今週は台風のせいで、雨が多いと事前の予報では言われていたのだが、よく晴れた日が続いて、旅行にはもってこいの天気が続いている。今日も熱いくらいだった。一昨日と昨日は、南木曽の山奥のホテルに宿泊したのだが、一昨日は、真っ暗になってついた。やっと予約ができた人気ホテルだということだったのだが、直前にキャンセルが続いて、私たちが到着した2組目の客で、他は全部キャンセルされたということだった。その日は、食事を頼んでいなかったので、食事で利益をだすホテルとしては、本当にこまったことだろう。復元された宿場町での観光も、コロナの影響で影響をうけたということだったが、ホテルはもっと大きいことが、実感として理解できた。GOTOが切実にホテル業界にはやってほしいことなのだと感じたのであるが、それでも、観光業に対する援助が、GOTOなのかという点については、まだ納得がいかない。
旧中仙道旅行記3
今日は、いよいよ本来の目的である、旧中仙道にある史跡巡りを実施することができた。というより、今回の旅行の目的は、岐阜県にある馬籠宿と、長野県の妻籠宿を見ることにあった。島崎藤村の「夜明け前」の舞台となっている宿場であり、当時の面影がどの程度かはわからないが、できるだけ保存しようと努力しているふたつの旧宿場街である。しかし、実際にいってみて、となりの宿場であり、互いに復元という点において影響しあっている両宿場でも、ずいぶん雰囲気の違いを感じた。そして、それが、人出の違いにも現れていたように思う。
とった宿の関係で、まず妻籠宿にいった。最初間違って車で乗り入れてしまい、まずは車で妻籠宿を通りすぎてしまった。完全に通行禁止になっているわけではないようだが、車の乗り入れはほとんどない。私たちが歩いている間に、他の車は通らなかった。しかし、通りにある家は、もちろん車をもっているわけで、この通りを避けることはできない。再度駐車場を探して、そこから、いよいよ歩いて妻籠宿の通りを端から端まで歩いてみた。
旧中仙道旅行2
今日は、ホテルで朝食を食べてから、まず山下清美術館を訪れた。貼り絵の天才山下清の作品が多数展示されているので、平日の午前というのに、けっこう観覧者が多かった。
私は、あまり美術に興味がないので、詳しいことは知らないのだが、とにかく、山下は放浪で有名だ。ある程度名前が知られるようになってから放浪癖が始まったので、食べることにはこまらなかったという。それでも、最初は、食べ物を恵んでもらって、駅や野原に野宿する形だったのだが、そのうち、作品を書いてあげるなどして、かなり謝礼をもらったり、あるいは、宿泊場を提供してくれる人がでてきたそうだ。それで、山下は、芸術家として、将来的にやっていけるという自信がついたという。
旧中仙道旅行1
以前から、国道を制覇することを、趣味としてやっていた。あまり時間もないので、たまにしか行けないが、これまで、1号、2号、4号、6号、7号、8号、9号、20号を制覇した。もちろん、そのほかにも、125号とかたくさんの関東近辺の国道は制覇したが、江戸時代からの基幹的な道路に添った国道として、中仙道が残っていた。ところが、他の江戸時代の基幹道路と国道の関係は、ほとんど一致しているが、中仙道だけは、ひとつの国道になっていない。17号から始まって、順番に21号までの部分がそれにあたっている。そこで、中仙道を国道にしている道をたどってみようという計画を立てた。
ところが、最初から、計画が頓挫し、2日目からになった。そして、当初の国道17,18号は帰りに通ろうということで、最初に諏訪にやってきた。下諏訪大社と高島城をみた。
北朝鮮による拉致被害者に関する生方発言
10月11日の産経新聞に、立憲民主党生方議員が、北朝鮮に拉致された人は、誰も生存していないという発言をして、拉致被害者家族会と支援組織が抗議をしたという記事がだされた。
要点は以下の通り。
生方議員が9月に千葉県松戸市で行なったかいごうで、「日本から連れ去られた被害者というのはもう生きている人はいない」と発言した。横田めぐみさんが生きているとは、自民党議員も含めて誰も思っていない。めぐみさんの遺骨とされたものを、日本政府はDNA鑑定で偽物としたが、当時はそういう技術力はなかった。
死亡の根拠は、生きていたら当然帰す。生きていたら何かに使うはずだが、一度も使ったことがない。
小室圭氏を支える黒幕?
小室圭氏と真子内親王の結婚が本決まりになり、圭氏の母親が詐欺の疑いで刑事告発されるなど、まだまだ騒がしい状況が続いている。そのなかで、にわかに議論になっているのが、小室圭氏を支える黒幕の存在である。
もちろん、小室氏がニューヨークにいって、フォーダム大学の大学院に入学して、3年間を過ごしたことをみれば、財政的な援助をしている人がいることは間違いない。それが誰かは明らかではないのだから、黒幕というのもあながち不適切とは言えない。留学前に勤めていた法律事務所が生活費を支給しているという話もあるが、これは、ほとんど信じるに足りない。留学に際して、弁護士資格を取得後は、アメリカで生活することは、ほぼ確実なこととして公言してきたのだから、日本の法律事務所が生活費まで面倒みるはずがない。もし、みるとしたら、法律事務所が正規の留学生として送った場合だろうが、小室氏の場合は、事務員だったわけだから、そんなエリート扱いするはずがないのだ。
メンゲルベルクのこと
徳岡直樹氏のyoutubeで、メンゲルベルクを扱っていたので、興味深く聞いた。メンゲルベルクは、戦前のオランダの指揮者で、コンセルトヘボー管弦楽団を50年間指揮し、世界のトップオケに育て上げた偉大な指揮者だ。しかし、ナチスに占領されたオランダで、ナチスに協力したということで、戦後演奏活動を禁止され、その後解禁されたが、演奏再開の直前に亡くなった。20世紀前半の偉大な指揮者として、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターをあげることが多い。ここにメンゲルベルクを加えるのが妥当だろうが、なにしろLPが発明される前に演奏活動を終えてしまったので、録音を通して知ることが多い戦前の指揮者としては、メンゲルベルクは非常に不利であるし、フルトヴェングラーやカラヤンは2年の禁止期間だけだったが、メンゲルベルクは6年も禁止されていたのが、不幸だった。
私がメンゲルベルクを聴いたのは、チャイコフスキーの悲愴だけだが、ずっと関心はあった。そこで、徳岡氏によって、情報を与えられたので、少し考えてみたいと思ったわけだ。
鬼平犯科帳 密偵たちの誕生とその後
鬼平犯科帳の魅力のひとつは、たくさん登場する密偵たちの活動である。平蔵直属の、日常的に密偵として活躍する中心的密偵(彦十、おまさ、五郎蔵、粂八、伊三次)とは別に、あるときだけ活動する密偵たちも多数でてくる。そんな密偵たちを紹介しておこう。「鬼平犯科帳」に登場する盗賊改めの密偵は、すべて元盗賊である。町奉行所の同心についている岡っ引きは、必ずしもそうではないし、また、密偵でもない。むしろ、おおっぴらに活動している。しかし、盗賊改めの密偵たちは、元盗賊であるために、昔の仲間に見つかったら、報復され、命があぶない。実際に、密偵になりたてのおまさは、昔の仲間に密偵になっていることを見破られ、拉致されてしまう。あやういところを平蔵に助けられるわけだが、元盗賊だということは、仲間を裏切ったことになり、そこに非常に屈折した感情が入りこむことになる。密偵として、盗賊の捕縛に協力するわけだが、見逃したい相手もいる。とくに中心的な密偵たちは、たいてい、誰かしら、平蔵に昔の仲間の助命を願い出ていて、それを平蔵は聞き入れる。そういう機微が、密偵たちの活動に深みを与えているのである。
親ガチャ問題を考える2
では、親ガチャ問題はどうしたらいいのだろうか。結論的には、個々の状況によって、異なるのだから、一般的な解決法があるとは思えないが、個人的には、やはり、気持ちを変えること、そして、社会的な制度としては、個人の多様性を許容するシステムにしていくことだろう。
私自身は、親から「ああせい、こうせい」などということは、全く言われず、また自分自身として、親の意向に添う生き方をしようなどとは、微塵も考えずに成長した。つまり、やりたいようにやってきたということだ。しかし、私の親、特に父親は、まさしく親ガチャ的苦しみのなかで、苦闘してきたといえる。戦前の話だが、けっこう優秀だったので、担任の教師がわざわざ家まできて、中学に進ませてやりなさいと、親を説得したが、極貧だったために、親が頑として聞かず、結局、義務教育だけで終了、家をでて、働きにでたが、幸いにも、前回書いた官庁設立の学校を受験して合格、中間管理職になる道筋を、自分で立てることができた。しかし、親への共感度はまったくなく、戦後結婚してから、里帰りは親が無くなった葬式のときだけだった。だから、今生きていれば、親ガチャ論議には、ずいぶん関心をもったに違いない。ただし、そういう父も、結局は、自分なりの人生を掴んだといえる。それは、おそらく、家を飛び出したからこそ、可能性が開けたといえる。
親ガチャ問題を考える1
今日(10月6日)の羽鳥モーニングショーで、親ガチャ問題を扱っていた。最近よく聞く言葉だ。子どもの人生が、親によって左右され、個人の努力によって変えられないという意味らしい。その程度が強まっていて、それが格差社会を助長しているというわけだ。モーニングショーでは、その典型的な表れとして、東大生の家庭の知的、経済的優越性を例としていた。結局、勉強好きにするような家庭の雰囲気、そして、小学生の中学年から始まる塾での競争を可能にする経済力、そうした要素がないと、子どもが東大に合格しにくくなっている。だから、そういう要素を欠いた家庭に生まれた子どもは、どうしようもないのだ、という番組の主張だった。
しかし、こうした見方には注意しなければならない。社会の変化をどの程度のスパンで見るかに、大きく影響されるからだ。
第一に、時代的な流れを見る必要がある。
ほんの150余年前までは、日本は封建身分社会であり、武士とその他の身分では、生まれによって、大きな違いがあった。武士のなかでも、大名に生まれるのと、幕府の御家人に生まれるのとでも、相当な影響の差が出ただろう。もちろん、そういうなかでも、個人の努力の余地がなかったわけではない。福沢諭吉のように、貧しい下級武士に生まれても、世の中の激動を生き抜いて、歴史に名を残す偉業をなし遂げた人物もいる。