徳岡直樹氏によるフルトヴェングラー、バイロイト第九の検証youtubeに対して、私は二度に渡って議論を呈したが、それに対してコメントがついた。コメントの趣旨は、根拠と証拠が乏しく、「~~と思う」という書き方が多すぎるということだった。証拠はないが、根拠は書いてある、そもそもこうした話題は、主観的なことがほとんどで、徳岡氏も同様だという回答だ。一応返事はしたが、もう少しつっこんで整理したいと思う。
こうしたことにあまり興味のない人には、何やってるんだと思うだろうが、ベートーヴェンの第九交響曲最高の名演奏といわれるフルトヴェングラーの第九、しかも、もっともよく聴かれる1951年、バイロイト音楽祭再開の冒頭の日に演奏された録音には、ふたつの異なった録音があるとされている。両方とも同じ日付の演奏となっているのだが、明らかに異なる演奏である。しかも、EMI、バイエルン放送協会のテープによってオリフェオという企業が発売しているもので、フルトヴェングラーの演奏であることを疑う人はいない。これらの演奏には、当初からさまざまな逸話がつきまとっていた。
まず、EMIは、バイロイト音楽祭のオペラを録音して発売するために、録音チームを常駐させ、カラヤンの演奏を実際に録音して、発売した。開幕演奏であるフルトヴェングラーによる第九は、レコード化する予定ではなかったらしいが、とにかく、録音しておこうということになり、録音したが、フルトヴェングラーの生前は発売されなかった。理由は、わからない。もともと予定じゃなかったということかも知れないし、あるいは、責任者であるレッグの意向だったかも知れない。EMIはウィーン・フィルとのベートーヴェン全曲録音を進めていたから、そちらが優先ということだったかも知れない。レッグが、演奏後フルトヴェングラーのところにいって、「すばらしい演奏だったが、思ったほどではなかった」と語って、フルトヴェングラーが不快に思ったとか、意気消沈したとかの逸話が残っている。
3年後の1954年にフルトヴェングラーがなくなると、EMIはこの録音を発売する。そして、世界的な大ベストセラーとなって、あらゆる曲のなかでも、最も偉大なレコードなどといわれたものだ。まだ『レコード芸術』などが、ランク付けをさかんにやっていたころ、歴史上最高のレコードランクなどのランク企画があり、たいていこのバイロイトの第九が一位だったものだ。二位はカール・リヒターのマタイ受難曲。私は、高校生のときに、この第九を聴いて、たしかにその巨大なスケールに圧倒されてショックを受けた記憶がある。我が家にあったのはワルター、ニューヨークのものだったので、まったく違う印象だった。
さて、そうこうするうちに、オルフェオレーベルから、フルトヴェングラーのバイロイトの第九が2007年に発売され(フルトヴェングラー協会の内部配布が市販されたものなので、協会版とここでは呼ぶ)、同日の演奏期日になっているので、どちらがゲネプロでどちらが本番かという大論争が起きた。『レコード芸術』で特集が組まれたり、HMVのレビューでたくさんの書き込みがあり、見解が対立している。
youtubeで、指揮者で作曲家である徳岡直樹氏が、この問題を何度かとりあげ、結論として、協会版が本番であるとしている。私は、協会版発売当初から続いた大論争を、かなりフォローしたが、EMI版が本番だと考えてきたし、いまでもそう思っている。そして、徳岡氏が取り上げたタイミングにあわせて、2回このブログに書いている。興味のある人は、そちらを読んでほしい。
私が、EMI版が本番だと思う「根拠」は、第三楽章における第一バイオリンの出が、明らかに遅れていることだ。協会版は楽譜の通りに出ている。遅れるのは、演奏上の乱れ、つまり、指揮者とバイオリン群の息が揃わなかったということで、かなり目立つ現象だ。だから、本番を聴いたり、演奏したりした人にとっては、忘れられないことだったと思う。EMI版が登場したのは、演奏の3年後程度なのだから、協会版が本番であれば、市販されたレコードは偽物だという意見がでたはずであるが、そういう意見はなかったというのが、当時の論争での音楽評論家金子建志の見解、つまりEMI版のほうにある明確な演奏上のミスが、これが本番であることの論拠となるという見解に、基本的に同意するといことだ。
両版についての議論は、どちらが本番かというだけではなく、どちらの演奏が優れているかという点でも、ずいぶん盛り上がった。どちらの支持もある。演奏の質については、個々人の好みだと思うし、私自身、バイロイト第九がすごく気にいっているわけでもないので、あまり気にしないが、どちらかといえば、EMI版のほうが、熱が入っていて、第九らしいと思う。
さて、本題だ。こういう論点で、「根拠」とか「証拠」とはどんなものだろうか。証拠は、客観的に誰もが認める事実のことだと考えると、そういうものは、現時点になれば、ありえないというべきだろう。演奏は、一回きりのものであって、明確に演奏した人、あるいは直接聴いた人が鮮明な記憶をもって証言したとか、あるいは、正確に日時を記録したテープが存在していて、それを確認できるというようなものは「証拠」といえるだろうが、現在の我々では、それは誰にも不可能だ。徳岡氏でも、証拠を提示しているわけではない。
他方、根拠は、判断の理由となるものだから、それは誰にも提示しうるし、それが正しいと思われるかどうかは、説明の合理性によるものだ。私が、EMI版が本番だとする「根拠」は、演奏上のミスがあるという点だ。協会版にはめだったミスがない。とするならば、本番のライブとして発売するのに、ミスのあるゲネプロを使うだろうか。常識的にありえないと思う。ただ、ラジオで放送したのが、ゲネプロだというのならば、また話は別だが、これも、状況から判断して、ラジオで放送されたものと、EMI版は、基本的に同じだった、少なくとも、ミスの所在は同じだったと考えるのが自然だろう。
したがって、レコード会社が、死後大々的に売り出すのだから、本番を基本にするのは当然だと考えられる。
これに対して、徳岡氏は、ゲネプロと本番の「雰囲気」を重視している。客を前にして演奏すると、単にマイクを前に演奏するのとでは、まったく雰囲気が違うものになるというのだ。しかし、雰囲気などは、それこそ主観的なもので、徳岡氏と逆に考える人もたくさんいるのだ。それに、おそらくこのバイロイトの第九では、ゲネプロでも客はかなりいたのではないかと考えられる。それは、今回のオリンピックで、無観客のはずが、オリンピック関係者ということで、けっこう客がいたし、声援もあった。戦後再開されたバイロイトだから、当然、リハーサルなどもかなり行われたはずだし、そのために、たくさんの音楽家(オケ、合唱、ソロ)だけではなく、運営スタッフもいたはずである。彼等は、本番の演奏は聴けないはずなので、時間がとれたひとたちは、第九のゲネプロを見たはずだ。なにしろ、フルトヴェングラーが指揮をするのだから。しかも、こういうときのゲネプロは、事故のための録音をして、それが本番の代わりに放送される可能性もあるのだから、やはり、真剣に演奏するだろう。だから、確かに、ゲネプロと本番は違うとしても、この場合、協会版が本番で、EMI版がゲネプロの雰囲気だという感覚は、かなり主観的なものにすぎない。逆に感じる人も多いのだ。
それから、常識的な「根拠」になるが、徳岡氏は、EMI版の第三楽章は、協会版からとった部分があると主張している。その真偽はわからない。三楽章は似ている部分があるという人が多いので、それは間違いないのかも知れない。しかし、EMIがライブ演奏として発売するときに、わざわざゲネプロを主体にして、本番のある部分だけを継ぎ接ぎするというのは、いかにもありそうにないことではないだろうか。本番を主体にして、まずい部分をゲネプロなどの練習部分からとってきて継ぎ接ぎするのではないか。もし、徳岡氏のような作業が行われたのならば、なぜ三楽章の出のミスとか、最後の合奏の崩壊に近い雰囲気の部分を直さなかったのか、理解できないのである。「ミス」は主観的ではなく、はっきりと楽譜上で指摘できるものだ。これだけはっきりとしたミスを訂正してしまうと、違う演奏であることがわかってしまうからではないのか。すると、やはりはっきりとしたミスが訂正されていないままのEMI版が本番だという結論が、正しいように思われるのである。
考えてみれば、こんなことはどうでもいいのかも知れない。ゲネプロの演奏があり、本番の演奏があって、両方聴けることは、すごく貴重なことだ。通常、そんな市販製品をつくらない。それだけの商品価値が双方にあるということだろう。