ネガティブなことばかり書いても前に進まないので、積極的なことを書いてみよう。
似て非なる試験として、オランダのCITOテストをみよう。
オランダは、世界でもっとも自由な教育制度をもつ国として有名である。教育の自由が、憲法で規定されている、おそらく世界で唯一の国でもある。そうした自由のひとつとして、どの学校にいくかは、完全に選択することができる仕組みになっている。基礎学校(幼稚園と小学校が合体した学校)は、完全に自由な選択の対象であり、公立学校も私立学校もまったく同じように選べる。(財政基盤も同じなので、基本無料である)すべて公費で運営されている。違うのは、公立学校は特定の宗教教育を行わないが、私立学校は行うことができる点だけである。基礎学校が修了すると、3つの異なる水準の学校に分かれて進学することになる。大学に接続する学校(6年制)、高等専門学校に接続する学校(5年制)、専門学校に接続する学校(4年制)へと分かれるわけだ。(編入、移行はありうる)最終的には、親や本人の希望によるが、だいたいは、成績で選択する。もっとも、6年制の学校は、極めて厳しい学習が求められるので、勉強が好きではない子どもは、あえて希望しないのが普通だ。
そして、この選択のための判断材料を得るために、CITOテスト(現在は中央試験という名称が使われている)という全国規模の学力試験がある。基礎学校の最終学年の2月ころにある。日本の入試センターに似たような民間の試験実施機関がCITOである。この試験は、小学校の最終学年で行われるという意味で、日本の全国学力調査に似ているかも知れない。しかし、いくつかの重要な違いがある。CITOテストは、
・大多数の子どもが受験するが、義務ではない。別の試験を受ける子どももいる。
・進学する中等学校を選択するための材料を得るためという、明確な目的がある。単なる集団的な調査ではない。
・学校としての成績、個人の成績が、詳細に分析されて、本人や担当者に提供される。
これに対して、日本の全国学力調査は、
・形式的には、義務ではないのに、事実上全国の全員が受ける。
・日本の子どもの学力の実態調査が名目だが、実際的な効果は、競争の促進である。
・全体的傾向の分析は示されるが、学校単位や個人の学力状況の分析は提供されない。
制度的に極めて大きな相違として、オランダには、日本のような上級学校が実施する選抜試験としての「入試」は存在しない。卒業認定されれば、上にある学校への入学資格を獲得したことになるのである。そして、具体的にどの学校にいくかは、選択することができる。(ただし、定員を超える場合には、同種の他校を勧められることがある)このことからもわかるのだが、CITOテストをめぐって、過度な競争などは起きない。これはあくまでも、個人がどの学校を選ぶとよいかを判断するためのものだからだ。そして、学力がそれほど高くなくても、6年制の学校に行けないわけでもない。そして、4年制の学校にいっても、やはり勉強したくなれば、編入することで、最終的に大学にも進学できる。6年制の学校は、毎日4時間は最低家庭学習が必要であると言われており、文系コースだと、5つ程度の外国語の学習が課せられることがわかっている。だから、勉強が嫌いな子どもが、最初から無理していこうとは思わないのである。こうしたシステムが、よいといえるかどうかは、個々の判断基準があると思うが、はっきりいえることは、入学試験があるから、学力競争をせざるをえなくなり、学力調査も競争を煽ることにどうしてもなるということである。
だから、やはり、長期的には、「入学試験の廃止」を視野にした制度論でなければ、多くの人は、全国学力調査への参加を望むのである。
では、競争学力が何故教育学的に問題なのか。常識的なことだが、身につく知識、能力は、自分が積極的な意識でもって修得したものであって、いやいや外的強制によって獲得したものは、ある時期を過ぎると剥落してしまうものだ。受験学力がその典型である。強制圧力によって、一時的に学力は高まるだろうが、強制期間が過ぎるとすぐに忘れてしまうものであることは、国民の多くが実感していることだろう。日本人は、初等中等段階では学力が高いが、高等教育段階になる欧米諸国に逆転されると言われることがある。これは、おそらく、データによって確認されていることではないが、少なくとも、大学生の勉強ぶりをみると、実感として納得できるのである。しかし、これは、日本の長所ではなく、明らかに短所である。高校までより、大学でこそ、本気で学ぶような状況がつくられる必要がある。それには、大学入学までに、自分が本当にやりたいことを見つけ、そのために何を学ぶことが必要なのかを、認識して大学に入学する。もちろん、大学で自分さがしをするのもよいだろうが、それは、本来の姿ではない。
そういう初等・中等教育を実現するためには、子どもたちに、かなりの学ぶ自由度を与える必要がある。そして、学校の教育も、多様であることが必要となる。教育が多様であれば、統一的な試験は、無意味になるし、存在しうるとしても、非常に限られた領域のテストになる。
ところが、教科研の主要な理論的立場として、この初等・中等教育の多様性を許容するものにはなっていない。これは、かつて争われた学校選択をめぐる論点を考えれば、明らかになる。
学校選択を否定し、通学区指定を許容する論理は、かつて兼子仁氏が『教育法』で書いていたように、どの学校でも、基本的に同じ水準の教育を受けられることが保障されているというものだ。もし、制度的に、違う教育が行われているならば、そこに行くことを強制することはできないはずである。だから、独特な教育を行う私立の場合には、選択権が認められている。
同じ質と水準の教育が行われているという前提に立てば、同じ内容による試験が、しかも全国同一の問題で可能になる。大学入試が全国をカバーする形で実施される以上、全国的な模擬試験を望むのはごく当たり前のことなのだ。文科省が実施しなくても、民間業者はやっている。もちろん、模擬試験は希望者のみが受験するが、前回書いたように、全国学力調査も、形式的には、希望によるものなのだ。文科省は、結果の公表はしないといっても、実際には、かなりのレベルまで漏れている。なら、個人の成績も開示しろという要求がでてもおかしくないのだ。それを願っている保護者だっているだろう。
高校野球の選手は、甲子園をめざして練習する。野球のルールや道具が、地域でまちまちであれば、全国大会は成立しない。同じであることが条件になる。また、プロ野球という将来の職業がある以上、熱心に野球をしている選手は、かならず全国的な試合を望むだろう。
学力試験についても、基本的には同じことが成立するのだ。
どうすればよいのか。私は、教育制度論が専門なので、制度のレベルで考える。
もちろん、私は、悉皆調査をやめて、抽出調査に「限定」した調査に、とりあえず限定すべきであると考える。ただ、教科研出版のこの本は、それでよしとするのだろうか。
そこに留まるならば、全国的な模試が民間によって実施されるだけだろう。もちろん、文科省の全国学力悉皆調査ほどの、競争煽り効果はないに違いないが、それで加熱競争が緩和されれば、問題が解決したといえるのか。
競争があれば、剥落する学力であるにせよ、人は一生懸命勉強する傾向が高まることは事実だ。それなりの学力はつくだろう。しかし、ただ単に、競争が弱体化すれば、そして、その他の条件が変わらなければ、単に勉強しない子どもたちが増えるだけだ。それがいいということなのだろうか。私には、そうは思えないのだ。学習を広く考えれば、子どもだって、やはり、大いに学習すべきものであるし、学習意欲は旺盛にもっているはずなのだ。現在の学校教育は、標準を定めてそれを義務として学ばせる制度である。その学習内容にあった子どもはよいが、この多様な社会のなかで、それぞれが打ち込めることは多様であり、学校教育は、そうした個々の発達要求を励ますものでなければならない。そのために、学習指導要領などの制限をもっと少なくし、基本教科だけにする、そして、そのほかは、多様な教育体制を認め、そうした教育を選択できるようにすることで、子どもたちの発達は最大限のものになるし、また、強制的な競争教育や競争的学力調査も意味のないものになるのである。こうした多様性への展望のない論は、結局、中途半端な学力調査批判にしかならないのではないだろうか。