私の海外研修の主たる目的は、自分の子どもをオランダの現地校にいれて、オランダの教育を生で知ることだったから、調査の主力はそちらだったが、当然大学から派遣されて、大学で学んでいるのだから、大学の在り方には注意を払った。ただ、大学というのは、日本でも同様だが、非常に大きく、かつ多様な組織だ。働いているひとは数百しかいなくても、学生は一万を越える場合が少なくないし、領域が広い。
私が所属していたのは、オランダで最も古いライデン大学で、日本学科にいたが、いろいろなところから、留学生が来ている、実に国際色豊かなところだった。留学生の部屋にいたのだが、地域の政治状況を反映して、国内の対立が持ち込まれて、激しい喧嘩が起きることなどもあった。とくに中国人留学生に、そうした争いが目立った。政治的な弾圧から逃れてきたひとと、体制に忠実な学生が同居しているわけだから、争いごとも当然なわけだった。
さて、「大学」といっても、日本とヨーロッパでは、その意味するところが異なる。ヨーロッパで「大学」というときには、基本的に修士課程までを含むことが多く、卒業によって修士となる。オランダはその典型である。それに対して、日本の四年制大学は、オランダでは高等専門学校と呼ばれていて、職業的な専門教育を行うところである。小学校の教師養成は、高等専門学校で行われている。つまり、高等教育機関として、修士を取得させる大学と、学士を取得させる高等専門学校があり、その入学資格も異なる。
このことでわかるように、オランダの大学はエリート教育機関である。当時の進学率は、まだ10%程度であった。それでもかなり増加していたくらいだ。そして、学生には全員給付制の奨学金が支給されていた。何故、全員に支給されているのかは、説がふたつあるようで、実際のところはわからない。あるとき力関係でそうなったので、継続しているという側面もあるだろう。
ひとつは、教育は国家の事業であり、国家を支えるエリートを教育するためには、国家が費用を負担するのが当然であり、また、そうしてこそ、実力のある人材を集め、育成することができる、そのための費用であるという考えである。それに対して、福祉国家オランダでは、生活費がない国民には生活費を支給する。学生は18歳で成人であるのに、職業をもっていないから失業者であり、従って、生活費を支給するのだという考えである。いずれにせよ、北海油田が開発されて、石油収入がえられ、経済状況がよくなった時代に拡充された制度だが、その後経済危機を向かえて、次第に、減額されてきた。私が滞在中は、その減額をめぐって、いろいろな議論がなされていたわけである。
316/628 GEC01342 WAKEI オランダ通信6(19) 92/12/12 05:19 コメント数:1オランダ通信6今回はまた教育問題です。今オランダでは、大学をめぐってホットな論争になっていることがあります。それは大学の授業料のことです。以前にも書いたと思いますが、オランダの大学は大学進学用の高等学校を出て、終了試験を合格すると原則として、どの大学のどの学部への進学することが、一部の学科を除いて保証されている、いわばドイツと同じシステムをとっています。大体進学率は大分高くなって4か5%というところですから、エリ-トということになります。何が問題になっているかというと、学生には国家から奨学金が支給されていることです。学生に聞いたところ、現在年間の授業料は2000ギルダ-、日本円にして15万程です。1980年代からすべての学生に奨学金が支給されるようになり、始めは月1000ギルダ-(75000円位)だったのが、現在では月700ギルダ-弱だそうです。生活費として400ギルダ-強あることになります。オランダでは学生が1カ月に1000ギルダ-あると生活できると言われています。尤もかなり質素な生活ということになりますが。それで、学生はどうしているかというと、アルバイトをする、親から援助を受ける、ロ-ンを借りる、というような方法でやっているようです。次は例によって新聞の要約です。この新聞は保守党の見解を代表しています。Plan Ritzen omstreden coalitie verdeeld over studiefinancieringAlgemeine Dagblad 1992.11.30収入に応じて学生への財政援助を区分しようというRitzenの提案に対して、CDAとVVDは賛成で、PvdAは反対。連合はこの点で分かれた。しかし、CDAのLansink は連合綱領に反するということで、慎重であるべきとしている。Ritzenはこれで5億ギルダ-節約できると計算している。リッツェンというのが、現在の文部大臣で、労働者党PvdAから出ています。因みに現在オランダでは、労働者党とキリスト教民主党CDAの連合政権です。保守党がVVDです。つまり政権党の労働者党の大臣が提起していることが、連合の一部の党と野党が反対しているということです。オランダでは最近経済状態があまりよくなく、学生への補助はとても負担のようで、比較的お金のある親は子どもの学費を、その経済に応じて負担すべきだ、というものです。日本ではむしろ月すべての学生に5万円程の支給があるということ自体が、むしろ驚きですが、政府はそれをやめたいわけです。断るまでもなく、この援助は日本の奨学金と違って支給であって、返済する必要はないものです。今でも実はよく分からないのですが、オランダでは、「学費」というものは原則として存在すべきではなく、基本的には必要ない(すべての学校を通じて)、しかし、どうしても必要な費用もあるので、それは親の経済に応じて拠出してもらって、そこから必要に応じて捻出する、という考えかたがあるのです。現に私の子どもたち2人が、現地の学校に通っているのですが、学費は全くかかりません。欲しい人はミルク代や、保護者の会の費用は若干かかりますが、学校ではノ-トや鉛筆まで含めて、もちろん教科書も無償です。もっとも教科書は、学校に備付けなので、当然かも知れませんが。子安美知子さんのシュタイナ-学校での授業料が親の経済力によるといういう形式だったので、シュタイナ-学校っていうのは、そこまで自由なのか、と驚いたのですが、実はそれはヨ-ロッパでは別に珍しいことではないようですね。オランダの大学も、学生が収める費用は、親の経済力で決める、というのが、この奨学金支給以前の形態だったそうです。もっとも、こういうことは、実はよくわかりません。というのは、オランダでは(フランスもそうですが)日本のような「教育学」が存在しないのです。少なくとも私の専門である「教育行政学」なる講座は、ちょっと見当たりません。オランダでは「教育学部」があるのはユトレヒト大学だけで、あとは「教育学科」がちょっとあり、ライデン大学では「教育心理学」のような領域の講座があるだけです。そして、教員養成の施設は専門学校ということになります。大学の先生などに聞いても、学校の授業料のことなど知らないし、意識の高い学生でも以前のことを知っているわけではないのです。その内文部省の人と会えると思うので、それで分かるようになると思いますが、本でもよく分からないことで、歯切れが悪くて済みません。さて学生は、この支給のことをどう思っているかというと、当たり前のことですが、とてもいい制度だと考えています。日本やアメリカのようにとても費用のかかる大学に対して、オランダの大学は素晴らしい、と誇りをもっています。というより、600ギルダ-では少ないので、生活費全額を支給してほしい、というような意識でしょうか。しかし、では何故そういうことが、よい制度であるのか、と聞くと、次のような回答でした。オランダの教育は「平等」という原則をとても大切にしている。大学に行くことで、お金がかかるとすると、貧しい人は大学に行けない。国家からの支給で大学の費用や生活費用を賄うことができれば、誰でも大学に行くことが可能になる、従って今回の親によりかかるような制度は間違いだ。しかし、大学に進学する学生は、ほとんどが社会の上層の出身であることは疑いのないところで、貧しい親の子どもはあまりいません。もちろんだからといって、「平等の原則」を捨てていいわけではありませんが、社会の仕組みとして、貧しい親の子どもは、大学には行きにくい状態があることは、間違いのないところです。そうした現状で考えると、上層の親の子どもに、国家が生活費を支給することは、大学に行かない人たちにとっては、とても不愉快な制度なのではないかと思わないわけにはいきません。話をした2人学生に、君たちは大学に行かない人たちに対して、この制度を維持しなければならない理由を、どのように説明するのか、と聞いたところ、それはとても難しいと明確な答えはありませんでした。ライデンは大学街です。完全に大学によって成立しているところなのです。ですから、学生はとても大切な存在なのですが、彼らによると、やはり大学に行っていない商店の人などは、大学生に対しては、複雑な感情をもっているということです。ヨ-ロッパの大学を見ると、いつも、労働者階級の支出で支配階級に教育を提供すべきではない、という言葉を思い出します。日本の革新的な教育財政論の人が、いつも奨学金問題でヨ-ロッパの大学の例を、肯定的に出すのか、いつも私は疑問に思っていますが、ヨ-ロッパの大学の影の部分も、正確に理解する必要があると思います。ちょっと話はそれますが、先日のオランダ語の講座で、教育についての論議がありました。日本では大学進学率が35%で、4年制大学が400以上あるといったら、みな唖然としていました。その講座には、スペイン、バンガリ-、スウェ-デン、ドイツ、ブルガリアの人が参加していますが、そういう国ではみな1桁なのです。当然卒業すれば、エリ-トとして、すぐに専門的な仕事をするようになります。エリ-トだから社会がその費用を負担し、また誰でもエリ-トたりうるという前提で、学生に生活費まで支給しているわけですが、でもその建前と本音には、随分とずれがあるように思えてなりません。「建前と本音の乖離」というのは、決して日本の特質ではないようです。国民のより多くの人に大学を開いていくのは、人々にとって、また社会にとって望ましいことなのか、望ましいとして、そのためには、私的な費用があった方がいいのか、あるいは公費によって最大限支出するのが、開放に効果があるのか、そして、公費部分は何故存在すべきなのか、などと考えさせられる動向です。