『教育』2021.3号を読む ジェンダーの平等

 『教育』2021年3月号の第二特集は「ジェンダー平等教育をすすめるため」で、理論的な論文2つと実践記録がいくつか掲載されている。実践記録は、私としては学ぶ材料なので、特別な場合を除いてコメントすることはない。この特集については、論文的な文章について、若干の疑問を感じる。その点を、羅列的になるが、書いておきたい。
 この特集で、最も不満なのは「ジェンダーの平等」とは何かという点について、コンセンサスがあるという前提があるように思われることである。そして、その前に、実は、特集名を知らされて原稿依頼がなされているはずであるが、必ずしも、ジェンダーに関する文章ばかりではない。性教育やセクシュアリティに関する文章もある。
 私が学生時代や若いころには、sex gender sexuality などを区別して議論するとはいうことはなかったが、いまでは、gender を性についての社会的現象(男らしさ、女らしさ)、sexを生物学的な性、sexuality を性的指向性というように区別して議論するようになっている。ただし、私はそうした専門家ではないので、その使い方が広範囲に受けいれられているかについては、自信がない。とりあえず、上記の意味区分に従っておくことにする。

 ジェンダー平等が、どこまでコンセンサスがあるのか。もちろん、平等派に限ってのことだ。
 学校教育は、以前は男女は分けることが基本であった。もちろん、時代や学校の種類によって程度は異なるが、最も徹底しているのは、男子校と女子校に別れていることだ。今は共学が普通だが、名簿や席は男女の枠組みが維持されていることが多い。混合名簿や席がまったく男女を考慮しない決め方もあるだろうが、私が訪れた小学校や中学校では、そうした完全混合は、ほとんどみたことがない。
 しかし、いまでも、学校に限らず、男女が厳密に別れていることはある。
 その代表はスポーツだろう。男女がまったく対等の立場で競い合うスポーツは、存在するのだろうか。
 音楽コンクールは男女の区別はない。ピアノ演奏などは、かなりの肉体労働だが、女性枠があるわけではない。しかし、合唱は、女声と男声は明確に分かれている。
 スポーツで男女別に競技をすることは、ジェンダーの平等原則に適うことなのか、反することなのか。
 かつて兵士は男性のみの仕事だったが、今では女声の兵士も少なくない。女性兵士が銃をもって、歩兵として働くことは、さすがにまだ少ないと思うが、女性の戦闘パイロットは既に存在している。ジェンダーの平等は、女性の兵士も男性兵士と同様の任務をこなすことであるとするものなのか。
 生物学的には、男女差は間違いなく存在する。男性には、妊娠出産、そして母乳を出すことはできない。従って、育児を女性がより多くかかわるのは、自然であると考えられるし、育児を男性が中心に行う民族は、かつて存在しなかったのではなかろうか。
 こうしたことは、どこまで平等にするのが正しいのか。これは、いまだ未解決の領域であるように、私には思われるのだが、そうした課題意識は、ほとんど感じられない。
 
 次の疑問に移る。
 中嶋みさき氏の「ジェンダー平等の科学的学習を学校で」では、個々に書いていることは、概ね賛同できるが、いくつかの点で疑問がある。
 まず「科学的学習」ってなんだろうと。科学的研究というのはわかるけれども、学習に科学的と非科学的の区別があるのだろうか。自然科学を学ぶのに、アメリカで、一時「発見学習」という方法がもてはやされたが、これも、科学的学習とはいわない。発見学習は、基本的には、科学的真理が発見されたプロセスをなぞるように、学習を工夫していることが中心で、これが科学的学習であるかは、大いに議論の余地がある。
 また、「平等」というのは、そもそも一種の価値観的立場だから、科学の対象といえるかどうかも、議論の余地がある。近代原則の「自由と平等」は、あまり調和的ではなく、だいたいにおいて、「平等重視派」と「自由重視派」に分かれる。自由重視派というと、新自由主義という風に考えるかも知れないが、新自由主義ではない自由重視派もある。自由重視派が非科学的というわけでもないだろう。
 次に「LGBTsの人々の婚姻に対する偏見も残っている」という表現があるが、同性婚を認めるのが、絶対的に正しい判断で、同性婚を認めないのは、偏見だ、という確立したコンセンサスがあるのだろうか。
 そもそも、異性の結婚でも、婚姻の成立は何をもって認定するのか、文化によって、かなり違う。宗教的な儀式を必要とする(アメリカはそういう習慣があるようだ)、宗教的ではないが、決められた儀式を必要とする(ヨーロッパに多い)、書類を届けるだけでよい(日本)。ドイツでは、正式な結婚のためには、役所にいって、婚姻担当公務員がいて、担当者が、形式に則って儀式を行う。説明と誓いと署名という一連の形式がある。配偶者が指名した「証人」が、一連の儀式のなかで、ふたりの婚姻を認証する署名を行う。これは、きちんと手順が決まっていて、正式なもので、それによって、正式な婚姻が成立する。オランダでもそうだった。
 また、法的に成立した結婚と、事実婚を、同じように扱うか、あるいは、共通点と相違点を共存させているか、あるいは、まったく違うものとして扱うか、という点でも文化的に違いがある。ヨーロッパでは、配偶者という欄ではなく、パートナーという欄に記入することが多く、学生の同棲なども、住宅手当とか、さまざまな法的保障がある。日本では、いまでも配偶者という欄になっていると思う。これは、法的婚姻と事実婚の関係をどう考えるかで、国際的には、コンセンサスがないことを示している。つまり文化によって、異性間の結婚でも、非常に多様なのである。まして、同性婚になると、その考えは、更に多様な状況なのではないだろうか。おそらく、中嶋氏の見解は、同性婚を容認することは、当然ということで、認めないのは偏見だというのでろうが、それはかなり乱暴な見解ではなかろうかと、私は思う。同性婚について、私は、法的に認めることについて反対ではないが、それを認めることが、本質的に重要だとまでは思っていない。(その点については、別稿にする)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です