『戦争と平和』には、たくさんの人が登場し、主人公ともいうべき人物も複数いる。その中で、最初の場面から登場し、最後まで重要な役割を果たしつつ、最終の場面でも活躍しているのは、ピエールのみである。そして、『戦争と平和』は、このピエールの成長を描いた小説という側面が非常に強い。というのは、トルストイが最初に構想したのは、「デカブリスト」だったのだが、そこでの主人公がピエールだったのである。デカブリストというのは、1825年におきた一種の反乱で、農奴制などの封建的な抑圧の酷かったロシアに、リベラルな政策を求めた反乱だった。そのなかに、トルストイ一族の人がいたということで、トルストイは興味をもったのだが、やがて、その人物たちの過去にさかのぼって、1812年のナポレオンのロシア侵入を中心のテーマにしたという経緯があった。とすると、1805年の物語の始まりから、1825年のデカブリストの反乱、そして、流刑、帰還という長い期間の物語に、ピエールは関わっているわけだ。訳者の高橋氏によると、『デカブリスト』の草稿では、ピエールとナターシャが流刑地から帰ってくるところから、物語が始まっていたという。ナターシャは、全く非政治的人間だから、当然デカブリストの反乱に参加していはおらず、夫の流刑にどうしてもついていくと主張して、流刑をともにした夫婦という想定だったと想像される。もしかしたら、ナターシャの政治意識の成長も描かれていたのかも知れない。『戦争と平和』の最後の場面は、ピエールがサンクトペテルブルクに出かけて、政治的グループと相談をして帰ってくる場面である。そこで、ピエールは政府の批判を繰り広げる。それは、明らかに、将来のデカブリストの乱への参加を匂わせているのである。
このように、トルストイが最も深く描こうとしたは、やはりピエールである。そして、ピエールは、何度も人間的、思想的に変遷する。