教育学を考える5 選択と学びの主体性

 前回は多様性の重要性を論じた。多様性があれば、次にそのなかから自分の意志で選択できることが大切になる。多様性を認められても、自分の意志で選ぶことができなければ、多様性の意味がない。現在の日本の高校は、極めて不十分であるが、教育は多様である。その多様性は偏差値ごとにある程度振り分けられた生徒が集まるために、偏差値にあわせて教育が行われることから生じているに過ぎないのであるが。形式的には受験という選択をするのだが、競争に敗れた者は選択できないから、歪んだ選択というべきだろう。多様性と選択は、こうした歪んだ形ではなく、選択意志が最大限保障されるものでなければならない。
 では選択とは、単に権利としての形式的な概念なのだろうか。それとも、教育的価値をもつ概念なのだろうか。もちろん、選択は権利であり、それが出発点であるが、教育的価値をもつ。つまり、自分で選択できる能力を獲得することは、現代社会において重要なことといえる。
 教育学では「学習」という言葉を、「主体的な意志によって学ぶ行為」と考える。心理学でいう「行動変容」ではない。「教育」は、学習を促す行為と考えてもよいほど、「学習」こそが重要な概念である。勝田守一の名著は『能力と発達と学習』という表題である。今、文献の跡づけはできないのだが、当初生涯教育と言われた言葉が、生涯学習になっていくには、藤岡貞彦や佐藤一子らの提起があった。行政的にも、社会教育→生涯教育→生涯学習と担当局の名称が変遷していく。生涯学んでいくことが大事であり、生涯の観点から見ると、教育は学習の援助と考えるのが合理的なのである。 “教育学を考える5 選択と学びの主体性” の続きを読む

ジプシー男爵序曲の聴き比べ カラヤンとクライバー

 ヨハン・シュトラウスの「ジプシー男爵序曲」の聴き比べをしてみた。カラヤン2種とクライバー。いずれも、ライブの録画で、しかも、カラヤンの映像ソフトとしてめずらしい部類だが、ライブそのものなので、ヘンテコリンな楽器群の映像が一切ない。実際に、ライブ会場でカメラが撮ったものだ。今のライブ映像としては当たり前だが、カラヤンの映像のほとんどは、演奏はすべて後撮りか、ライブ映像でも部分を使用し、後で、指揮姿とか楽器群毎に撮ったりする。特定の日時のコンサートライブの映像は、カラヤンに関しては、今回紹介する以外では、ベルリンフィル100年記念演奏会の「英雄」、何度かのジルベスターコンサートくらいしかない。そして、共通することは、いずれのライブも非常に評価が高いという点である。生前の評価とは全く違って、カラヤンは録音よりもライブを重視する指揮者だったことがわかる。
 視聴したのは、
1983年、ベルリンフィル・ジルベスターコンサートのカラヤン指揮
1987年、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのカラヤン指揮
1992年、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのクライバー指揮
である。いずれも文句のつけようのない名演奏であって、比較するのも変な話だ。好き嫌いで選ぶものだろう。 “ジプシー男爵序曲の聴き比べ カラヤンとクライバー” の続きを読む

矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)

 矢内原の論を踏まえて、考えを発展させたい。
 日本国憲法の「信教の自由」条項は、私は順調に機能したと思う。しかし、かなり微妙な問題も起きている。
 戦後日本で起きた宗教に関係する最大の事件は、なんといってもオウム事件だろう。日本における戦後最大のテロ事件であるし、また、サリンを使ったという点で、世界でもそれまでに類のない事件であった。一宗教団体が、何故あのような事件を起こすことができたのか、人間としての問題と、財政的問題と両方の面でいまでも考えねばならない課題であり続けている。何故、優秀な人材が麻原のような人物に取り込まれ、あのような犯罪まで犯してしまったのかという問題は、多くの論者によって考察されてきたが、結局、真相は分からない。優秀な人物は悪いことをしないなどということは、歴史を見ても、全く成り立たない命題であるから、優秀な人材が取り込まれたこと自体は、不思議ではない。優秀な人材が社会的に適切に評価されるとも限らないことを考えれば、ある意味不遇を囲っていた人材が、才能を振るう場を与えられれば、そこにのめり込むことは、大いにありうることではないだろうか。たくさんの手記もあるが、個々の事例に関して、どのように取り込まれていったのかについては、正直あまり興味がないので、触れないことにする。私自身は、どうやって悪に入り込んでいったのかよりは、教育学者として、どのように困難を克服していったのか、その力をどうやって獲得したのかに関心がある。 “矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)” の続きを読む

矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む

 この著作(論文といったほうがよい、短いものだ)は、1948.5.25に英文で出版され、1949.4.15に日本語で日本太平洋問題調査会編『日本社会の根本問題』として出版されたなかに含まれていた。著者は、実際に、キリスト教徒及び植民政策学の専門家として、満州事変や日中戦争に対する正面からの批判を行ったために、東大教授の辞任に追い込まれたという、まさしく宗教と民主主義・国家という関係性を体験した人であり、この問題を論ずるのに、戦後間もなくという時期には、最も適した論客だったろう。(本著作は、矢内原忠雄全集18巻に入っている。) 
 まず最初に、国家と宗教の分離は近世民主主義国家の一大原則であって、数世紀にわたる闘争の結果勝ち取った「寛容の精神」の結晶であるとする。そして、ふたつの主要点がある。
1 国家はいかなる宗教にも、特別の援助を与えず、制限を加えない。国家はすべての宗教に中立である。
2 国家は国民に宗教を信じるかどうかに干渉してはならない。信じる・信じない、いかなる宗教を信じるかは個人の自由であり、国民の私事である。(p357)
 日本国憲法の国家と宗教の分離規定は、国際的にみてもかなり徹底しているもので、欧米諸国は、日本ほど国家と宗教の分離が明確ではない。北欧では、牧師に国家が給与を支払っている国があるし、欧米国家は、概して、キリスト教的風習を公的組織が行うことがある。また、キリスト教育の原理で国家が建設されていることを謳っている場合が少なくない。イギリスの王は、いまでもイギリス国教会の主である。 “矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む” の続きを読む

小池百合子氏の学歴詐称問題

 今日(6月10日)の新聞(毎日、朝日等)は、在日エジプト大使館が、小池百合子氏の卒業証書は正式のものであって、週刊誌等の記事は、カイロ大学への名誉棄損であるとする声明を発表したことを報じた。一応共同通信の配信とされる毎日新聞の記事の一部を引用する。

 「モハンマド・エルホシュト学長名の声明は「卒業証書はカイロ大の正式な手続きにより発行された」とし、日本のジャーナリストが証書の信ぴょう性に疑義を示したことは「大学と卒業生への名誉毀損で看過できない」としている。
 カイロ大広報担当者は電話取材に「小池氏はカイロ大を卒業している。議論の余地はない」と強調した。(共同)」

 小池氏のカイロ卒業問題は、本当にずいぶん前から折に触れ話題になっているが、今年に入って、まず黒木亮氏が、JBpressに何度も詳細な記事を書き、そして、最近、石井妙子氏の『女帝 小池百合子』という著書が出版されて話題になっている。更に追い打ちをかけるように週刊文春の記事である。 “小池百合子氏の学歴詐称問題” の続きを読む

教育学を考える4 教育の多様性の必要

 これまで、私は、教育の多様性を前提として論じてきた。現代社会においては、人が教育に求めるものは、同じではなく、多様であるという前提的認識がある。しかし、他方では、国民全員が、同水準の教育を保障される必要があるという考える人もいる。これからの教育では、どちらの考えに立って、学校のあり方を決めていくべきなのだろうか。
 教育のあり方、教育に期待することは、昔から多様だった。しかし、身分制社会においては、それは身分的に規定されていて、身分を離れて自由に選択できるものではなかった。江戸時代のように、社会の流動性が少しでもある時代になれば、自分の生活圏を離れて、別の社会に移動し、そこで新たな教育を受けることは可能であった。
 教育に同質性が意図的に追求されるようになったのは、近代社会であり、国民教育制度、つまり義務教育が制度として実現するようになってからである。義務教育は、徴兵制と補完的な関係であるから、国民意識の涵養という目的での同質性が、政府によって求められたのである。もちろん、国によって多少の相違はあるが、基本は同じと考えてよい。そうした同質的教育の上に、社会的分業に応じた多様な教育形態が上に乗っていくことになる。 “教育学を考える4 教育の多様性の必要” の続きを読む

9月入学に関する気になる論調について

 9月入学は見送りになったので、9月入学を主張するためではなく、この問題をめぐって表れた有名人の主張について、あまりに酷いとと思われるので、コメントしておこうと思う。
 まず6月3日付けのAERAdotであるが、「9月入学「首相肝いり」も迷走 賛成は現場を知らない政治家ばかり」と題する文章である。題名自体がいかにも不見識だが、内容はかつて「ミスター文部省」と言われた森脇研氏の発言を主体にしている。
 文章は、ある自民党幹部という人の発言の紹介から始まる。安倍首相は最初やる気がなかったが、腹心の下村氏が熱心なので、選択肢のひとつと言い出した。しかし、文科省幹部から、法改正だけで30から40必要、国会議員の休みがなくなる、と言われ、自民党・公明党のチームも見送りを言い出したので、安倍首相も投げ出したという内容である。しかし、下村、稲田、小池氏らは、なおやる気だとする。 “9月入学に関する気になる論調について” の続きを読む

無駄を省こう プロ野球 ブロックサインと応援

 私は野球少年だったので、大学院くらいまで野球をやっていた。もっとも野球部に入ったことはなく、草野球だったのだが。私の少年時代には、リトルリーグなどはなかったので、みんなまず草野球から入って、本格的にやるのは中学の野球部からが多かった。近くに駒沢球場があり、オリンピックの工事で廃止されるまでは、友達とよく見に行った。後楽園などもずいぶん見に行ったものだ。長島や王、金田の全盛時代である。野球場にいくのは、子どもが小学生くらいまでで、その後はぷっつり行かなくなってしまった。忙しくなったというのもあるが、球場での野球観戦が嫌になったこと、野球の試合時間が延びて、仕事が忙しくなると、自然に足が遠のいていったわけだ。
 スポーツが多様になったためでもあるが、野球の人気はかなり低下してきて、少子化も重なって、子どもたちの野球人口が非常に少なくなっているのだそうだ。一般的な意味での人気低下と、私の感覚が同じだとは思わないが、他人のことはわからないので、私が感じているプロ野球の魅力をなくしている要因と解決のいくつかを書いてみたい。 “無駄を省こう プロ野球 ブロックサインと応援” の続きを読む

マイナンバーカードの銀行口座紐付け

 マイナンバーカードを使って、オンラインで給付金を申請できるシステムが、逆に人手を使ったチェック作業のために、膨大な事務的な負担が生じて、中止する自治体が多かったようだ。それにこりて、もっと能率よくできるようにという理由で、銀行口座に紐つけしようという案が浮上している。私は素人なので、詳細はわからないが、むしろ素人として納得できるかどうかが重要であると思う。基本は、素人でも理解できることが大事だ。
 まず、マイナンバーシステム自体が、私にはとても不可解である。私はまだマイナンバーカードをもっていない。しかし、マイナンバーはもちろんある。申請したわけではなく、勝手に付与されたものだ。それは紙に書かれた状態だ。しかし、この紙とカードの違いが、私にはさっぱり分からない。番号が必要なときには、この紙をコピーして送ったり、あるいは実際に窓口で見せたりする。その場合には、カードは不要のようだ。いったいカードはどういうときに必要で、どういう風に便利なのか、ときどき話題にはなるが、要するに不可解なのだ。これまでカードがないから、手続きができなかったことはないのだから、不可欠というわけではないらしい。より便利だということで、オンライン申請を設定したら、大混乱になってしまった。確認のために、紙の書類と突き合わせてチェックするなどということは、カードレベルでのチェック機能が、機械化されていないということだろう。何のためのカードなのだろう。 “マイナンバーカードの銀行口座紐付け” の続きを読む

教育学について考える3 何故「自由」「参加」は行政にからめ捕られたのか

 前回は、「教育の自由」と「参加」が、戦後改革からしばらくの間、民間教育研究団体や「国民の教育権」論の立場の主要な概念であったにもかかわらず、反対の側、つまり、支配的勢力の側にからめ捕られてしまったことを指摘した。そして、今回は、なぜそういう敗退が起きたのかを考察する。
勤評闘争
 戦後の教育的対立のなかでも、勤評問題は最も大きな騒動のひとつであった。私は、学生時代に、大学紛争のあとでなされた改革の一環で開かれた「全学ゼミ」のなかで、この勤評問題をとりあげたことがある。ゼミの指導者は、石田雄教授で、このテーマの研究のために、1カ月以上、勤評闘争の舞台であった愛媛県の新聞を読むために、新聞研究所の地下に通って、当時の愛媛新聞をずっと読んだものだ。石田教授も、この発表を受けるための準備だろう、何冊もの勤評関係の本を読んでこられた。
 地方公務員法には、公務員の勤務評定をすることが、明記されている。だから、勤務評定をすること自体は、法的に必要であるのだが、誰もが容易にわかるように、教師の勤務を評価して、昇給や昇格に活用することは、極めて難しい。だから、今でも、教師の評価方法に関しては、コンセンサスはないといってよい。当時は、実際上、教師は勤務評定の対象にはなっていなかったのである。 “教育学について考える3 何故「自由」「参加」は行政にからめ捕られたのか” の続きを読む