まるべきである。ただし、モーニングショーのコメンテーターが主張していることが、100%正しいかというと、それは疑問である。

 普段、感染予防については、こまめな手洗い、3密を避ける、人のいるところでは、マスクをする。ソーシャル・ディスタンスをとる、これらのことをすれば、感染はほぼ防げると、ずっと繰り返し説明している。逆にいえば、こうしたことを欠いてしまうと、感染リスクが高まるというわけだ。つまり、こうしたことをせずに、つまり、会食に出かけて、お酒を飲み、その勢いで大声で話していれば、感染する可能性が高まる。そういう状況で、感染した人は、私の感覚では、本人の責任になると思う。もちろん、それを責めるかどうかは、別問題だ。しかし、そういう会食をしているときに、みんな気をつけようよ、と誰かがいったにもかかわらず、「心配ない、俺たちは若いんだから、感染してもたいしたことないよ、楽しもうぜ」などという人がいて、それに同調した結果であるとすれば、何人かは責任が重いのではないだろうか。そういうことも含めて、感染は本人の責任は全くないというのは、普段のテレビでのコメントと矛盾することになるのではないか。(本人に全く責任がない場合は、もちろんいろいろあるだろう。満員電車で、たまたまとなりの人が、感染者で、マスクもせずにくしゃみを連発していて、顔を背けていても感染したということもあるかも知れない。また、病院感染などは、ほとんど本人に責任はないと思われる。)
 また、モーニングショーでは、感染者が出た家族の子どもを、保育園につれてこないでくれ、という話題が紹介されていた。とんでもないことだ、というようなニュアンスで語られていたと、私は感じたが、しかし、保育園側からすれば、ある程度仕方ない要請であるような気もするのだ。モーニングショーでは、徹底的にPCR検査を行い、陽性者は隔離すべき、それが安心の経済活動の保障だと主張していたのだから、感染者が出た家族は、当然濃厚接触者になるわけだから、直ちにPCR検査を受けて、結果がきちんと出るまで自宅待機か隔離というのが、その主張だったはず。それならば、保育園側の主張は、全面的でないにせよ、肯定されるはずだと思うのは、おかしいだろうか。もしかしたら、保育園につれてくる家族や当人は感染者かも知れない。そうして、保育園でクラスターが発生したこまる、と考えるのは、不自然ではないはずだ。
 感染者狩りとか、誹謗中傷とか、暴力という「違法行為」ではなく、感染したということは、どこかに原因があるのだから、それを冷静に分析して、どうしたらそれを避けることができるか、というような議論をしましょうというような方向をめざすべきだろう。
 誹謗中傷を受けてしまう人の、リスク管理も多少気になるところだ。もちろん、突然誹謗されたり、危害を加えられたりする場合は論外であるが、SNSに投稿して、たくさんの誹謗コメントを受けてしまうというのは、多少本人のリスク管理の甘さがあるようにも思う。もちろん、その人を責める気はないが、もう少し気をつけてネットを利用する必要があるのではないかと思うのだ。
 
 更に感じることは、こうした誹謗中傷や感染者狩りが横行しているとすれば、それは、政治の反映ではないかと、私には感じられてしまう。国の最高指導者が、似たようなことをずっとやってきたからだ。
 ひとつは、メディアに対する攻撃である。羽鳥モーニングショーも監視番組らしいが、かなり気をつけてるいるようなので、圧力人事には至っていないが、政権への批判的なコメントが目立つキャスターが下ろされた番組は、一つやふたつではない。ラジオですら、荒川強啓の番組そのものが消滅させられている。(真相は明確にされていないが、荒川強啓自身は、不本意に下ろされたニュアンスのことを語っていた。そして、この番組、かなりはっきりとした政権批判を繰り返していた。)つまり気に入らない番組は、裏から手を回して潰してしまう、もちろん、裏だから明確な証拠はないが、状況証拠はたくさんあるといえるだろう。
 政府に批判的な見解が公表されると、政府擁護の書き込みが、どっと現われて、批判者を批判する。それも建設的な批判ではなく、単に揶揄するようなものだ。これは、現政権が、こうした活用法を考え、そうした活動家を養成していると言われている。
 この気に入らない人物は潰してしまうという手法は、国政選挙でも発動される。首相を批判した議員を潰すために、新たな立候補者を無理に加えて、莫大な資金を提供して、当選させる。そして、批判した人は落選。これは、「独裁」以外の何物でもない。幸いというべきかわからないが、そうやって当選した人物が逮捕されているのが、民主主義がぎりぎりのところで機能していると思える面もある。
 以上のようなことは、もちろん、実際に現われている現象を帰納的に類推しているだけだが、多くの人が同じ見解を述べているから、まったくの見当外れでもないだろう。
 
 もっと建設的なことをきっちりできる政府ができ、国民をそうしたやり方を学んで、建設的な議論を日常的にできるようになる。そんなことは、空想なのだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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