文科省の道徳教育資料の教材に「二通の手紙」という文章がある。これは、「権利と義務」「社会のルール」の大切さを学ぶという教材のようだ。毎回の断りだが、これは、この教材をどのように教えるかという考察ではなく、大人として、まずこの教材を読んで考えることについて書く。
動物園の入場管理をしている二人の会話から始まる。高校生らしい二人ずれが、ほんの少し入園終了時間を超えた時点で、入場券を買おうとして、少しだからいいじゃないかという、たぶん若い山田と、だめだという年配の佐々木が言い争っているわけだ。そして、佐々木が、高校生に、「規則上いれるわけにはいきません」と断ると、高校生は不服な顔をしながらも、去っていった。そして、納得がいかない山田に、佐々木が若いころの体験を話す。
定年間際に妻を亡くした元さんが、仕事ぶりをかわれて退職後に引き続き働くことができるようになる。毎日、小学3年くらいの女の子と、3,4歳の弟が、動物園のなかを覗いている。そんなある日、入園終了時刻を過ぎて、入り口を閉めようとしていると、その二人がやってきて、いれてとせがむのだが、元さんは、子どもたちに、「もう終わりだよ。それに、ここは、小さい子はおちうの人が一緒じゃないと入れないんだ」と断る。しかし、女の子が「今日は弟の誕生日だから、見せてやりたかった」と泣きださんばかりになったので、特別にいれてあげた。
ところが、閉館時間になって、客が帰ったのに、その子たちは出てこない。職員をあげて探すことになり、一時間もたって、園内の雑木林の池で遊んでいるところを発見した。その後、二通の手紙を受け取ったというのが、この文の表題になっている。 “文科省道徳教「二通の手紙」” の続きを読む
投稿者: wakei
Law & Order リアルタイム番組のでのトラブル 誰の責任か
テラスハウスの番組の内容で誹謗中傷を受けた出演者の中村花さんが自殺した事件は、記憶に新しい。私自身は、この手の番組を見ないので、番組にかかわることはわからないが、その後のSNS上の誹謗中傷については、関心があり、ブログに既に書いた。ただ、この事件の問題には、番組そのものの「やらせ」要素もずいぶんと議論になっているようだ。台本はなく、ごく自然に起きていることをカメラが追う、というふれこみだが、台本があるのではないか、台本ではなくとも、何らかの指示があるのではないか、しかも、対立を煽るような指示があるのではないか、というようなことが、多くの人に疑念として抱かれているのだろう。もし、これが、アメリカで起きた事件ならば、何らかの裁判になった可能性がある。もちろん、日本でも今後、何らかの提訴もありうるのだが。
Law & Order をずっと見ているのだが、そのなかに、まさしくリアルタイム番組を扱ったテーマがあった。2000年に放映されたシリーズ11の15回目「特別エピソード」である。当時、アメリカでもリアルタイム番組が、いろいろと議論になっていたのだろう。内容は以下の通りだ。 “Law & Order リアルタイム番組のでのトラブル 誰の責任か” の続きを読む
事前の訴えがあったのに放置して刺殺事件が
共同通信2020.7.3によると、名古屋氏で会社員が刺された事件で、刺した犯人が、事前に警察に電話していたのだという。「いらいらして人を刺したい」と電話して、応対した署員が「切迫した問題はない」と判断して、人身安全対策を担当する生活安全課や県警本部に報告しなかったという。そして、県警への取材に対して「被害者が亡くなったのは残念だが、対応に問題はなかった」としていると書かれている。
電話が事前にあり、なんら対応をしなかったために、被害が起きたのだから、「対応は多いに問題があった」とほとんどの人は考えるだろうし、アメリカならば、被害者が確実に警察署を訴えるだろう。こうした被害を訴えない日本人の感覚が、問題ある警察の行動を放置していると、私は考える。最も頻繁におきるのは、パトカーに追跡された車が第三者を巻き込んだ事故を起こすことだ。その場合には、最も悪いのは逃げた車の運転手であるが、不用意に追跡すれば、事故が起き、死傷者がでることはかなりの確度でいえることだ。実際に、そうした事故が頻繁に起きているのだから。この場合でも、巻き込まれた被害者が、警察を訴えることはあるのだろうか。少なくとも、そうした報道はない。 “事前の訴えがあったのに放置して刺殺事件が” の続きを読む
カルロス・クライバー雑感
本日はちょっと気楽に、カルロス・クライバーに関することを。
これまでオーケストラ演奏の映像でもっていないものがけっこうあって、アメリカ発売で安いものがあったので購入した。これで、CDとDVDで、正規に録音・録画されたものは全部そろった。海賊版を購入する趣味はないので、そもそも海賊版をほとんどもっていないが、クライバーでは、シカゴを振ったベートーヴェンの5番がある。しかし、これはとてつもなく音が悪く、明らかに聴衆が密かに座席で録音したものだろう。これに懲りて、いくらクライバーでも、他に正規以外の録音を購入することはなかった。
クライバーという指揮者は、ほんとうにいろいろなことを論じたい要素に満ちた存在だ。彼に関して、不思議な現象は、枚挙に暇がない。ファンなら常識になっていることだが。
何故、自ら父親の反対を押し切って指揮者になったにもかかわらず、指揮をしたがらなくなったのか。父親よりも、誰もが高い才能を認め、父の演奏よりも優れていると、両方聴いたことがある人が述べているのに、父親には遠く及ばないと言い続けたのか。 “カルロス・クライバー雑感” の続きを読む
教育学を考える13 安井俊夫の授業論
安井俊夫氏は、戦後の中学社会科教師として、最も優れた一人である。率直にいえば、「一人」という言葉もいらない。単に授業が素晴らしかったというだけではなく、特に歴史教育では、画期的な方法を提起したと思う。
私が、安井俊夫という名前を聞いたのは、まだ大学に就職できず、生活と研究にも役に立つということで、家庭塾をやっていたときだった。私が住んでいたとなりの通学区の教師だったのだが、そこの生徒が何人か来ていて、盛んに安井先生の素晴らしさを語ってくれたのである。とにかく授業が楽しいというのだが、私が特に印象的だったのは、学年に二人の社会の先生がいて、定期試験の問題を交互に作成するのだが、もう一人の先生が作成した問題であっても、常に安井先生のクラスの平均点が10点近く高くなるということだった。引き込まれるような楽しい授業というだけではなく、試験でいい成績をとれるというのだから、優れた教師であることに疑いはない。それから、できるだけ安井氏の実践記録の著作を読むようにした。大学に勤めるようになって、安井氏の授業を撮影したビデオ映像も数本あるので、すべて入手して、何度もみたし、また、学生にも見せた。安井氏の授業は、実践するのはかなり難しいと思うが、斉藤喜博のような「名人芸」的な雰囲気ではない。相当な勉強をして、授業の構想を何度も練り直すような準備が必要だが、経験の蓄積と情熱があれば、可能な授業方法であると思う。 “教育学を考える13 安井俊夫の授業論” の続きを読む
感染は自己責任と考える割合が日本人は高いという(続き)
昨日の文章に、なんとなく不十分な感じが残ったので、続けて考えていた。そして、「自然災害」に関する感じ方の相違があるのではないかと思い至った。日本人の一般的な感性のなかに、日常生活のなかではあまり争わない傾向があるとか、諦めの感情が強いなどという性質があるように思うのだが、それは、自然災害の多さに由来していると思う。日本ほど、多数の種類の自然災害に見舞われる国はあまりないといえるだろう。台風、地震、津波、大雨、大雪、冷害、火山爆発、干ばつ等々。これらのいくつかをもつ国はいくらでもあるが、全部に見舞われる国は、あまりないだろう。日本人の歴史は、自然災害との闘いの歴史でもある。中国や朝鮮半島のような「戦闘」の時代が少ないのは、主な闘いの対象が人ではなく、自然だったからといえる。 “感染は自己責任と考える割合が日本人は高いという(続き)” の続きを読む
感染は自己責任と考える割合が日本人は高いというが
7月29日の読売新聞に、興味深い記事が掲載されている。「新型コロナウイルスに感染するのは本人が悪い」という記事で、三浦麻子大阪大教授の調査によるという。3月から4月にかけて、日本、米国、英国、イタリア、中国で、インターネットによる調査で、「感染する人は自業自得だと思うか」との質問に、「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常そうに思う」のいずれかを選んだのが、米国1%、英国1.49%、イタリア2.51%、中国4.83%に対して、日本は11.5%だったという。それに対して、「全く思わない」というのが、日本以外は、60%から70%台だったが、日本は29.25%だったという。
この数字を受けて、被害者なのに過剰に責められる傾向が強いと指摘し、国内で感染者が非難されたり、差別されたりする可能性を指摘している。 “感染は自己責任と考える割合が日本人は高いというが” の続きを読む
『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3
いよいよ、ナショナリズムと能力主義を超える方法を探る部分になった。ナショナリズムは、国民に一定の居場所を提供するが、余裕がなくなると、容易に排外主義に転化してしまう。そうならないために、どのような原則が必要か。
佐藤氏は、まず、能力主義を乗り越える原理を探る。氏は次のように述べる。
「学校教育がその子ども一人ひとりの得意なことを見つけさせ、その能力を活かし発揮させるように導きその子たちに生きる自身をもたせることこそが、教育の原点ではないのか。そうした能力形成を軽視し、受験競争のための知識獲得だけに駆り立てることが、どれほど重要だというのであろう。」
そうした具体例として、電気製品の修理の技術をもっている、歌や踊りにみんなが驚嘆する、料理や大工がとてもてきぱきとできる、そういう生活能力が、学校教育をきっかけに発揮されるようになることを期待する。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3” の続きを読む
教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2
斉藤喜博とクライアント中心主義のロジャースとを比較する研究がある。非常に説得力がある議論なので、参考にしつつ、斉藤喜博の授業論を進めたい。(若原直樹「斎藤喜博『わたしの授業』の一つの読み方--斎藤喜博のカウンセリング・マインド」『北海道教育大学紀要(第一部C第46巻2号』)
ロジャース理論の根幹は、クライアントとの信頼関係を作ることと、クライアント自身のなかにある回復力を信頼して、それを引き出すことによって、問題を解決することである。ロジャースは、そのプロセスを7段階にわけているが、それは省略し、ポイントだけ確認して、斉藤喜博の検討に行こう。まず信頼関係を築くために最も重要なのは、「一致」とされる。つまり、セラピストが、本当の「自分」をクライアントに対して示すということだ。私自身は、カウンセリングをしたことがないので、正確なところはわからないが、カウンセリングに訪れる人は、当然心に問題をもっている。セラピストはそれを解決してあげるという、一段高いところに自身をおきがちである。だから、信頼関係を築くために、「あなたを信頼している」という態度を示しても、どこかで、「この人は、こんな弱点があるから、今の問題が発生しているのだ」というような、ある意味探るような視線を投げつけかねない。そうすると、心で思っている本当の自分と、クライアントに示す姿にずれが生じる。つまり「一致」が崩れるわけである。こうならないように、「一致」させる必要がある。そうでないと、信頼関係は築けないというのが、ロジャースの考えである。 “教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2” の続きを読む
『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2
前回は、津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に関する佐藤氏の分析に、多少の疑問を呈した。今回は、そこを引き継ぎつつ、次の部分に進みたい。
植松は、「経済発展に寄与しない人間は存在理由がない」ということで、殺傷事件を起こしたとされるが、それに対して、佐藤氏は、それが本当なら21世紀は恐ろしい世紀であるとして、そうした観念を生みだした「能力主義とナショナリズム」の批判に進むのだが、私は、そこで一歩留まりたい。もちろん、「経済発展に寄与しない人間」も完全に存在理由があるし、生存権が保障されるべきである。しかし、そのような確認で済ますことができない問題であるとも感じるのである。それは、私がオランダにいたときの経験から考えることだ。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2” の続きを読む