2020年は、コロナによる全国的な休校措置のために、全国学力調査も実施されなかった。そのことが、学校教育にとっては、思わぬ(というか、当たり前にそうなった)解放感を生んだ。教科研は、改めて全国学力調査の意味を問い直しを始めた。そして、全国学力調査を悉皆調査として行うことを批判し、3年ごとの抽出調査を提言しているのが、本書である。
学力調査は、単に文科省の実施する全国版だけではなく、県や市が行う学力調査があわせて実施されている自治体も多い。しかも、これらのテストは、日常の学習とも、また受験とも関係なく、単に、「調査」という名目で実施されているが、逆に、日々の学習活動を大きく歪めている。過去問で事前に練習したり、あるいは、学力テストのための学習を組んだり、そして、それぞれの調査で順位などがだされるので、教師への管理の手段としても活用されている。子どもたちも、テスト漬けで、おそらくストレスの要因にもなっているだろうし、競争による荒廃が進み、学力の向上に役立っていないのである。そうしたことを、実際の現場の状況を踏まえて、豊富な実例をあげて、説得的に主張していると思う。
私自身、ここに書かれた内容には、ほぼ異論なく、賛同する立場である。しかしながら、この著書が、全国学力調査が悉皆調査から抽出調査に切り換えるための、大きな力になるかどうかについては、疑問をもってしまう。つまり、究明すべき、もうひとつの重大な問題に切り込んでいないからである。つまり欠けている論点があると思う。その点に絞って考えてみたい。
そもそも、多くの人が誤解しているが、文科省が行っている全国学力調査は、「制度として」悉皆調査であるわけではない。制度としては、抽出調査と、希望する自治体が参加する任意参加の調査なのである。結果として、全自治体が参加しているから、悉皆調査になっているに過ぎない。ここでは、触れられていないが、犬山市は、安倍内閣によって、全国学力調査が復活した年と翌年は、参加しなかった。かなり話題になった。つまり、自治体が不参加を表明すれば、そこでは学力調査は実施されないのだ。文科省には、教育委員会に、こうしたことを命令する権限はないことを忘れるべきではない。
したがって、絶対に究明しなければならない課題とは、この全国学力調査を、国民の多くが拒否しているとは言い難いということであり、それは何故なのかという点だ。端的にいえば、多くの国民は、試験があるから勉強するのだ、と思っているのである。今、学校から、試験を追放したら、子どもたちは、どれだけ勉強するのだろうか、おそらく、かなり勉強しなくなるに違いない、と、多くの大人は思っている。教科研に集っている教育関係者は、本当に、試験を失くしてこそ、子どもたちは勉強すると思っているだろうか。
周知のように、1960年代にも全国学力テストがあった。私自身、中学生のときに、全国学力テストを受けている。団塊の世代に属しているので、国民の多くが、高校受験で、いわゆる「受験地獄」に巻き込まれた最初の世代である。中学校時代は、毎月、業者の模擬試験が実施されていた。月例テストと言われていたものだ。日本で初めて偏差値が導入された時期でもある。学校で行う全員受ける試験としては、今よりも回数が多かったのである。
この時期の学力テストは、当初「試案」だった学習指導要領が、法的拘束力をもつといい始め、その実効性を高めるために、全国学力テストをしたというのが、一般的な見方だ。また、この時期は高度成長の真っ最中であって、学力テストでいい点をとることによって、都会に就職で出て行く卒業生を売り込むための、絶好の機会ととらえたいくつかの地方で、不正まで含む激烈な競争が生じた。
こうしたいくつかの特徴は、まだ、このような要素になじんでいなかった社会のなかで、大いに反発を呼び起こすことになったわけである。メディアも批判し、反対運動も熾烈だった。テスト一位の県が非行も一位だなどと言われたものだ。
そして、全国学力テストは中止されることになったが、少なくとも、1980年代までは、日本では、受験競争が熾烈に行われ、OECD調査団に批判されるような現実があった。
しかし、そうした熾烈な受験競争は、少子化が決定的な事実となった1990年代からは、高校全入となり、さらに大学も全入状態になって、かつてのように、がつがつ受験勉強をしなくても、特に選ばなければ、高校にも、大学にもさしたる困難なく入学できるようになってきた。そして、実際に、かつての受験地獄とは様相が変わってきたのである。
これではいけない、もっと勉強させなければ、と思うひとたちが、ゆとり批判を強め、学力が低下しているというキャンペーンをはり、そして、たまたま順位の落ちたPISAを最大限利用して、学習指導要領の改定に乗り出したといえる。この動きを基礎から支えるのが、全国学力調査であり、自治体レベルで実施されているテストだと考えられる。つまり、少子化によって弱くなった「競争的勉強」を再度強化するための装置なのである。だからこそ、悉皆調査であることを「実現」しなければならなかった。
21世紀に入って、安倍内閣によって再会された全国学力調査は、1960年代に批判された要素は、もはや存在しなくなっていた。それまでなかった、国民的レベルでの受験競争は、もはや、ほとんどの世代が経験したことであって、競争のための試験などは、ごく日常的なこととして経験してきた世代が、世の中の中心になっている。むしろ、少子化で競争が緩んでしまったことに、危機感を感じているのではないか。学習指導要領の法的拘束性に疑問をもつなどということは、考えたこともないようなひとたちが増えている。そして、中卒での就職などは、ごく稀なほどの少数になっている。
こうした時代背景の変化を考えれば、全員が受ける学力調査、そのための準備教育に、疑問をもつ国民が多数であるとは、とうてい思えないのであり、むしろ、何故反対するのかという感覚のほうが多いように思う。
学力調査は、集団スポーツのように扱われているとすら、思われるのである。
現在の小中学校では、体育会的な要素が非常に強くなっている。単に体育という教科だけではなく、生活面においても、スタンダードなどを活用しているやり方は、体育会的といえる。そして、そうした体制を強化しているのが、スポーツの大会である。学校で代表を決め、市大会、県大会、そして全国大会へと勝ち進んでいくことを、学校全体として応援する。ここでは競争や勝敗は、むしろ不可欠な要素である。
こうした構図が、学力面にも導入されていると考えることができる。市の学力テスト、県、そして全国へと拡大していく。そのなかで、我が県は上位を目指すという、この競争構造は、国民が「支持」しているとは、私も考えたくないが、拒否しているのではないことは、残念ながら認めざるをえないのではないだろうか。そして、こうして競争してこそ、この厳しい社会を生き抜けるのだ、と。結局、入試があり、就職も厳しく、就職しても、国際的な競争に曝されている。そういうなかで、勝ち抜いていくためのトレーニングをすることが、何が問題なのかという感覚が浸透していることは、否定できない。
本書では、悉皆調査が、何故過度の競争をもたらすかのメカニズムを解説しているが、私からみれば、むしろ、少子化とゆとり教育で緩んでしまった「競争」を復活させるためのカンフル剤が、全国学力調査であり、したがって、自治体の学力調査とセットにもなっているのである。そして、それは、世論の反発もたいして受けずに進行してきた。
これを反転させることは、本当に難しい。PISAによって、国家間競争まで煽られているからである。
こうしたことを支えているのは、人間は競争することで、一生懸命努力するのだ、という競争哲学である。残念ながら、この考えは、完全に間違っているというわけではない。人間にはそういう性質があるからだ。
では、どうやって打開するのか。最終的には、競争的な学習によっては、未来を切り開く学力は身につかないことを、納得してもらうことであり、実際に、未来を切り開く学力をつけること、そして、そういう学習のほうが充実感があり、役に立つことを、実感させること以外にはない。この点については、明日の別稿にする。
私もまた文教大学で学びました。人間科学部第二回卒業生です。学長だった野島さんとは就任の時に飲みました。私は当時生協設立運動を展開し、準備会の議長を勤めていました。設立はできなかったのですが文教センターや学食の改善に繋がったと思っています。
コメント、ありがとうございます。生協設立運動をされていたということは、私が勤め始める前の在籍ですね。私が勤めたときに、少し前に、生協設立運動を学生がやっていたが、大学当局に拒否されたという話を聞きましたから。あのころの学長は、かなり独裁的なひとでしたから。実は、私の採用にもかなりクレームをつけたそうです。別に何も悪いことはしていなかったと思うのですが、私の出身学科が気に入らなかったようです。生協が設立されなかったのは、いつも残念に思っていました。生協に比べれば、購買部の貧弱さは、いまでも続いていますから。ファミリーマートがはいって、購買部は更に縮小されました。並んでいる書籍をみると、ここが大学か?と思ってしまいますね。図書館は頑張っていると思いますが。食堂は、確かに、私が勤めだしたころよりも、少しずつ改善されていますね。