日本は本当に能力主義社会か7 中教審後期中等教育答申の検討

 経済審議会の答申が1963年1月にでて、文部省は、同年6月に中教審に「後期中等教育の拡充整備について」という諮問を行う。理由として掲げられているのは、科学技術の革新、それに伴う社会の複雑高度化、各種人材の需要等に対応すること、そして、そのために、国民の資質と能力の向上を図るための適切な教育を行うためということをあげている。そして、検討すべき問題点として、
1期待される人間像について
2後期中等教育のあり方について
をあげている。そして、1966年10月に答申がだされたわけである。時期的にみれば、経済審議会の答申を受けて、文部省が「中等教育の完成」に対応する施策をまとめたことになるだろう。中教審の会長は、森戸辰男だった。森戸は、戦前東大の助教授だったときに、執筆した論文が問題とされて東大を追われた人物であったが、おそらく、戦後は、戦前的なリベラリストとして、政策立案に関わることになったのであろう。そして、次の戦後中教審の最も重要な答申といわれる46答申(1971年)をまとめることになる。

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日本は本当に能力主義社会か6 経済審議会答申の検討3 中等教育の完成

 人的能力の開発政策は、教育面においては、ハイタレント要請と中等教育の完成がふたつの柱になっている。今回は、中等教育の完成について、検討する。
 教育訓練の側における能力主義の徹底といっても、それぞれ多様な個性・資質・能力があるから、それに応じた教育は、画一的なものではなく、コースの多様化、進級・進学の弾力化、ガイダンスの強化、試験制度の改善等が必要であるとする。そして、これに、中学で学校教育を終える者のために、その後も何らかの制度的な教育を与えることが、中等教育の完成ということである。ヨーロッパでは、義務教育を終えて、次の全日制の学校に進学しない者は、成人に達するまで、週2回程度学校に通う義務就学の規定があり、企業もそれに協力する必要がある、という体制をとっている国が少なくない。答申の提言は、成人に達するまでではなく、高校教育の終了程度までを想定している。(もっとも、今後日本でも成人年齢が18歳になるから、この制度を実現すれば、成人に達するまでは、すべての者が教育をうける義務をもつことになるのだが、現時点では、そうした政策案は提示されていない。)

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真子内親王の結婚が本決まりとか

 今日のニュースとワイドショーは、この真子内親王と小室圭氏の結婚が本決まりという話題でいっぱいだった。そんなに驚くことでもなく、ずっとそうした意思表示がなされていたので、その通りに実行するのだということだが、それなりの影響があるのではなかろうか。
 まず、日本ではなく、アメリカで生活し、二人が、日本との公的なつながりはほぼなくなるということは、けっこうなことだろう。そういう形での結婚に対して、周りがあれこれいうことではない。唯一心配だったことは、小室圭のような人物が皇室と関係をもつようになるということだったが、実質的にそれは、ほぼなくなるということで、結婚するとしても、もっとも社会的に悪影響がない形なのが、ほっとする材料といえる。
 真子内親王としては、とにかく結婚できること、小室圭氏としては、世界で最古の王室のメンバーと結婚するという、アメリカでは特に有利な社会的条件を実現できることで、双方のメリットがあるのだろう。しかも、日本での生活は、何かと騒がれ、あまり愉快なことではないから、当人たちにとっては、最善の選択であると想像できる。別に祝福する気持ちはないが、「こんな人物と結婚しても、真子さんは幸せになれない」とか「皇室メンバーと結婚するような人物ではないとか」そんなことをいうつもりもない。

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日航ジャンボ機事故の不可思議

 森永卓郎氏が、毎日新聞に「日航123便はなぜ墜落したのか」(8月12日)という文章を書いている。この事故は、世界史上最大の民間飛行機事故であり、かつ、原因が不明であるにもかかわらず、きっちりとした分析記事が、大メディアに掲載されることは珍しい。そういう意味で、この森永氏の文章は大きな意味がある。その意味は、ここで、自衛隊のミサイル誤爆が原因として仄めかされていることである。
 この事故には、いくつもの原因の推定がある。
・ボーイング社による修理ミスで、尾翼の一部が吹き飛び、油圧系統が破壊されて、操縦不能になった。
・アメリカによる誤爆
・自衛隊による誤爆

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日本は本当に能力主義社会か5 経済審議会答申の検討2 ハイタレントとは

 経済審議会答申の中核は、ハイタレント養成であるように受け取られている。そこで、答申のハイタレントとは、どういう存在なのか、その養成のために何が必要だと提言しているのかを確認しておこう。前回は答申本文を扱ったが、本文のあとに、各分科会報告があり、教育に関係するのは、「養成訓練分科会報告」であり、ここで、ハイタレントを扱っている。
 
 まず、何故ハイタレント養成が必要か。社会的要請と、それに応えられない現状の問題というふたつから主張されている。
 必要性は、日本経済の構造変化であり、新しい経済・技術状況への対応が必要だという点にもとめている。そして、その対応には、自主技術を確立する必要がある。つまり、その後もさんざんいわれ続けたことであるが、追いつき追い越せ型の経済では、欧米の先進技術を学び、それを改良することで、国際競争に参加することができた。しかし、今後は、自主的な技術を開発していかなければ、日本経済が成り立っていかないという危機意識である。この答申では、あまり触れられていないが、結局、その後強力になってくるNIESなどに、既存技術の面では、逆に追い越されてしまい、既存の領域では、むしろ敗北してしまうことになる。実際に、この危機意識は、その後の日本経済の停滞によって、証明されたといえるのである。しかし、当時はまだ高度成長の真っ只中であり、日本の国力がどんどん伸びていた時代だから、こうした、あまりに長期的視野にたった提言は、なかなか理解されなかったともいえる。

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日本は本当に能力主義社会か4 経済審議会答申の検討1

 能力主義を日本の社会と学校教育にもたらしたのは、1963年に、経済審議会が答申した「経済発展における人的能力開発の課題と対策」である。それ以外にも、いくつもの答申が重ねられ、中教審でも、呼応する答申があるが、まずは、中心的な位置を占めていると認識されていたこの答申を、じっくり読み返してみることにした。
 当時、日教組やそこに結集する学者たちにとって、この答申は、完全に批判の対象であり、乗りこえるものだった。しかし、その批判は、特に教育学の面では、一面的だったように、今では感じられる。この答申が、着実に実行されたから、日本社会が格差社会となり、さまざまな社会問題や教育問題を喚起したのではなく、むしろ、歪んだ実行や実行されない部分があったために、問題が噴出したという見方も成立するように思うのである。(*1)そこは、今後検討するとして、今回は、この答申には、どのようなことが提言されていたのかを確認しておくことにする。

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日本は本当に能力主義社会か3 能力主義の定義

 では、能力主義とは何か、その意味をまず整理しておこう。 
 まず英語で確認をしておこう。
 研究者の新和英大辞典は、能力主義に対して、a merit system, a meritocracyを例示し、逆に、  meritocracy に、能力主義社会という訳語を与えている。
グロービス経営大学院のホームページでは 
 能力主義 → ability-based pay 
   成果主義 → result-based pay
   実績主義 → merit-based pay
という3つの関連用語に、それぞれ英語を当てはめている。いずれも、給与の支払い方である。経営学としての用語に特化しているということだろう。では、一般の英語辞書ではどうか。

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パラリンピック学校連携観戦への疑問

 パラリンピックが始まり、オリンピックではほとんど中止された学校連携観戦が、かなり減ったとはいえ実施されている。オリンピック開始時とは比べ物にならないほど、コロナの感染が拡大しているにもかかわらず、学校連携観戦が強行されているようにみえる。そして、強行であることからくる、いかにもおかしな対策が取られている。そして、ましなことだと思われることでも、批判されたための後追い策になっている。
 例えば、当初公共交通機関を使用して、ひとつ前の駅で降りてから徒歩で会場にくるようにという指示だった。それは、最寄りの駅は、観客が多く利用するので、子どもたちは歩けということだった。この炎天下に、本当に歩かせていたら、かなりの熱中症患者がでただろう。それが、貸し切りバスを使用することが認められた。無観客になったからだ。しかし、駐車場等が使用可能かどうかはわからない。主な会場の周辺は、厳しい道路制限が実施されているから、会場によるようだ。

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日本は本当に能力主義社会なのか2 日本経済の停滞と二世政治家

 能力主義原則は、近代社会の原則のひとつであり、古代や封建時代への復古主義者でもない限り、だれでも原則的には積極的に認めるものである。しかし、他方、その弊害もずっと指摘されていた。そうした検討は、次回以降に譲るとして、今回は、能力主義が、日本では徹底しているどころか、軽視されていることを示す。
 
 まず次のグラフをみてほしい。

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日本は能力主義社会なのか1 疑問

 これまで、教育学は、日本の教育が競争主義的で、それが様々な格差を生み、いじめなどの問題を噴出させている、そして、その背景となっているのが、能力主義であるという批判を行ってきた。4回にわたって行った日教組教育制度検討委員会報告の検討も、報告が日本社会・教育の能力主義を克服することを、基本的な原理としていたことを示した。
 しかし、私は、ずっと長いこと、本当に日本の能力主義社会なのかという疑問をもってきた。むしろ、日本は、能力を正当に評価しない社会なのではないかと思わざるをえない面が多々あるように思われる。私自身の就職活動の経験でも、能力が正当に評価されたと感じたことは、極めて少ない。大学の教師としての公募に応募する機会は、いまの学生の就活と比較すると非常に少なかったのであるが、結局、コネなどで排除され、極端な例では、「業績がありすぎる」ということで否定されたことすらある。結局、採用してくれた大学は、正当に能力を評価してくれたのだと思うが、(多くの人が提出した指導教授の推薦状を、私は求められていなかったのでださなかったくらいだし、実際に面識のある人は、まったくいなかった)それは、例外的だと感じたものだ。
 就職活動をしている人たちで、自分が正しく評価されたと感じた経験は、どのくらいあるのだろう。
 ここで、分かりやすい例をあげてみよう。次にあげるのは、戦後の日本の総理大臣の出生である。

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