政教分離を考える2 宗教法人への課税が鍵

 憲法には、もうひとつ重要な条文がある。
 
〔納税の義務〕
第三十条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
 
 この「国民」は、かならずしも日本国籍をもつ個人ということではなく、所得を日本でえれば外国人にも適用されるし、また、法人も同様である。しかし、常に問題になるのが、宗教法人の宗教活動に対する非課税措置である。何度も書いているように、宗教は「私事」であるのに、宗教法人への非課税は、矛盾している。非課税にする場合「公益」事業であることが前提であるが、「私事」の活動が「公益」であるはずがないのだ。つまり、宗教法人を非課税にすることは、憲法の禁ずる国家が特典をあたえていることであり、本来収めるべき税金を国家が宗教法人にあたえていることになる。宗教団体が税を免除されてきたのは、古来から古い制度的慣行であるが、それは、近代的な人権概念とは相いれない。つまり、本来撤廃されるべきであるのに、残滓として存続しているだけのことなのだ。

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政教分離を考える1

 安倍元首相暗殺で、にわかに統一教会への注目があつまり、政教分離問題が議論されている。政教分離法を制定しろなどという意見もでていて、議論がずれるか、あるいは、無意味な議論をしているうちに収束してしまう可能性がある。
 政教分離というのは、国によって形態が異なるという点では、やっかいな論点があるし、日本国憲法でも極めて明快な規定をもっているが、運用は多くの論点があり、かならずしも憲法通りに守られているわけでもない。宗教に関わる憲法の規定は以下の二条である。
 
〔信教の自由〕
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
〔公の財産の用途制限〕
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
 
 こうした規定が、正確に守られているという実感をもっている人は、おそらく少ないに違いない。だから、基本から考え直していく必要がある。
 
習慣としての宗教性

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安倍元首相狙撃考察7 安倍晋三の評価2

 いくら安倍氏への批判が強かったとしても、長期政権を維持し、多くの専門家から、高いかどうかは別として、それなりの評価を得ていたことは確かだ。しかし、その評価のされ方も、いかにも安倍氏らしいものがある。
 例えば、高橋洋一氏である。これはyoutubeで安倍氏を高く評価しているが、しかし、その理由が、聞く限りにおいては、自分の助言をよく受け入れたということなのだ。安倍氏は、たくさんの助言者を抱えていて、何か判断をしなければならないときには、助言者に電話をして、判断を仰いだという。もともと、自分の信念や大きな制度構想をもっている人ではないから、とにかく日々の施策の判断だ。当然助言者のいうことを素直に聞き入れる。助言者は、自分の助言を受け入れて、それを実行してくれるのだから、当然安倍氏を高く評価するというわけだ。

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安倍元首相狙撃考察6 安倍慎三氏の評価

 日本では、というより、だいたいにおいて民主主義国家では、政治家は生きている間にはさんざん批判されるが、死ぬととたんに評価が高くなると言われている。それに対して、独裁国家では、生きている間は崇められるが、死ぬと途端に酷い人物だったということになる。スターリンなどをみればわかる。
 安倍元首相も、とにかく死後もちあげる人がたくさん出ているから、日本は、民主主義国家ともいえるが、しかし、安倍晋三という人については、生前から、批判も礼賛も極端な人だった。民主主義国家における独裁者的資質の政治家だったといえよう。独裁者の大きな特質は、自分に批判的な人間を許さないということだ。広島における河合夫婦の事件をみればわかる。安倍氏の能力に疑問を呈した溝手氏を追い落とすことが目的だったことは明白であり、それは執拗に行われた。もちろん、山上の犯行(かどうかが、あやしくなったことは、昨日書いたが、一応山上が犯人ということになっているし、犯行の一部を分担したことは間違いないから、ここではそのように扱う)が正当化されることは絶対にないが、もし、日本で暗殺の対象となる政治家を考えると、まっさきに安倍氏が思い浮かべる人は、多かったに違いない。暗殺の対象となることは、決して政治家としてだめなわけではない。リンカーンやケネディをみればわかる。むしろ、民衆のために尽くした政治家だからこそ、そうでない裏の世界の支配者たちにとっては、憎むべき存在で、暗殺の対象になった人も少なくないといえる。しかし、殺したいほど憎まれているということでもある。

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安倍元首相狙撃考察5 山上は本当に犯人か?

 安倍元首相の殺害については、大きな疑問が当初からあった。そして、それはほとんど解決されていない。つまり、解明するような情報が提供されていないということだ。
 安倍氏に致命傷を与えたにもかかわらず、一度に6発の弾が発射される他の4弾で、誰も怪我をしていない。流れ弾に被弾する人が必ずいるような状況であるにもかかわらずだ。だから、あの銃は実際には空砲であって、弾はでないのではないかという推理も存在する。
 それから、一発目の射撃があって、安倍氏が振り向くが、二発目は、テレビではまったく映像が切られてしまう。当然二発目の状況も、もとの素材には映されているはずであるのに。これまで、私は、撃たれた瞬間だから、残酷な映像であるとしてテレビではカットしているのだと思っていたが、どうやら違うようだ。
 しかし、ネットには二発目が撃たれたときの安倍氏の状況の映像がある。

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またも日本の新薬が承認されず

 厚生労働省の公開審議で、塩野義製薬が開発した「ゾコーバ」に対して、緊急承認制度を適用することを見送ったと報道されている。
 報道によると、「審議にあたり、薬の有効性や安全性を審査する医薬品医療機器総合機構(PMDA)は「有効性が推定できるとは判断できないが、医療・社会的観点から、本剤をより早期に使用可能とすることの検討も可能と考える」という報告書をまとめていた。6月の専門部会では追認する意見が上がる一方、否定的な意見も根強かった。」ということだが、結局、有効性が不十分だということだったのだろう。

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吹奏楽コンクールの問題

 夏は高校野球のシーズンという人が多いが、吹奏楽コンクールのシーズンでもある。私は、中学時代吹奏楽部に入っていたが、コンクールにでたことはなく、2年後輩くらいから出ていたと思う。そして、勤めていた大学は吹奏楽の名門で、吹奏楽部に入りたいので志望したという学生も少なくなかったほどだ。毎年金賞を獲得していたくらいだ。
 しかし、私は吹奏楽のそうしたコンクール至上主義に強い疑問をもっていたところ、youtubeの車田和寿氏が、問題を指摘しているのをみた。
 氏の指摘する問題は、コンクールに勝ちたいという目的に集中して練習をすると、ただひたすら揃った演奏、音程が正確な演奏をめざすようになってしまい、音楽そのものが軽視されるということだ。これは、私が属している市民オケにやってくる指揮者で、吹奏楽の指導もしている人は、共通にいうことだ。というよりは、とにかく、正確だが、角張った演奏をするという。

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対照的なワイドショー モーニングショーとミヤネ屋

 昨日(7月18日)のワイドショーで、対照的なふたつをみた。ひとつは、羽鳥のモーニングショー、もうひとつは、情報ライブミヤネ屋である。そして、モーニングショーがネットでも、その後大きな話題になっていたようだ。
 モーニングショーでは、有田芳生氏が出演し、統一教会と自民党、政界のつながりを遠慮会釈なしに、暴露していた。玉川氏なども、あっけにとられ、羽鳥氏は、とまどっている風だった。そのくらい、テレビ局で語られる話としては、衝撃的だった。もっとも、youtubeなどでは、普通に語られていることではあるのだが。その最もコメンテーターにとっても衝撃的な話というのは、有田氏が警察関係者30人程が出席している場に講演を頼まれていった。目つきの鋭いひとたちばかりで緊張したそうだ。そして、警察として、統一教会を捜査する準備を進めていたというのだが、一向にその動きがない。10年くらいたって、警察の上層の人に聞く機会があったが、警察としてはやる気だったが、結局政治的な圧力でやれなくなったという話だった。

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理工系学生を50%にという未来像

 (昨日執筆したのをアップを忘れていたものです)
 政府の教育未来創造会議(議長は岸田首相)が、5月に、理系分野の大学生のわり意を2032年ころまでに50%に増やす目標を掲げ、現在文科省が政策工程表を作成しているという。
 いろいろ議論があるようだが、基本的に私は賛成である。私事になるが、私は自分の子どもに、将来何になるか明確に決めていないのであれば、大学の学部は理系を選択したほうがよいとアドバイスし、二人とも理系に進んだ。ひとりは生物の研究者になったが、ひとりは、仕事としては文系的な仕事をしている。ただ、理系であったことは、大いに役に立っていると思う。そのようにアドバイスした理由は単純で、理系から文系に移すことは、それほど難しくないが、文系だったのに、途中から理系に切り換えるのは、かなり難しいからだ。つまり、選択肢を広くしておくことができるという程度のことだった。
 しかし、そのことは、人間の成長を保障する観点では、非常に重要なことだと思う。大学で学ぶということは、ある意味専門家になることである。では、専門家とは何か。これは、JSミルの定義が最も優れた、めざすべき専門家像を示している。それは「あらゆる領域について少しずつ知っており、ある特定の領域についてすべて知っている」という専門家定義だ。もちろん、そんな人はほとんどいないし、ミル自身も、自分をそのように思っていなかったに違いないが、しかし、そういう姿をめざすという意味での指針として、とても重要な観点だ。つまり、幅広い知識と、ある分野について深く理解している、そして、それを社会的な課題と結び付けて、対策を提示できる、それが専門家というものだと思うのである。

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井上道義氏の指揮者引退説明

 厳選クラシックちゃんねるというyoutubeで、井上道義氏がインビューを受けていて、2024年暮れに引退する理由を述べている。
 指揮者の晩年という文章をいくつか書いている関係から、興味をもって見た。
 だいたいにおいて指揮者は生涯現役の人が多い。指揮中に倒れて、そのまま亡くなる人も何人かいるくらいだ。私の知る限り、世界のトップ指揮者で、明確に引退宣言して、事実引退した人は、トスカニーニとジュリーニくらいだ。ワルターは引退宣言をしたあと、コロンビア・レコードの説得で、ステレオで主なレパートリーを世に残すために、録音活動を最後まで行い、ごくわずかな演奏会にも出演した。つまり、引退後に復帰したわけだ。
 トスカニーニは、何度も引退の意思を固めたが、自分が引退するとNBC交響楽団が解散になることがわかっていたので、なかなか踏み切れなかったところ、ある演奏会で、本番中に記憶を失ったために、引退を決意し、イタリアに帰ってしまった。ジュリーニの引退の理由はわからないが、活動をかなり制限していたので、純粋に自由になりたかったのだろう。
 
 井上氏へのインタビューは、好きな作曲家の話が大部分を占めているが、最後のほうに、引退理由を述べている。そのなかで、大指揮者の晩年をみて、あのようになりたくないと思っている、という理由をひとつあげていたのが、面白かった。

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