経産省の未来の教育イメージ2

 昨日、経産省の提言を積極的に評価できるとしたが、しかし、日本の教育体系のなかに実現するためには、大きな困難があるとした。今日は、その点を中心に論じたい。
 第一に、この提言は、教育の多様化を主張している。多様化といっても、文部省が1960年代から押し進めようとした「多様化政策」は、普通高校ではなく、就職する高校生のための職業学校を増設するものだったが、経産省の多様化は、それとは異なっている。通常の学校が、様々な教育理念や実情をもつことになる。そうすると、当然子どもたちは、その異なる学校を選択できなければならない。義務教育の通学指定制度は、各学校の教育の質が一定で揃っているという「前提条件」があるから成立している制度である。教育の質が、明らかに異なって、まったく違う教育が行われているのに、通学する学校が指定されるというのは、理屈が成り立たない。オランダの学校制度は、学校の教育は多種多様で、子どもは選択の自由がある。
 アメリカのチャーター・スクールのような方式もありうる。チャーター・スクールは、公立学校ではあるが、特別の教育内容と方法を承認(5年ごとに再審査)された学校で、通学区指定がなく、誰でも入れる選択自由な学校である。ちなみに、日本の経済特区制度での特別な教育の学校承認は、チャーター・スクールを参考にしたものだが、チャーター・スクールが公費運営であるのに対して、公費は0である。チャーター・スクール方式であれば、文科省は学習指導要領を堅持したまま、自由な学校を外枠として認める形になり、文科省としても許容範囲かも知れない。しかし、チャーター・スクールを参考にした経済特区制度で、公費助成すら認めなかったということは、このようなスタイルの教育の自由と公費教育との結合形態を、文科省は認めたくないのだろう。
 第二は格差の問題だ。こうした改革は格差をひろげるという批判がつきものだ。

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経産省の未来の教育イメージ1

 コロナ禍においてICT活用への風向きが大きく変化し、オンライン教育もすべてではないが実施されるようになり、経産省の教育改革案や文科省のGIGAスクール構想などが、賛否両論の立場から見直されるようになってきた。私自身、以前から「未来の教育」を研究テーマのひとつにしてきたので、再度経産省の「未来の教室のEdTech研究会」の提言を読み直してみた。文科省のGIGAスクール構想よりは、ずっと大胆な発想を示しており、興味深い内容になっている。しかし、実際に学校の管轄は文科省だから、実現の可能性は、少なくとも近未来的には低いとも思われる。
 
 まず、日本の教育の間違いに関する提言の認識を確認しておこう。
 提言によれば、「まず勉強、問いそのものを疑わない」という姿勢、「秩序を創るのではなく、適合させる」態度、「浅く広くの基礎で応用ができる」という考え、「学びの生産性、目的と手段の一致という視点の弱さ」があるという。何故そのような事態が起きてしまったのかという原因を無視すれば、この指摘は間違っていないといえるだろう。しかし、そうなっているには、理由がある。それを無視しては、改革は不可能なはずだ。
 「まず勉強」といって、問われていることを疑わないのは、現在の教育が、受験によって支配され、「正解主義」にならざるをえないからだ。そういう入試が行われているから、問いと正解について疑いをもつような勉強をしない。もちろん、すべての子どもたちが、そうだと決め付けるのはまちがいだが、入試のあり方、あるいは入試そのものを変革することなしに、この勉強の姿勢を変えることはできない。最後のほうで、入試を改めると提言しているが、具体策はまったく触れていないのが残念だ。

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東京福祉大学の総長人事

 東京福祉大学の総長人事が話題になっている。10年前に、猥褻罪で有罪になった人物が、実刑を受け、10年経過したので、法的に復職可能ということで、総長に復帰したという人事だ。単なる猥褻罪ではなく、総長としての地位を利用している点が、更に問題となる。調べれば調べるほど、問題の大きな大学だ。
 この話題の人物、中島恒雄という人は、江戸時代の商人として有名な茶屋家の子孫で、いろいろな学園を創設し、東京福祉大学の創設者でもある。学習院大学を卒業し、小室圭で日本でも話題となっているフォーダム大学の大学院で教育学博士を取得したとウィキペディアに書かれている。この経歴をみると、今回の復職の理由がなんとなく感じられる。つまり、東京福祉大学は、この中島氏が創った大学であり、そういう意味で絶大な権力をもっているということだろう。人物識見が優れていて、他に代わる者がいない、などという説明がなされているようだが、創立者であること以外の理由は、眉唾だといえるだろう。
 総長の地位を利用して猥褻をする人間のどこが、人物識見が優れているといえるのか。
 この大学の問題は多岐にわたる。

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安倍前首相の証人喚問を

 安倍前首相の桜問題の説明が、いよいよ焦点になってきた。民主主義が徹底している国であれば、あのような嘘をつき続けること自体が無理だったろうが、一年間も嘘を通してしまう、そしてそれを許してしまう状況がまず問題だと思うが、それでも、嘘をついていたことは既に明確になったわけだから、説明が必要であることは、どんなに安倍氏に近い人でも認めざるをえなくなっている。
 しかし、これは多くの人が述べているように、安倍ラインと菅・二階ラインの権力闘争であり、その結果は、どちらが勝利したことを意味する。
 最初の権力闘争は、安倍氏が元気であることをアピールしたことだと、私は理解している。安倍氏が首相をやめたのは、一部メディアなどは病気の悪化のためだとしているのが、どう考えても、政治がうまくいかないことにやる気をなくした安倍氏が、政権を放り出したわけだ。第一次内閣のときも、本当の理由はそうだった。病気は後付けのように言われただけだ。今回は、安倍内閣のコロナ対策は、ほんとうに酷かった。そして、大きな非難に晒された。こういうときに、あくまで頑張るという良識と能力がない人物だから、案の定政権を放り出して、菅氏に後始末を押しつけた。もちろん、権力奪取に意欲的だった菅氏は、幸いとばかり権力を手にしたが、その後、安倍氏が元気になり、3選もありだ、などというアピールをしたのが、菅氏には受けいれらないものだったに違いない。それで、反撃に出たのが、桜問題の暴露だろう。そこで、安倍およびその側近たちが、3選を完全に諦めれば、進展は違ったのだろうが、むしろ、菅氏の支持率低下傾向か出て、反撃に出ているのが現状だと理解する。不起訴決定や非公開での説明などという路線でいけば、安倍氏の勝利であり、菅氏の痛手となるだろう。菅内閣にも安倍派はおり、上川法相と不起訴の関係はどうなのだろうなどと考えてしまう。

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CMの効果 どのようにして購入に至るか

 東洋経済「投資対効果を測れるテレビCM新時代の幕開け」によると、インターネット広告がテレビCMを超えた。それは、インターネットでの広告は、効果測定が詳細に可能であるのに対して、テレビのほうは無理だったからだが、現在では、テレビでもCM効果が測れる手法が開発され、それによると、動画で比較すると、テレビのほうがインターネットよりも5倍も効率的だということがわかってきたのだそうだ。それで、広告を送る側ではなく、受ける側として、CMについて、考えてみたいと思った。あまり物を買わなくなった世代としての話になってしまうが。
 
 もちろん人によって異なるだろうが、ある商品を買うときには、どういう経過で選択をするのだろうか。ほしいものが先にある場合と、別にそうではなく、何かをみて、これが欲しいと思いつくこともあるだろう。それがCMの場合もありうる。私の場合には、ほとんどが、まずこういうものが欲しいという必要性を感じる。だから、ネットでどのような製品があるのかを調べ、そして、アマゾンなどを見ることが多い。

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日本滞在のベトナム人の苦境

 アルバイト募集やアパートを借りるなどで、ベトナム人お断りが増えているそうだ。特に、豚の大量窃盗のあと、ベトナム人が豚を解体していて逮捕されたという報道によって、増幅したらしい。私自身、数年前から、日本に滞在するベトナム人による犯罪が目立つことが気になっていた。私のイメージでは、ベトナム人は概してまじめな人たちが多いというものだったからだ。なんといっても、私たちの世代は、青年期にベトナム戦争が進行しており、あのアメリカの不当な侵略戦争に屈せず、断固として闘い抜いたベトナム人の印象がある。アメリカがベトナム戦争に敗北し、撤退したあと、南ベトナムの住民が大量に、ボートピープルと化し、各地に亡命していった。そして、日本も大量のベトナム難民を受け入れたわけだ。日本がこうした大量の外国人の難民を受け入れたのは、初めてのことだった。ベトナム人は日本社会に溶けこんでいったと思っている。
 そして、ベトナム人による犯罪の増加だ。何故だろうと、ずっと疑問に思っていた。豚の窃盗事件があったとき、ベトナム人かも知れないと思ったのは、私だけではないだろう。そして、解体して食べたというベトナム人の逮捕だ。実際に盗んだ犯人ではなかったようだが、ベトナム人コミュニティのなかで、盗品が売られていたと報道されている。(産経新聞2020.12.20)

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クライバーの「カルメン」の音

 カルロス・クライバーのカルメンのDVDは、カルメンの代表的な名盤のひとつだ。しかし、以前からずっと問題になっていることがある。それは、「音」である。とにかくあまりに音が酷いという評価が定着している。私自身は、そんなに酷い音だとは思っていない。あの音は、オーケストラピットのなかで聞こえるような音に近いのだ。だから、オンマイクで拾った音をそのまま記録したような音だ。私は、市民オケをやっていて、練習会場や舞台で聞こえる音に近いので、特に違和感はないのだが、あのような生の音が商品としての「録音」として登場するのは、めずらしい。
 もうひとつの不思議な現象だと思っていたのは、あの映像は、日本では最初にNHKのBSで放映されたと記憶する。私もそうだったが、VHSのテープに録画して楽しんだものだ。この放送で、クライバーの人気は日本で一気に高まった。そして、このテープは何度も見直した。そして、そのときには、非常に自然な、つまり、ウィーンフィルの録音として聞き慣れた、つまり、デッカの録音で聞き慣れた音に聞こえていた。それが、DVDの登場で、まったく違う響きがしていたので驚いたわけだ。NHKの放送を知らない人は、DVDで初めて知ったわけだから、確かに、酷い音に聞こえたに違いない。このカルメンの市販されたものは、日本ではクライバーの死後に現れたので、そのころに出ている通常の録音や録画と比較すると、とてもいい録音とは言い難いのだ。実は、NHKとDVDの間に、CSのクラシカ・ジャパンでの放映もあり、それも録画したのだが、その音は、あまり印象がないのだ。NHKに近かったような記憶があるのだが、あまり意識しなかった。とにかく、DVDが出たときにびっくりしたわけだ。どうして同じ音源のはずなのに、これほどまでに違うのか、ずっと不思議に思っていたのだが、これが最近、原因がわかった。

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youtubeと表現の自由

 最近youtubeを見ていくと、閉鎖されたと述べているのが多い。閉鎖されたというのに、何故見られるのかがよく分からないのだが、武田邦彦氏もさかんに閉鎖されたと語っている。確かに最近の武田氏のyoutubeは、顔が写っていない。しかし、声は明らかに武田氏のものだから、違うアカウントをとったということなのか。あるいは過去のものが消されたということなのか。私はyoutubeを自分ではやっていないので、詳細はわからないのだが、武田氏がさかんに表現の自由の問題として取り上げているので、疑問を呈しておきたい。
 武田氏の攻撃はふたつの対象があり、ひとつは、閉鎖したということに対して、そして、それに抗議をしていないというリベラルに対してである。私が見たときの武田氏のyoutubeは、ほとんどがリベラルに対して向けられていた。つまり、普段表現の自由を主張しているくせに、こうしたyoutubeへの弾圧に対して何も言わないのか、おかしいではないかということだ。何故、そうした批判がリベラルに対してだけ向けられ、保守派やネトウヨたちには向けられないのか、理解に苦しむところだが、それはここでは論じる対象にはしない。
 憲法で規定されている表現の自由とは何か。youtubeでの表現は、憲法の表現の自由と同じなのか、そして、武田氏の主張は妥当かを検討する。
 憲法上の表現の自由とは、当たり前のことだが、第一義的には、私人が表現することについて、国家が干渉しないということだ。干渉しないといっても、他人の権利を侵害する不法行為にあたる表現については、被害者からの訴えがあれば、裁判所が干渉することになる。

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矢内原忠雄と丸山真男18 知識人とは何か エドワード・サイードの知識人論

 矢内原忠雄論をどういう視角で書くか、ずっと模索してきた。私は、キリスト教徒でもないし、また、経済学者でもない。だから、キリスト教徒としての矢内原忠雄から、詳細に学ぼうとは思わない。もちろん、矢内原が、どんな圧力にも屈せず、信念を貫き通すことができたのは、キリスト教の信仰によるのだから、そこを無視することはできない。何かを明らかにするために、戦中リベラルである矢内原忠雄と戦後リベラルの代表的人物である丸山真男を対比することで、見えてくるものがあると考え、「矢内原忠雄と丸山真男」という文章を書いてきた。そのなかで、二人の社会状況、政治状況との関わりに大きな差異があることに気づいた。矢内原は、東大教授に就任以来、単に植民政策の研究者、そしてキリスト教徒として以外、様々な分野に意見を発してきた。矢内原全集では、『時論』というカテゴリーでまとめられた文章が多数含まれている。専門の植民政策の研究も、時の植民地政策の批判的研究である。だから、現実の政府の政策に対する批判が柱となっている。

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35人学級が実現しそうだが

 教育界全体の願いといってもいいだろう、少人数学級に一歩前進したようだ。文科省の30人学級の予算要求に対して、難色を示していた財務省が、35人学級で折り合ったということだ。誤解している人も多いが、文科省は、その熱意はさておき、学級定員を減らすことについては、これまでも財務省と交渉しており、予算の関係で、大蔵省・財務省がずっとそれを拒否してきたわけだ。ずっとというのは、多少言い過ぎで、現在小学校1年生だけは、35人学級になっている。もちろん、このときも、文科省は、1年生だけでよいといっていたわけではなく、また、財務省も全学年の35人学級を認めたような報道がされたが、結局1年生だけになってしまった。しかも、決定したのが、かなり遅く、既に学級編成をしたあとだったので、学級編成を変える必要がたくさんでてきて、大変だった地域もある。 

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