前回以下の課題を提示して終わった。
第一に、競争的な試験ではなく、子どもが選択することに、教師たちが賛同できるかという点。
第二に、競争的な試験なくなって、子どもたちは勉強するのだろうかという点である。
第一の問題を考えてみよう。これについては、ふたつの大きな転機があった。ひとつは、教師に対する生徒・学生からの授業評価の普及であり、近年は下火になったが、公立小中学校の選択制度である。大学では、学生による授業評価は、ごく当たり前になっている。しかし、それが実際に、何か具体的な対策として活用されているかどうかは、かなり疑問である。私の大学では、本人に結果を知らせる学部がほとんどで、結果を教員全体が共有して、議論する学部はひとつだけだったと思う。しかし、そこでは、評価の高い教員はますます高くなり、低い教員はその逆で、格差が埋まるよりは、拡大することが多く、もっとも重要な評価の低い教員の授業改善には、そうした討議をしても、意味ある結果が出ていないと聞いている。だから、これらはあくまでも形だけの評価にとどまっており、実質的な変化をもたらす評価ではない。例えば、担任を子どもたちが選ぶとか、学校を選ぶという、明確に結果がでることについては、これまで教師たちは拒絶反応を示してきた。学校選択制度が提起されたときには、明確にそうした対応をとった。
基本的に、学校や教師は、選ばれる立場になることに、拒絶的であるといえるだろう。高校の入試や大学の入試も、受験生に選ばれているのだが、しかし、入試をすることで、受験生を選んでいることで、最終的には選ぶ側に立っている。こうして格差構造が固定され、格差を駆け上がる意志をもった人は、競争に邁進することになる。
では、子どもたちが選択し、それが格差に結びつかないシステムはありうるのだろうか。
それは、社会のなかにあるべき教育は、多様であることを承認することから始まる。質が異なるものは、比較に意味がない。多様な教育のなかから、進みたい、学びたい教育を、学ぶ側が選択するシステムのほうが、ずっと本気で学ぶことになるはずである。
現代社会において、国家がひとつの教育内容を国民に押しつけることは、既に国家や社会の発展にとって、到底好ましいとはいえないこと、そして、当然、教育を受ける側にとっても、桎梏であることを理解する必要がある。兼子仁氏が、通学区指定制度を容認するために、どの学校でも一定の水準が保たれていることを理由としていたが、当時ですら、それはかなり疑問であったが、現在では、「国民が求める教育」そのものが実際に多様だから、通学区指定制度は、国民の教育権に合わない。そして、多様な教育をするような学校を認めることになれば、当然国民は学校を選択することになる。そういうシステムでは、進学先の学校が入試選抜を行うのではなく、在学校で卒業資格をえれば、自由に選択できるシステムでなければならない。
このようなシステムにおいては、競争的な試験ではなく、子どもが選択することが可能であり、教師も受け入れるだろう。
第二の問題にいこう。入試を廃止して、子どもたちは、勉強するのだろうかという問題である。
残念ながら、現在の大人のほとんどは、試験のために勉強して育ったひとたちで、教師も例外ではない。だから、楽しみで勉強するということを、感覚的にわかっていない人が多い。それは、例えば、教師をめざす学生たちへの指導で、「子どもが、なんで勉強しなければいけないのか、理由がわからない」という質問を受けたとき、どう対応するか、という課題をだすと、まず例外なく、「将来のために必要なのよ」という回答を与えると学生たちはいう。しかし、子どもは、将来のことを考えて、今苦しい、嫌なことなどしないものだし、本当に、学校で学ぶことが将来必要なことかもわからない。学生だって、本当にそう思っているかあやしいものだ。
だから、理屈ではわかっていても、実行はなかなか難しいとは思うが、基本的に、人間は知的好奇心をもっており、知的なことに対して、積極的な本能があると考えるのが妥当だ。だからこそ、これだけ複雑な言語体系を、正確に使えるようになるのだ。言語の修得がどれだけ大変かは、国民の誰もが、英語の学習をしたときに実感している。しかし、育っていくなかで、周囲の言語環境に促されて、人はごく自然に、現地の言語を修得していく。これは、環境が整えば、他の知的なことについても、自然に欲求が向かうと考えるのが合理的である。
では、そうした環境とは何か。
まず、何か知るということを、積極的に受け入れる、奨励する雰囲気があること。
何か知りたいことが起きたとき、それがどんなことであれ、積極的に認めること。そんなことは意味がないとか、将来役に立たないとか、現在の大人の感覚で否定しないことである。
何か観察したり、実行したりすることを、それが他人への迷惑行為や害のある行為でない限り、尊重すること。
だれでも経験があると思うが、人から義務として押しつけられたことは、あまり積極的になれないものだ。それに対して、自分が興味のあることは、それが小さなことであっても、夢中になれる。そして、夢中になったことが、もっとも進歩する。「好きこそものの上手なれ」というのは、まったく正しい。
こうした環境に置かれれば、人はだれでも、積極的に勉強するに違いない。そして、今後はそのようにして学んだことが、将来社会にでて活動するときに、役に立つのだと思うのである。現在のように、義務として学ばせることを拡大し、しかも、行事や部活など、ほとんど強制的で、各人の適性を無視した活動を課しているなかで、伸びる能力などは、大変脆い、剥落しがちなだけではなく、もっと悪ければ、途中で拒絶反応を起こしてしまうに違いない。不登校の多くは、そうした拒絶反応ではない。
もちろん、そのためには、競争試験による選抜・入試を廃止することが、最も必要なことである。