8月15日に思うこと

 今日は「終戦記念日」ということになっている。しかし、日本が正式に終戦に至ったのは、8月15日ではない。9月2日、ミズーリ号での休戦協定を結んだ日である。事実、8月15日をもって、日本軍の軍事行動は止んだが、連合国には、まだ戦闘行為を継続している部隊があった。とくに、ソ連軍は日本人たちに対する攻撃をやめてはいなかったのである。すべての連合国軍が戦闘をやめたのは、日本が正式に降伏文書に署名した9月2日である。
 では、何故、日本は8月15日を終戦の日として、教科書や公式の行事として認定しているのか。それは、さまざまな解釈があるだろうが、戦争を終わらせたのは、天皇の意志であるという認識を確定させるためだと、私は思う。8月15日に行われたのは、天皇が前日録音した「玉音放送」が流したことだ。その趣旨は、結論としてはポツダム宣言を受け入れたと、国民に対して公表することだった。その他には、大東亜戦争は、アジアの解放のためだったとか、連合軍の虐殺が激しくなったので、日本の将来を考えたとか、いろいろなことを言っているが、要するに、これは、日本が降伏したことを、連合軍に伝えたと、国民に知らせたメッセージであり、「戦争か終結」したことを、正式に知らせる文書ではないのだ。実際に見たこともない人が多いかと思うので、文末に全文を掲載しておこう。

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ふたつのバイロイト第九 根拠と証拠について

 徳岡直樹氏によるフルトヴェングラー、バイロイト第九の検証youtubeに対して、私は二度に渡って議論を呈したが、それに対してコメントがついた。コメントの趣旨は、根拠と証拠が乏しく、「~~と思う」という書き方が多すぎるということだった。証拠はないが、根拠は書いてある、そもそもこうした話題は、主観的なことがほとんどで、徳岡氏も同様だという回答だ。一応返事はしたが、もう少しつっこんで整理したいと思う。
 こうしたことにあまり興味のない人には、何やってるんだと思うだろうが、ベートーヴェンの第九交響曲最高の名演奏といわれるフルトヴェングラーの第九、しかも、もっともよく聴かれる1951年、バイロイト音楽祭再開の冒頭の日に演奏された録音には、ふたつの異なった録音があるとされている。両方とも同じ日付の演奏となっているのだが、明らかに異なる演奏である。しかも、EMI、バイエルン放送協会のテープによってオリフェオという企業が発売しているもので、フルトヴェングラーの演奏であることを疑う人はいない。これらの演奏には、当初からさまざまな逸話がつきまとっていた。

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日教組制度検討委員会報告(一次)の検討3 入試を廃止するための前提

前回、高校の義務化と公立私立の関係が、課題として残るとして、今回に続けた。
 「国民の教育要求」に依拠するといっても、国民の教育要求は一様のものではないし、また、ぶつかり合う要素もある。また、その要求を実現したとしても、更にその実現が新たな問題を引き起こすこともあるだろう。小学区制が実現したとしても、私立学校との関連という問題が生じる。また、地域総合制高校が、本当に、多様な教育要求を包み込むことができるという問題も生じるに違いない。したがって、現に表れた要求だけではなく、その先を見越した構想が必要となるのではないだろうか。
 当時としては、極めて大胆であった「入試の廃止」を明確に、検討委は提起していた。しかし、それは、徹底した制度構想とはいえなかった。高校三原則を実現したとしても、入試は残るからである。小学区としての入試、更に私立高校の入試が残る。「入試の廃止」である以上は、公立高校の入試だけ廃止しても、あまり意味がない。にもかかわらず、高校三原則の実施に留まっていたから、入試の廃止は、単なる題目で、具体的な制度構想にはなっていなかった。

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オリンピック後始末1 バッハの警備費・女子ボクシング・開会宣言の訳

 いろいろと出てくる話題を、できるだけフォローしておきたい。
 
バッハ会長の警護費用
 バッハ会長は8月6日に広島を訪問して、平和式典に出席した。国民からの反発がけっこうあったが、決行した。そのときの警備費用を、広島県と市はオリンピック組織委員会とIOCに求めたが、蹴られたというのだ。そして、仕方なく県と市で分担することになったそうだが、もっと争ってもいいのではないだろうか。市はそれなりの歓迎はしたようだが、別に招待したわけでもないようだ。つまり、勝手に来たわけだ。しかも、日本人の多くの願いは、オリンピック期間中の当該時間に、黙祷を捧げることだったのだが、これは明確に拒否しているのだ。つまり、広島を訪れたことは、決して核廃絶の願いを表明したかったわけでもなく、原爆投下に抗議する意志を表明するのでもなく、単に、ノーベル平和賞狙いだという見方があるが、そう思ってしまう。バッハの警備費でいうと、銀ぶらのときにもSPかついていたが、彼らの費用は誰がだしたのだろうか。そういうことも明らかにしてほしいものだ。選手たちには、試合が終わったからすぐに帰国せよということなのに、自分は銀ぶらとは。

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日教組教育制度検討委員会報告(一次)の検討2 高校三原則は現実的だったのか

 前回、日教組制度検討委員会の報告での、高校三原則を実現せよという要求が、実際には、男女共学以外は(それも私学では不十分だった)、ほとんど実現せず、逆の方向に進んだことを指摘した。単なる教育運動側の力量不足なのか、あるいは、要求内容の不備だったのか。おそらく両方だったのだろうが、ここでは、要求内容を検討する。
 
要求の形式的把握
 「教育要求」を、制度検討委員会は、まずは形式的に捉えたといえる。「進学したい」という要求を、当然・自然・健全なものとしたが、そういう把握に、批判的なひとも当然いる。後藤道夫編『競争の教育から共同の教育へ』で、「国民の要求」への批判がそもそも射程に入っていないと批判している。これは、堀尾に対する批判であるが、この報告への批判としてもあてはまる。後藤は、国民の教育要求が、進学要求である限りは、その後かなりの程度実現していくが、それは、国民が、支配階級に取り込まれていく、後藤の表現によれば、「馴化」されていく過程であり、その事実をみれば、我々=要求実現、政府=要求の制限・抑圧という図式は成立しないというわけだ。それは、「国民」をどう捉えるかという点にもあると後藤はいう。制度検討委員会の報告では、「国民」を定義しているわけではない。しかし、後藤は、「子ども、親、教師」を想定していると書いている。(後藤の批判は、対堀尾理論だが、制度検討委員会報告の骨格は、堀尾論であるので、ここでは、基本的認識は、堀尾=制度検討委員会としておく。)ただ、中心は教師であるという点での批判意識は、ずっと以前からあった。親は教師に「委託」するわけで、国民の教育権論は、基本的には、子どもや親の教育要求を、教師が実現するという構造で、そのためには、教師の教育の自由と研究の自由が必要他というものだった。(後藤の批判を、私が認めているわけではない。後藤的発想に対する批判は、また別の機会に書く。)

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オリンピックの不思議なこと いくつか

 オリンピック関連のテレビなどは見ていないので、気になる部分は、ネットで確認しているが、いくつか不思議だと思うことがある。
 まず試合の開始時間だ。いくつかの競技では、あまりの暑さに対応するために、試合の時間をずらしている。テニス、サッカー女子、マラソン女子などが代表的だが、屋外競技のいくつかが変更したようだ。ところで、試合時間は、アメリカのテレビ放映権をもっているNBCの意向によって決まるといわれていた。だから、非常に不自然な時間帯が設定されているわけだ。アメリカの視聴者にとってのゴールデンタイムに、アメリカでの人気スポーツが試合を行うように、開催地の時間帯を無視して設定されるわけだ。ところが、かなり突然試合開始時間が変更になったとき、NBCとの調整はどうだったのだろうか。そういう報道がほとんど見られないので、気になるところだ。
 もしかしたら、アメリカでの視聴率が非常に低いので、NBCとしても無理に時間を合わせる意味がないと諦めたのか。あるいは、特にアメリカの選手が激しく抗議していたので、仕方ないと思ったのか。

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小田急の無差別刺傷事件

 信じられないような事件が起きた。混雑している小田急線の車内で、まったく無防備なひとたちを包丁で切りつけるという事件だ。「幸せそうな、勝ち組の女子大生」狙って、誰でもよかった、たまたま近くに座っていた、犯人が勝手に想像した「勝ち組」らしい女子大生が被害にあったわけだ。重傷だが命にはかかわらないということは、幸いだったが、本当に酷い話だ。その後火をつけて、更に被害を拡大しようとしていたらしいが、サラダ油だったために、火などつかず、これはうまくいかなかったのは、よかった。理系で学んだにしては、お粗末だとネットで嘲笑されているが、おそまつでよかったわけだ。ガソリンなどを巻かれたら、とんでもないことになっていただろう。本人は自殺意志があったのだろうか。

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オリンピックは終わったが、地獄の後始末がくる

 今日でオリンピックが終了する。関係者やメディアは、成功したといっているが、残念ながら、メディアを中心に何か盛り上がった感じを作り出したから、そう感じているのだろう。
 他方、オリンピックなど、まったく無視しているひとたちも少なくないのだ。コロナのほうがよほど心配事項であるというひとたちだ。また、IOCに対する最大の資金提供者である、アメリカのNBCは、あまりに視聴率が低いので、こまっているだけではなく、スポンサーへの補償なども考慮せざるをえなくなっているという。これで、盛り上がったといえるのだろうか。
 
 これから、様々な負の結果が出てくるのだ。何よりも、コロナ感染の拡大だ。一昨日明らかになったことだが、コロナの変異株であるラムダ株が、7月20日に検出されていたが、それを厚労省が隠していたという。ラムダ株は、南米で猛威を振るっている変異株で、感染力も重症化率も格段に大きいとされている。どこから持ち込まれたのかといえば、隠されているのでわからないが、時期的に、オリンピック関係者の来日組と考えるのが、もっとも自然だろう。だからこそ、厚労省は、オリンピックが終わるまで発表しないと決めていたのだ。それが、海外のメディアが発見し、調査していると、突然NHKがニュースで報道したという。海外で騒がれる前に、国内でちゃんと発表したという形をとりたかったのだろうと憶測されている。

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コロナ雑感 家庭での治療薬がなぜ承認されていのか

 コロナでステイホームになって、既に一年を優に越えるほどになった。コロナの流行と定年退職が重なったために、文字通り徹底したステイホームを実施している。週に2回程度の買い物につきあうことと、3月から復帰したオーケストラの練習に週1ででかけるだけだ。あとは暗くなってからのジョギング。公共交通機関には、1年半以上乗っていない。そのために、コロナ情報には、本当に長い時間をかけて、読んだり、見たりしてきた。そして、感じたのは、何故日本はこんなにコロナ対策が不備なのか、政府が無力なのかという点だ。そして、少なくない専門家と称するひとたちのいいかげんなことだ。
 
 最初に感じた専門家なるひとたちの馬鹿げたいい方は、「新型コロナは単なる風邪だ」というものだった。これにはびっくりした。こういうことをたくさんの専門家がいっていたが、彼らは、今の第5波の感染拡大でも、そう思っているのだろうか。第3波のときには死者もかなり出た。今回の拡大でも、今後死者が増加することは疑いない。風邪論者は、インフルエンザと患者数も、死者数も変わらないということが、主な理由だった。

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菅首相の平和記念式典挨拶の「とばし」はミスか故意か

 またまた、菅首相が話題作りに協力した感じだ。こともあろうに、広島の原爆投下の日に開催される平和記念式典で挨拶したおり、一ページ分を飛ばし、更に別の部分も読まなかったというのだ。私はテレビを見ていなかったので、記事によって知るしかないが、飛ばした部分と読まなかった部分を、両方掲載している記事がなかなかないので、以下のふたつの記事を引用しておく。比較的詳しく解説しているのが、次の記事である。
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【広島平和記念式典】菅首相が読み飛ばしか。NHKの字幕は「核兵器のない世界の実現」と表示も首相は話さず
菅首相は「非核三原則を堅持しつつ」と日本の立場を説明する場面で、核軍縮の進め方をめぐる各国の立場の違いへと話を変えてしまい、意味が通らなくなった。
* 安藤健二
原爆投下から76年目の8月6日、広島市の平和記念式典に出席した菅義偉首相のあいさつで意味が通らない部分があったと話題になっている。
■意味が通らない部分は?
菅首相は「非核三原則を堅持しつつ」と日本の立場を説明する場面で、核軍縮の進め方をめぐる各国の立場の違いへと話を変えてしまい、意味が通らなくなった。地元紙・中国新聞のオンライン版は「用意していた原稿を読み飛ばしたとみられる」と速報で報じた。

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