日本は本当に能力主義社会なのか2 日本経済の停滞と二世政治家

 能力主義原則は、近代社会の原則のひとつであり、古代や封建時代への復古主義者でもない限り、だれでも原則的には積極的に認めるものである。しかし、他方、その弊害もずっと指摘されていた。そうした検討は、次回以降に譲るとして、今回は、能力主義が、日本では徹底しているどころか、軽視されていることを示す。
 
 まず次のグラフをみてほしい。

 
 
 2019年における「一人あたり国民総生産」のOECD内におけるランクであり、日本は21位で、G7では最下位である。日本より下位になっているのは、ほとんどが旧東欧圏の国々だ。日本は、GDPが世界3位であるとして、経済大国と見なされているし、日本人自身がそう思っているが、真に国民の豊かさを示すものは、全体のGDPではなく、国民一人に換算した数値であることは、常識であろう。その数値が、20位代になっており、これは今はもっと下がっていると考えてよい。そして、G7の推移を示したのが次のグラフである。
 
 G7でのランクであるが、これをみると、バブルの時期はアメリカに続いていたが、その後どんどん低下し、現在では最下位をキープしていることがわかる。(グラフは、いずれも https://www.jpc-net.jp/research/assets/pdf/R2attached2.pdf より)
 どうしてこのようなことが起こったのだろうか。全体の経済規模も、また、国民一人あたりの国民所得もアメリカについでいた時代があったにもかかわらず、それが再び上昇することもなく低下し続けたのは、説明可能な理由があるはずである。
 また、この推移をみると、いくつかのメルクマールがあることに気づく。
 高度成長によって上昇した所得が、石油ショックで落ち込み(1975年)、それを克服して、一気に経済力があがり、アメリカをも脅かすようになる。(1980年代)しかし、バブルがはじけて(1990年代)急降下、一端2000年代に持ち直すも、リーマンショック(2008年)で墜落し、その後ずっと低空飛行の状態である。
 そして、もうひとつの側面として、日本の経済が上昇気流であった1980年代までは、政府が経済計画を作成して、それを下敷きに行政指導していたこと、多くの大規模な国営・公営企業が存在したことが特質であった。そして、政治のリーダーである総理大臣は、自らその地位を勝ち抜いて得たひとたち手あった。
 それが、中曽根内閣以来の民営化によって、国営企業の民間企業への転換がおき、いわゆる新自由主義政策が導入された。しかし、日本に限らないが、新自由主義政策は、全体的に自由を尊重するのではなく、労働組合などを抑圧する国家管理体制を強化する政策でもあった。それが経済の活性化をもたらすものだなどと宣伝されたが、実際には長期の経済停滞をもたらしたのである。
 教育政策の面では、PISAを利用した学力テスト体制を構築し、更に道徳教育の教科化などの復古主義すら導入された。
 そして、政治リーダーなどをみると、この日本経済が低迷し始めた時期と、政治家の二世・三世化が進んだ時期、そして、二世芸能人が輩出してきた時期が重なるのである。
 1980年代は、アメリカによる猛烈な巻き返しがあった時期であり、今のアメリカの経済を担っている巨大IT企業は、いずれも1980年代から90年代にかけて起業されたものだ。この時期、日本は、旧来の経済の発想で、不動産投資に資金を注ぎ込み、国営企業の民営化の分捕り競争に注力していたのだろう。
 
 もう一度二世・三世政治家に戻ろう。一世の政治家は、まず選挙区域の住民に、自分の政治姿勢や政策を理解してもらい、また人間としての信頼感をかちとらねばならない。そして、自分のために活動してくれる協力者たちも確保する必要がある。そのために、非常な努力と工夫・能力が不可欠である。しかし、そうしたことが継続して、ある程度安定すれば、二世は、それをそのまま継承することができる。つまり、二世政治家にとっては、努力も工夫も能力も、不可欠というわけではないのだ。前回掲載した首相の実績をみると、二世・三世の首相の実績は、一世に比較して明らかに劣る。そして、その時期と、日本経済凋落の時期がほぼ重なるのである。とすれば、当然の仮説として、能力のない首相が日本を長く指導したために、適切な政治が行われず、そのために日本の国力が低下した、ということが出てくる。これは、もちろん、仮説であって、科学的検証などは不可能だろう。だから、さまざまな側面をみて、論理的に考察する以外はない。
 
 まず二世・三世の政治家が主要な位置を占め、ほぼ総理大臣を独占してきたことは、国民にとっては、何を意味するだろうか。それは端的に、日本の政治が停滞し、解決能力を失っているだけではなく、失っていること、停滞していることを、国民が気づかないか、あるいは、許容していることを意味しているのである。違ういい方をすれば、政治に絶望しているともいえるが、それはあまりに国民を美化しすぎている。政治家だけではなく、芸能人の二世化が進んだこともあわせて考えると、状況の理解が進むのではないか。芸能人は、国民に広く、名前が知られ、活動が見られている存在である。そして、何か芸をする存在だ。芸をするには、高い技術をもち、それを獲得するために、多大な努力と鍛練が必要だ。そして、競争を勝ち抜いて、人気と仕事を獲得していく。しかし、二世は、環境が技術や能力の形成を助けるとしても、競争に晒されて勝ちぬいていく修羅場を省略することが多いから、当然、一世よりも技術的能力的に見劣りすることが多い。もちろん、私の主観的受け取りであるが。そういう二世タレントが人気をもてるということは、国民が、技術や能力をそれほど重視していないことを示している。
 
 そこで、以下のような仮説をたててみることにする。
 「日本は、1990年前後から、能力をあまり重視しない社会となり、そのために、社会の経済的活力が失われた。」
 そのための検証をさまざまな側面から行い、適切な能力の活用はどのようなものなのかを考えていくことにする。
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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